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野村総合研究所と
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年収の壁が社会から奪っているもの

年収の壁への注目が集まっている。国民民主党が基礎控除等を引き上げる事による103万円の壁の解消を働きかけたことをきっかけに、厚生労働省は社会保障制度の見直しでの106万の壁や130万円の壁の解消を目指すなど、連日のように報道がされるようになった。
年収の壁は、103万円、106万円、130万円と言った様に様々存在すること、またその対象者や対応方法がそれぞれ異なること、更には壁の原因となる制度が税制や社会保険制度等複数の制度にまたがることなどから、全てを正しく理解することはなかなか難しい。
しかしながら、その様に多岐にわたる年収の壁に関して、共通して日本社会から奪っているものがある。それは「働き手の働く時間」である。
野村総合研究所が2022年9月に行った調査では、有配偶パート女性の中で年収の壁を意識して就業調整、つまり働き控えを行っている人は61.9%に上った。そして、2024年8月に行った調査でも61.5%と殆ど変わりがない(図表1)。

図表1 有配偶パート女性の「就業調整」状況

出所:NRI調査

人手不足が一層深刻化しているといわれる状況下で、年収の壁はこれだけの働き手の働く時間を奪っているのである。ここで敢えて「奪う」と言った強い言葉を使う理由、それはこのような就業調整を行っている対象者の多くは「壁が解消されれば今までよりも多く働いて所得を増やしたい」と回答しているためである。本来はより多く働ける人がいて、深刻な人手不足の中で事業者側もそれを望んでいるのに、それが実現できない。正に「奪う」と言う言葉がふさわしいのではないか。
そして、個々人にとってだけではなく、社会全体にも悪影響を及ぼしている。
図表2は、1993年以降のパートタイム労働者の時給、年収、一人当たり月間総労働時間の推移を表したものである。

図表2 パートタイム労働者の時給、年収、一人当たり月間総労働時間の推移(1993年~2021年。1997年=100)

出所:厚生労働省・総務省データよりNRI作成

この30年間、パートタイム労働者の時給は着実に上昇してきた。一方、一人当たり月間総労働時間と反比例するように減少している。結果として、時給と労働時間の掛け算である年収は、この30年間ほぼ横ばいである。パートタイム労働者の中での有配偶女性に比率が高いことから、パートタイム労働者全体で見てもこのような結果となると考えられる。結果として、パートタイムで働く労働者の年収が抑制されると共に労働時間が抑制される影響を社会全体に及ぼしていると言える。
図表1の結果からは「就業調整を行っている有配偶パート女性」は466万人に上ると推計される。社会全体で見ても、これだけの影響があるのである。
現在検討されている年収の壁対策は、このような社会全体への影響を解消できる可能性があると言える。

語られていない別の壁

年収の壁としては、税制に関する壁(103万円)や社会保険に関する壁(106万円、130万円)等があるが、実はあまり認識されていないものの社会的影響はこれらの壁と同じ程度なものがある。それは「住民税非課税世帯の壁」である。
日本では、低所得世帯への支援として様々な支援メニューが国や自治体から提供されている(図表3)。

図表3 住民税非課税世帯への主な支援メニューの例

  • 国民健康保険料や国民年金保険料の減免措置
  • 介護保険料の減免措置
  • 後期高齢者(75歳以上)の医療費の減免
  • 0歳から2歳までの保育料の無償化
  • 大学の入学金や授業料の減免、給付型奨学金の支給
  • 修学支援新制度による授業料などの減免
  • 国が支給する臨時給付金など

出所:各種資料よりNRI作成

これらの支援メニューの提供基準としては、「住民税非課税世帯か否か」が多く使われている。これは、住民税の課税状況を自治体が把握しやすい、などと言った理由から行われている。但し、支援メニューの多くは課税世帯には提供されない。そのため、低所得世帯としては、所得を一定程度に抑えることで住民税非課税世帯でいる事へのインセンティブが働いている可能性がある。
そこで、NRIが2024年11月にネットアンケートを行ったところ、住民税非課税世帯の就労者の約3割が「住民税の課税対象にならないよう就業調整している」と回答した。また、それらの就業調整を行っている方のうち約8割が「非課税基準が引きあがった場合、現在の年収を超えて働きたい」と回答している(図表4)。

図表4 住民税非課税世帯就労者(20~59歳)の就業調整状況

図表4からは、「住民税の課税対象にならないよう就業調整している就労者」は326万人に上ると推計される。これは、図表1からの「就業調整を行っている有配偶パート女性」466万人とほぼ同規模の人数に上っている。

他にも壁はある

実はこれ以外にも、壁は存在する。在職老齢年金の壁である年金受給世代である高齢者が働いている場合、給与を受け取りながら老齢厚生年金を受給するとその合計額によっては老齢厚生年金が減額されてしまうために有配偶パート女性の年収の壁と同様に就業調整を行っている。また、学生がアルバイトをする際に、年収103万円を超えて働くと親の扶養から外れ税金が増えてしまうために就業調整を行ってします学生版の年収の壁もある(図表5)。それらを足し合わせると約1,100万人の就労者が「何らかの壁の影響で就労調整」しているのである(それぞれの壁の性質上、対象者の重複はないと想定)。

図表5 各種ある壁とその推計人数

壁の種類 対象者 推計人数
年収の壁(有配偶女性) 有配偶パート女性 466万人
年収の壁(学生) 特別扶養控除内で働く学生 60万人
住民税非課税世帯の壁 住民税非課税世帯の就労者 326万人
在職老齢年金の壁 在職老齢年金の対象者 約300万人

出所:
年収の壁(有配偶パート女性)・住民税非課税世帯の壁:NRI調査
年収の壁(学生):大和総研レポート「学生の「103 万円の壁」撤廃による就業調整
解消は実現可能で経済効果も大きい」
在職老齢年金の壁:内閣府「生活設計と年金に関する世論調査」・厚労省データよりNRI推計

日本全体の就労者数は、2024年10月時点で6,813万人であることから、その17%もの就労者が就労調整していると言える。
これらの壁はいずれも就労そのものとは直接関係がない制度(例えば、年金制度や低所得世帯支援など)から由来するものもある。そのため、壁の存在が就労者の就労行動に影響を及ぼしても、その様な直接関係がない制度を担当している行政機関側からは可視化が難しく、結果としてその対応が遅れてしまったのではないだろうか。最近になってこれらの壁に関する制度改革の動きが進みつつある背景には、そのような課題認識が徐々になされるようになってきたことも大きい。

壁の影響がなくなると社会はどう変わるか

さて、それではこのような壁がなくなると、どのような影響があるだろうか。
まずは、対象者の所得が向上することが考えられる。すでに述べたように就業調整を行っている就労者の多くは、壁の影響がなくなればより多く働くことが予想されることから、所得の上昇が期待できる。仮に就業調整している1,100万人が年間20万円ずつ所得を増やしたとすれば、全体では約2兆円に上る所得増となり、経済効果は大きい。
また、仮に一人当たり月に20時間労働時間を増やしたとすると、全体では
20時間×12か月×1,100万人=26.4億時間に上る。
日本の全就業者平均の一人当たり年間労働時間は1,636時間(2023年毎月勤労統計)であることから、26.4億時間÷1,636時間=約160万人分の追加就労に匹敵すると言える。昨今の深刻な人手不足を鑑みると、決して無視できない規模の影響、しかも経済全体から見て好ましい影響を与えると期待できる。

今こそ多すぎる壁を取り壊すとき

これまで諸々の理由により壁が作られてきたが、昨今の経済環境、労働環境の変化に見合わなくなってきている、これらの壁の解消を進めることは持続的な所得増につながることから経済効果も大きくなることが期待され、また日本経済の構造的な課題である人手不足に対しても決して無視できない効果を及ぼす。その意味で、極めて確実かつ有効な大規模経済対策であるともいえる。また、壁の解消に取り組むことは、日本社会の再活性化に向けた象徴的な取り組みになるのではないだろうか。
今こそ多すぎる壁を取り壊すときである。

プロフィール

  • 梅屋 真一郎のポートレート

    梅屋 真一郎

    未来創発センター フェロー

    社会基盤研究室長

    東京大学卒業、野村総合研究所入社、システムサイエンス部配属の後、NRIアメリカ(ニューヨーク)、野村ローゼンバーグ(サンフランシスコ)出向。帰国後、金融関連本部にて活動。経営企画部を経て、未来創発センターに所属、2023年4月より現職。
    専門は、各種制度分析。主な著書に「これだけは知っておきたい マイナンバーの実務 」(日経文庫)、「雇用ビッグデータが地方を変える-47都道府県の傾向と対策」(中央公論新社)等。

※組織名、職名は現在と異なる場合があります。