2024 歌劇「タンホイザー」
初回放送日:2024年12月29日
タンホイザーは快楽の女神ヴェーヌスの世界を離れエリーザベトと再会 だが歌合戦で自ら過去を暴露し、神の赦しを求めて巡礼 エリーザベトの犠牲で救済され天国へ導かれる ナタリー・シュトゥッツマンの積極的な指揮ぶりは好感が持てる 第2幕の歌合戦では彼女の指揮の下、登場人物のアンサンブルが見事にまとまった タンホイザーのクラウス・フロリアン・フォークトは自分の声質にあった新しいタンホイザー像を構築、第3幕の有名な「ローマ語り」では様々な声色を難なく使い分けた▽中大・森岡実穂教授はクラッツァー演出がバイロイトを開かれた劇場にした功績、読み替え演出の本質等を語る
よくある質問
楽曲の概要
歌劇「タンホイザー」 Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg リヒャルト・ワーグナーが作曲した、3幕の「ロマン的大オペラ Grosse romantische Oper」(初演1845年、ドレスデン宮廷劇場)作曲者自身の台本による。 【登場人物】 ヘルマン: チューリンゲンの領主(bs.) タンホイザー(ten.) 歌手である騎士たち: ウォルフラム(bar.)/ワルター(ten.)/ビテロルフ(bs.)/ハインリヒ(ten.)/ラインマル(bs.) エリーザベト: 領主のめい(sop.) ヴェーヌス(sop.) 牧童(sop.) 四人の小姓(sop. & alt.) 【時代と舞台設定】 13世紀初頭、チューリンゲン地方、ヘルマンの居城
演奏
ギュンター・グロイスベック(ヘルマン/バス) クラウス・フロリアン・フォークト(タンホイザー/テノール) マルクス・アイヒェ(バリトン/ウォルフラム) シヤボンガ・マクンゴ(ワルター/テノール) オウラヴル・シーグルザルソン(ビテロルフ/バス) マルティン・コッホ(ハインリヒ/テノール) イェンス・エリック・オースボー(ラインマル/バス) エリザベト・タイゲ(エリーザベト/ソプラノ) アイリーン・ロバーツ(ヴェーヌス/ソプラノ) フルーリナ・スタッキ(牧童/ソプラノ) バイロイト祝祭合唱団(合唱) エバハルト・フリードリヒ(合唱指揮) バイロイト祝祭管弦楽団(管弦楽) ナタリー・シュトゥッツマン(指揮) 第1幕 56分50秒 /第2幕 1時間10分51秒 /第3幕 52分22秒 〜2024年7月26日ドイツ、バイロイト、バイロイト祝祭劇場〜
あらすじ
第1幕:ヴェーヌスベルクの洞窟 騎士タンホイザーは、ヴェーヌスベルクに棲まう愛欲の女神ヴェーヌスと享楽の日々を送っていたが、そんな日々にも飽き、地上の生活の素朴な喜びに思いを馳せる。ヴェーヌスの願いに応じてタンホイザーはその美しさを讃える歌を聞かせるが、心ここにあらず、といった雰囲気で、歌は必ず「ここから解き放ってくれ」という懇願で終わってしまう。ヴェーヌスは怒り、傷つき、すがりつくように「行かないで」と願うが、タンホイザーが聖母マリアの名前を唱えると、ヴェーヌスベルクは忽然と消え失せる。タンホイザーは、あたりに響く牧童の歌で、故郷へと戻ってきたことを悟る。そこへ国王と騎士たちが現れ、タンホイザーに、ともにヴァルトブルクへと戻ろうと誘う。タンホイザーはその誘いを固辞するが、ウォルフラムの「エリーザベトのもとに留まるのだ」という言葉に、前言を翻(ひるがえ)し、ともにヴァルトブルクへと向かう。 第2幕:チューリンゲン、ヴァルトブルク城 チューリンゲンの領主の姪エリーザベトは、歌合戦の会場、「歌の殿堂」に久々に足を踏み入れ、密かに慕うタンホイザーと久々の邂逅を果たす。領主ヘルマンはやってきた人々に歌の芸術の素晴らしさを褒め称え、歌手である騎士たちに、愛の讃歌を歌ってその素晴らしさを証明するよう求める。だが、タンホイザーは、他の騎士たちが歌う生ぬるい歌に業を煮やし、つい、ヴェーヌスベルクでの愛欲の日々を讃美する歌を歌ってしまう。人々はその告白に驚き、タンホイザーの罪を激しく問い詰めるが、エリーザベトは身をもってタンホイザーを庇う。領主の裁定により、タンホイザーはローマ教皇のもとへ赦しを請いに赴くこととなり、一同はその声に和す。 第3幕:ヴァルトブルク城近くの谷間 エリーザベトは、聖母マリア像の前で、タンホイザーが救われるよう祈りを捧げるが、帰ってきた巡礼の列の中にその姿がなかったことに落胆し、その場を立ち去る。タンホイザーの友人ウォルフラムは、みずからが想いを寄せるエリーザベトがタンホイザーを慕うのを見て苦しむ。ひとり残されたウォルフラムは星を見上げつつ、苦しい胸の内を吐露する(夕星の歌)。すると、そこへ変わり果てた姿のタンホイザーがやってくる。ローマ教皇からはヴェーヌスベルクで暮らした罪は未来永劫消えることはない、と宣告されたことを物語り、自暴自棄になって、ヴェーヌスベルクへと戻ろうとする。再び現れたヴェーヌスがタンホイザーを誘うが、ウォルフラムは「エリーザベトのもとに留まれ」と再び叫び、ヴェーヌスはその場から消え去る。遠くから聞こえてくる鐘の音で、エリーザベトが亡くなったことを知ったタンホイザーもその場に息絶えるが、巡礼の杖から葉が芽吹く、という奇跡が成就し、タンホイザーの魂が救済されたことが示される。 (文・広瀬大介)
バイロイト祝祭劇場での上演
《タンホイザー》 2019年に新制作されたこのトビアス・クラッツァーによる演出は、傑作との呼び声が高く、放送や配信で、または現地でご覧になった方もおられるかと思います。 本読み替えのキモは、まずはワーグナー作品およびバイロイトに対する批判性といえるでしょう。この演出では旅回りのヴェーヌス一座が大暴れします。仲間はピエロのタンホイザーに、『ブリキの太鼓』(ギュンター・グラス)のオスカー、ドラァグクイーンのガトー・ショコラ。つまり障がい者や性的少数者といった、社会のなかで弱い立場や不利な立場に置かれてしまうことの多い者たちです。そしてバイロイト、ひいては私たちの社会や文化が排除・抑圧してしまっている者たちなのです。彼らとバイロイト音楽祭という「神聖な」共同体との対立が浮き彫りにされます。そして明らかに、前者の描かれ方のほうが魅力的なのです。 彼らは第2幕で、バイロイトに戻ってしまったタンホイザーを取り返すべく、祝祭劇場に乗り込みます。リアルタイム撮影の映像も駆使した、たいへん見応えのある場面です。ですが第3幕冒頭では一転、オスカーがひとり寂しく佇んでいます。しばらくするとガトー・ショコラが大々的に写る高級時計の広告が現れます。いまや彼女は一躍有名人となり、セレブの仲間入りを果たしたのです。ここには持つ者と持たざる者の入れ替わりという、資本主義社会の残酷な一面が示されています。いったんは弱者であった者が、いつのまにか強者の側に回る。つまりクラッツァーはみずからが示した批判を、さらに相対化するという離れ業をやってのけるのです。 こう書くといささか小難しく感じられるかもしれません。ですがそのような高度な政治性がむしろコミカルに描かれていることが、この演出が人気を集めていることの理由でしょう。そして、それが音楽に沿って、さらには音楽を牽引しているということを強調したいと思います。昨年の観劇記で広瀬大介さんが「演出の力によって、指揮者も、歌手も、オーケストラも、これほどまでに輝ける」と書かれていますが、まさにそのとおりで、これほどまでに演出が上演の原動力となっている舞台には、なかなか出会えるものではありません。バイロイトの歴史に残る名演出といってよいでしょう。 最後に。幕が開き序曲が奏される間、ヴェーヌス一行を描くロードムービーが流れます。この一部は毎年くすっと笑いを誘うような新しいネタに更新されていましたが、今年は惜しくも2023年に他界したステファン・グールドを讃える映像が挿入されました。本演出のプルミエを率いたこのヘルデン・テノールの遺影に、オスカーが献杯するのです。そのさりげなくも愛情と尊敬のこもった表現に、聴衆からは自然と拍手が沸き起こりました。そして観客の感情が昂ぶったところで、ピットからは「ヴェーヌス賛歌」が響きわたります。完璧なタイミングです。こんなところで泣かせにくるとは! (文・新野見卓也 / 鑑賞日 8月22・27日)