リアリズムと防衛を学ぶ

本の感想などを書いています。

集団的自衛権の起源と、戦争の克服

 しばらく前、「集団的自衛権」という言葉がテレビや新聞でよく見られました。そろそろ静かになってきたので、いつもの通り政治的な主張はさておいて、基本と起源を抑えつつ「集団的自衛権と平和の関係」について書いてみます。

 集団的自衛権に賛成の人は、日本の安全のために必要なんだというし、反対の人は逆だ危険だといいます。両方とも「日本は平和で安全な国であってほしい」という目的意識では共通していますね。だけど、どうやって平和と安全を確保するかという手段の点で意見の対立があるようです。

 これは現代日本に限らない悩みです。昔から世界中の人が平和をつくるより良い方法を考え、やってみて、失敗し、また考え続けてきました。その過程で誕生したアイデアの一つが「集団的自衛権」です。

 この記事では集団的自衛権の誕生の経緯を振り返ることで、人類が平和の作り方についてどういう試行錯誤をしてきたかを解説します。これからどうすべきかを考えるには、これまでどうだったかを振り返る必要があるからです。

集団的自衛権とは何か

 国際社会において、国家が軍隊を使って他国を攻撃することは禁止されています。でも、他国に攻撃された時に軍隊を使って戦い、自国を守るのは認められています。これが個別的自衛権です。自分を守るために戦うのはOK。これはまあ、何となく分かる気がします。

 同じように、自国と密接な関係をもつ国が攻撃されたときに、「助けてくれ!」という要請に応えて侵略国と戦う権利。これが集団的自衛権です。なにそれ?

 「分かりにくい」と思うのは、現代の日本から見てるせいです。最初にコレを考えた人たちが何に悩み、何を恐れ、何のために集団的自衛権というアイデアを発明したのかを見てみましょう。

集団的自衛権はいつ、どこで誕生したのか?

 集団的自衛権が誕生したのは1945年4月から6月のこと。サンフランシスコ会議で採択された「国連憲章」に明記されたのが始まりです。

 その頃、日本では凄惨な沖縄戦の真っ最中。日本はまだまだ戦争を続けるつもりでした。同じ頃、アメリカでは国際会議が開かれ「第二次世界大戦は終わりそうだけど、これからどうしよっか?」と50ヶ国余が話し合っていました。

 一つ前の会議で作られた「ダンバートン・オークス提案」をもとに、サンフランシスコ会議で話し合ってできたのが「国連憲章」。その第51条で「個別的及び集団的自衛権は各国の固有の権利だ」と書いています。集団的自衛権というアイデアがこの世に生まれた瞬間です。

集団的自衛権は中南米を守るために作られた

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 集団的自衛権は、ラテンアメリカ諸国の運動によって国連憲章に加筆されました。会議の叩き台であるダンバートンオークス提案の段階では書かれていなかったのです。

 国連憲章では、正確にいうと「この憲章のいかなる規定も…個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と書いています。「国連憲章の規定は、ラテンアメリカ諸国の邪魔するのではないか?」という心配があったので、そんな心配は無用ですよ、と保証したかったのです。

 ラテンアメリカ諸国がは「国連憲章はチャペルテペック協定を無効化するのではないか?」と心配しました。この協定は会議の直前に締結されたもので、アメリカ大陸の国々で軍事的に協力して身を守ることにしよう、というものです。

 アメリカやソ連のような軍事大国なら、戦争になっても1国で自分の身を守れるでしょう。ところが中南米の国々はまだ貧しい軍事小国ばかりでしたから、大国に攻められたら、単独ではひとたまりもない。地域で身を寄せ合って共に戦う必要がありました。国連憲章はそれを邪魔しませんよ、と一筆書いて貰いたかったのです。

 会議に参加したコロンビア代表団のジェラス=カマルゴ外相は「集団的自衛権という言葉は、その起源 において、米州の地域的取極のような地域的安全保障制度を温存することと同義だった」と言っています。(国連とアメリカ (岩波新書)p99)

 集団的自衛権が国連憲章に明記されたのはこういうわけなのですが、ダンバートン・オークス提案も、ラテンアメリカ諸国の抵抗も、いずれもが、それまで人類が平和のために試み行ってきた数多い失敗が踏まえたものです。

同盟による平和

 戦争が起こっていない状態(消極的平和)を平和と定義するならば、平和達成の方法を人類は数多く試してきました。その最も古典的な方法が軍事同盟による平和です。利害が一致する国が同盟を組み、同盟の軍事力でもって外敵を抑止し、戦争を未然に防ぎます。現代でもよく使われるロジックです。

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 A国はD国との間に領土問題を抱え、近年ますます対立が深まっています。Aは軍事力に乏しい平和主義の国ですが、Dは発展いちじるしい野心的な軍事大国だと見られています。Aの弱さにつけ込み、Dが攻め込んでくるかもしれません。

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 Aは我が身を守るため、Bと同盟してDに対抗します。DはAに攻め込むと、Bからも反撃を受けるので、戦争をためらいます。Aは同盟によってDを抑止することができます。

 このようにして軍事小国でも身を寄せ合うことで大国に対抗すれば、特定の大国が横暴に振る舞うことはできません。仮に戦争をしても、対抗同盟によって反撃されるので、大勝利を収めることはできそうにないので、仕方が無いから平和が保たれるでしょう。

ささやかな成功 同盟による抑止

 19世紀のヨーロッパはこんな感じで、わりあい平和であり、戦争が起こっても小規模で済みました。

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 軍隊とフルートを愛したフリードリヒ大王は、こう言っています。「原則として同盟が交戦諸国間に力の平等な関係を作り出すので、現在、君主が成功を重ねてさえ、獲得を望みうるのは、せいぜい国境の小さな町かちょっとした領土に過ぎない。それは戦争の出費につりあわない」(古典外交の成熟と崩壊p38)

 バクチのような戦争を強行したフリードリヒ大王すら、こう思わせる。これが勢力均衡(バランス・オブ・パワー)モデル、同盟による平和です。

同盟が世界大戦を招いた

 ところが1914年には、同盟こそが大戦争のトリガーになりました。

 先ほどのA国とD国の話に戻りましょう。AはBと同盟してD国の脅威に対抗しますが、D国やそれに近しい国々から見れば、AB同盟こそ重大な脅威だと感じるでしょう。今度はDを中心とした同盟が生まれます。

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2つの同盟が対立して国際関係が固定化すると、とんでもないことになります。全ての国がどっちかの同盟に入っているので、中立の立場から対立を「まあまあ」と宥める仲介役がおらず、相互不信が解消されません。

 AからGまでの7ヶ国のうち、どこか2ヶ国の間で戦争が起こったとき。残る5ヶ国も同盟に従って参戦すると、普通ならただの2国間戦争で済むところが同盟対同盟の大戦争になってしまいます。

 「戦争はなぜ起こるか4 時刻表と第一次世界大戦」で書いたようにちょっとした事件が戦争に、戦争が大戦争へと拡大し、人類史上初の「世界大戦」が起こってしまいました。

 戦争を防ぐための同盟が、かえって国際関係に相互不信を起こし、戦争を拡大させてしまいました。「同盟の軍事力で平和を保とう」という人類の試行はそもそも間違っていたのではないか、と当時の人々は考えました。

平和主義と国際機構による平和

 今こそ別の方法を試してみる時でした。戦争の違法化です。

 大戦の後、1928年に発効された不戦条約は、戦争の違法化をある程度達成しました。つまり「国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし…国家の政策の手段としての戦争を放棄」し、平和的手段で紛争を解決することを各国が宣言したのです。

 また、世界大戦の反省から、当時のヨーロッパでは平和主義が台頭しました。フランスの軍人であり、後に大統領になるシャルル・ド・ゴールは著書でこう書きました。

・昔の兵士の役割は実に広範なものであった。しかし、現代ではその役割は縮小の一途を辿り、現代世界は軍隊なしに成立し得るといった幻想を抱いている。

・一般フランス人は、国際法や条約が戦争を防止してくれるものという信念をひとりひとりの中に育んでいる。

・前代未聞の戦乱の後、諸国民はかつてないほど戦争を憎悪している

( 剣の刃)

戦争や軍備を憎悪し、その代わり国際法や条約で平和を守ろうという平和主義の台頭です。例えば、イギリスの野党は再軍備に反対してこう主張しています。

「わが国の安全および世界の平和は、軍事力への依存によっては獲得することができない」

(1936年3月 イギリス政府の再軍備計画に反対した議会労働党の決議案)(三〇年代イギリス外交戦略―帝国防衛と宥和の論理 p299)

 現代でどこかの政党が決議しても違和感のない、立派な宣言です。戦争の悲惨から生まれた平和主義が欧州を席巻し、戦争を無くそうとしました。

 戦争違法化の流れは、第二次大戦後も継続し、国連憲章をもって一応の完成を見ました。この流れを受け、多くの憲法で戦争の放棄が明記されました。その中に日本国憲法も含まれます。憲法でいう戦争の放棄や平和主義は日本に独特のものではなく、戦争違法化を少しずつ進めてきた人類史的な潮流、その一支流をなすものです。

 これを誤解して「世界に類をみない平和憲法がある日本は平和国家で優れている」という捉え方をすると「日本は特別な神国で、アジア唯一の文明国として未開国を啓蒙するんだ」というのと異質同型なナショナリズムに回収される恐れがあります。

 自国が他国より優れているとする思想は「自国には他国を指導する権利がある」という独善主義に陥りがちです。それは「いかなる国にも他国を侵す権利などない」という思想の対極にあるものです。戦争の放棄や平和主義に価値が認められるのは、それがどこかの国の専売特許では「無い」からこそなのです。

 ともあれ、このような潮流によって人類は戦争を違法化し、ひとまずは国際連盟による平和が追求されました。

同盟の機能不全と抑止力の破綻

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 平和を求める声は、ヒトラーの耳にも届いていました。ただし、異なった響きをもって。

有名例としては, 1933年にオクスフォード大学の弁論クラフであるオクスフォード・ユニオンで行われた討論をあげることができる。

第一次世界大戦で2000 万人もの犠牲者が出たことから,半数以上の学生は,今後は二度と王や国家のためには戦うべきでないという命題に賛成した。

この討論を聞いていたのは, 学生たちだけではなかった。アドルフ・ヒトラーも聞いていたのである。

彼は民主主義諸国は軟弱だ,どうせ反撃してくるおそれはないのだから押せるだけ押してやれ,と考えた。((国際紛争 原書第9版 -- 理論と歴史p30)

ヒトラーは、軍事力を使った恫喝で領土を拡張しても、イギリスやフランスは反撃してこないだろう、と高をくくっていました。実際、ドイツの度重なる領土要求に対して、英仏は軍事制裁を行わず、代わりに小国をヒトラーに差し出す始末。英仏はドイツ領内に殴り込む余力を失っていたし、ドイツがソ連の脅威への壁になってくれるだろうという虫のいい期待感もありました。

 ヒトラーのバクチ的な軍事外交は成功を重ねます。その最終段階で英仏はついに「もしドイツがポーランドに攻め込めば、英仏はポーランド側に立って参戦する」と言って、戦争を抑止しようとしました。しかし、ヒトラーはこれを信じなかったので、第二次世界大戦が起こりました。

 戦争を嫌い、平和を求める意志が十分でも、それを実現するための軍事力を欠いた時、抑止力は失われて戦争が起こります。

国連の集団安全保障による平和

  第二次世界大戦のあと、人類はさらに別の手段を試すことにしました。国際連盟による平和は失敗したけれど、アイデアを改良することにしたのです。ごく簡単にいえば「国連軍が世界の平和を守る」ということです。

 まず全ての国の「武力の行使」を禁止します。「戦争」ではなく「武力の行使」を禁止したのは、不戦条約のあとも日本などが「これは戦争ではなく事変だ」と強弁して侵略に邁進したからです。

 もしルールを破って武力を行使する侵略国が出現すれば、それ以外の国々が連合して軍隊を組織し「強制措置」と呼ばれる武力制裁を行います。

 第二次大戦の前にも、侵略国への制裁は認められていました。しかし経済制裁が主であった上、制裁は各国が個別に実施することになっていたので、手抜きをする国がでて足並みが揃いませんでした。この反省から、多くの国が結束して武力制裁しなけば、侵略国にストップを欠けるのは難しいと考えられました。

 この構想が実現すれば「もし自国がどこかの国から侵略を受けても、国連軍がやってきて守ってくれる!」ということになります。…本当に?

「国連が守ってくれるから、自国の軍事力や同盟には頼らなくていい」と、少なくともラテンアメリカ諸国は考えませんでした。

国連は機能しなかった

 ラテンアメリカ諸国が国連軍を信用しなかったのは2つの理由があります。1つは拒否権、もう1つは時間の余裕です。

 侵略国に対する軍事的強制措置、いわゆる「国連軍」を編成するには、国連安全保障理事会が「この国は侵略国だ、憲章違反だ!」と認定して、強制措置の発動を決定せねばなりません。

 しかし「拒否権」をもつ米国、ロシア、中国ら常任理事国のうち、1ヶ国でも反対すればその決議は流れます。このため侵略を受けても、必ず国連軍が助けに来てくれるとは限らないのです。

 しかも、もし強制措置が発動されたとしても、戦争が始まってから国連軍が到着するまでにはタイムラグがあります。安保理が事態を認定し、決定し、各国が兵力を準備し、派遣する…。その間に、侵略を受けた国は全土を占領されたり、市民を虐殺されたりするかもしれません。よって、国連軍に期待するとしても、その到来までは自力で国を守らないといけません。

 ラテンアメリカ諸国が国連憲章に「ちょっと待ってくれ!」と言ったのはこのためです。「武力の行使の禁止」が、地域的同盟にもとづく自衛すら禁止するものなら、小国は危険な状態におかれると恐れたのです。自分は攻撃されていなくても同盟国を助けようとしても「待て、国連憲章は武力行使を禁止しているぞ」と禁止されたら、小国たちは一国、また一国と侵略国に呑み込まれてしまうでしょう。

 実際、拒否権の乱発によって国連の集団安全保障は機能不全に陥ったので、彼らの心配は正しかったといえるでしょう。(もっとも、国連軍ならぬ同盟軍なら確実に来てくれる、というわけでもないのですが)

集団的自衛権の誕生

 こうしてラテンアメリカ諸国の運動により、「武力行使の禁止」が合意された後にも、同盟という古典的な政策を存続させるため、集団的自衛権というアイデアが発明されました。同盟国のための武力行使は、国連憲章の禁止の対象外である、なぜならそれは自衛の範囲だから、というわけです。

集団的自衛権の功罪

 集団的自衛権の誕生と同盟の存続は、世界の平和に一役勝ったのでしょうか。それとも戦争の無い世界を遠ざけたのでしょうか。どちらの答えもイエスです。

 集団的自衛権が固有の権利として認められたことで、それを根拠として多くの同盟や集団防衛条約が結ばれました。中でも最大規模を極めた2つが北大西洋条約(49年)とワルシャワ条約(55年)です。この2つの条約はいずれも集団的自衛権を根拠として条文に記しています。

 両条約にもとづく同盟軍、NATO軍とワルシャワ条約機構(WTO/WP)軍が、ヨーロッパで睨み合っていたのが冷戦時代です。もし両陣営のいずれかの国の間で戦争がおき、エスカレートすれば、第三次世界大戦が起こるはずでした。同盟の存続は、大規模な軍事的対立も存続させたのです。

 「これは侵略ではなく集団的自衛権の発動だ」と、武力行使を正当化する例も多くみられました。ソ連によるハンガリー動乱、チェコ動乱への介入やアフガニスタン侵攻。米国によるニカラグアへの介入やベトナム戦争。そのほかリビアによるチャドへの武力行使などです。

 このような危険な世界において、各国は軍事同盟によって大戦争に巻き込まれる恐怖を持ちながら、軍事同盟によって戦争が抑止される希望のゆえに、同盟に身を委ねざるを得ませんでした。

  集団的自衛権を認めることで、世界の危険は温存されました。危険な世界で身を守るには、集団的自衛権が必要でした。これは抜けられない循環です。

21世紀、人類は進歩せず、世界はまだ危険

 集団的自衛権を廃止、つまりあらゆる軍事同盟を解消して、かわりに集団安全保障で世界を平和にすることは、まだできていません。抑止力が機能しない地域では、拒否権を持つ大国やその友邦国が隣国を侵略できます。

 2014年、ロシア軍がウクライナのクリミア半島に侵入しました。クリミアを実質的に占領した状態で、住民の投票を行い、ウクライナからクリミアを奪い取りました。かつてヒトラーのドイツ軍も、「オーストリア政府の要請だ」といって同国に侵入し、オーストリアを併合したのと似ています。

 世界は現在も、安全ではありません。武力に裏打ちされた、機能する同盟関係がなければ、国際の平和は保ち難いのです。しかしその一方、集団的自衛権が侵略の口実になったり、同盟関係こそが戦争を拡大させることも起り得ます。

 どの道にもリスクはあり、ゼロにはできないのです。

戦争克服への道

 100パーセントの答えは無いということ、そこから始めなければなりません。

 平和を愛して軍事力を忌避する人々は、第二次世界大戦を起こすでしょう。抑止を重視して軍事力に依存する人々は、第一次世界大戦を起こすでしょう。 

 「ダレス・バック」の名前の元になったことでも知られるジョン・フォスター・ダレスは、サンフランシスコ会議の後、国連憲章の批准をめぐり、上院の公聴会をこう締めくくりました。

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世界は、無政府状態からよく練り上げられた政治的秩序状態へと、一歩だけでは移ることはできない。

何歩も、それもふらつきながら進まねばならないのだ。これまでにもあったように、歩みを誤ることもあるだろう。(中略)

…永遠平和というものは、おそらく試行錯誤のみによってしか得られないものなのかもしれない。しかし、ともかくも試行せぬことには、決して得られることもないのだ。

 (ジョン・フォスター・ダレス 1945年 上院外交委員会)

ダレスはアメリカを国連憲章に批准させ、国連の時代を導きました。一方で冷戦時には日米安全保障条約などの軍事同盟の構築に尽力しました。

 過去の失敗を繰り返すのは愚かなことです。だからといって、不確実な未来に飛びつくのも軽率だと、やはり過去の失敗が教えています。だとすれば、とりあえず、その中間に道を拓いていくしかないでしょう。

 過去を反省し、未来に夢を見ず、現在の複雑さに耐えて、一歩一歩進むことです。それがいつの日か戦争の克服を見るための、人類の長い旅なのです。

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