&N 未来創発ラボ

野村総合研究所と
今を語り、未来をみつめるメディア

執行役員 NRIネットコム社長 田原 亜希子


約30年前に就職活動を行っていた頃、IT業界は、時代の最先端で知的でありながら手に職をつけられ、どこにいっても通用するといわれており、筆者は、この洗練された仕事への期待を胸にシステムエンジニアという職業を選択した。学生時代は情報工学とは無縁の専攻であったが、エンドユーザーとしてメインフレーム上で統計パッケージソフトウエアを利用し、従来の関数電卓との圧倒的な生産性の差も目の当たりにしていた。

人手頼みの限界、業務ソフトウエアと属人化

ところが、いざ業務ソフトウエア開発の現場に入ると、洗練とはほど遠い、泥臭く人手頼みの仕事が待っていた。業務仕様はすべて文書で書き起こし、それらを人が解釈し、プログラムに起こしていく。当然、文書には書き手による暗黙の前提や行間が含まれるので、受け取り側の解釈違いや抜け漏れも起きる。またプログラム自体も人が業務ロジックを書くので、ここでも実装誤りや漏れが発生する。これらの不具合をさまざまなテストで見つけ修正し、最終的な品質を担保するわけだが、そのテストを実行するのも結果を確認するのもまた人である。
さらに無事完成した後も、業務ソフトウエアは手放しで使い続けられるものではない。法制度から細かな業務ルールまで、取り扱われるデータや業務仕様はたびたび変更が入り、またソフトウエアが稼働する基盤のライフサイクルによって定期的に見直しが必要となる。初期開発から時間が経ち、これらの変更を重ねるにつれ、ソフトウエアの規模は増大かつ複雑化し、何か一つ見直すにしても調査・テストに多くの人手がかかるようになる。ここで重宝されたのが、「有識者」と呼ばれ長年その業務ソフトウエアの保守・運用を担当してきた人である。ただし、すべての業務ソフトウエアに対して組織としてそのような人を抱え続けられるわけではなく、仮に「有識者」が存在していた場合でも「属人化」という別の問題を抱えていた。
その後、技術の進歩とともに個々の作業の生産性は上がったものの、根本となる「仕様」と「ロジック」と「テスト」の一貫性担保のプロセスは人手頼みであり続けた。また、時代とともに業務ソフトウエアへの要求が拡大・深化し、より多くの人手を必要とするようになっていった。担当したお客様からは、業務改善や生産性向上への感謝のお言葉をいただき、世の中のお役に立っていることを実感し、やりがいもひとしおであったが、その仕組みを提供している業務ソフトウエアの人手頼みの体質は本質的に変わらないという矛盾を抱え続けている。

今こそ、人手頼みのプロセス脱却へ

ここまで書いてきた中で、筆者は業務ソフトウエアの泥臭い現場にネガティブな思いしかなかったのかというと、決してそんなわけではない。お客様と何度も打ち合わせを重ねて業務仕様を取り決めていくことも、自らソースコードを作り上げていくことも、テストケースを考え実行・確認していくことも、すべてがすんなりとはいかなかったが、でき上がった業務ソフトウエアには人一倍誇りを持っていた。また、保守・運用において、自分で開発した業務ソフトウエアでなくとも、その設計思想や背景を推測しながら調査を進めることは、どこか考古学にも似た知的な作業であった。
ただ、商用コンピュータが世の中に出て約60年が経ち、業界としても成熟期に入り、業務ソフトウエア開発のプロセスはより洗練されたものに進化していくことが要請されている。このような状況であるからこそ、今後ますます貴重になっていく人的資本を踏まえ、業界の継続性を担保するためにも、従来の人手頼みのプロセスを脱却すべきときがきているのではないか。

NRIの挑戦、生成AIが拓く新時代

業務ソフトウエアの開発・保守プロセスを変革するカギは「生成AI活用」である。短期的にはプログラム開発・テストなど個別の工程の生産性向上に寄与するが、変革の本丸は要件定義からリリースまでの全体適用である。これによって「仕様」と「ロジック」と「テスト」の一貫性担保のプロセスにおける人手頼みからの脱却が期待できる。野村総合研究所(NRI)も、「AI支援開発プラットフォーム(仮)」として、AI活用による効果を最大限に引き出すため、工程や設計情報を見直し、最適化された開発手法の検討に着手している。個別の工程への適用と比較すると長期の研究開発が必要であるが、効果はより大きいものとなるはずである。
また、生成AIは業務ソフトウエアの保守・運用における「有識者」のあり方も変えていく。従来、「有識者」とは長年の知識・経験とその人自身の能力が不可分な存在だったが、生成AIを用いて知識の蓄積・活用のプロセスを構築することにより、知的資本と人的資本に分離され、属人化からも解放されるようになる。
とはいえ、生成AIの活用が進むと、業務ソフトウエアの開発・保守は完全に自動化されるのかというと、必ずしもそうではなく、おそらく人の判断すべきポイントは残る。その際、人の情報処理能力における肉体的な限界がボトルネックにならないように工夫する必要がある。上司ならぬAIに「人間待ちです」と叱られる未来は勘弁してもらいたい。

プロフィール

  • 田原 亜希子

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。