新見隆教授(教養文化・学芸員課程)のコラムが、12月20日(金)付の日本経済新聞(夕刊)「プロムナード」に掲載されました。
日本経済新聞 2024年12月20日(金)「プロムナード」掲載
米国と広島
驚くような大統領選の結果になって、米国の友人たちが心配される。日本が米国と密接な関係にあるのを、否定する人間はいないだろう。40年余の長い学芸員人生、展覧会で幾度も行ったし信頼する友人も数多い。私も本を幾冊も書いた、日本人の父と米国人の母を持つ20世紀を代表する彫刻家、イサム・ノグチを考えると、その思いはことさら強くなる。
夏休みと秋休み(実際は学生主催の芸術祭で学内はにぎわうが、授業は休講)で、第二の故郷広島市に行った。朝早くに、平和記念公園に詣でる。昼近くになると、外国人観光客でごったがえす。拡声器で「ここは祈りの場である。記念撮影の場ではない。祈る気の無い者は、立ち去れ」と英語で言いたくなる。
戦後、ニューヨークで新進芸術家として頭角を現したノグチは日本に凱旋。ある会合で「今の日本の美術をどう思う?」と問われ、「ピカソの亜流で感心しない。日本の伝統はどうした?」と喝破したという。ならば自分がやってやろうと、ノグチは前代未聞の陶器による自由自在な彫刻を発表。子供がやったか、宇宙人がやったか、その衝撃は日本中の美術家、岡本太郎や八木一夫などに影響を与えた。伝統的な岐阜提灯(ちょうちん)を、200以上の「光の彫刻」に再生させた「あかり」は今日でも日本発の世界ブランド、ナンバーワンデザインだ。
復興平和都市広島の、平和公園を含む全体計画を任された丹下健三は、ノグチに慰霊碑のデザインを依頼。実現しなかったノグチのデザインは地中に太い足の伸びた実に堂々としたもので、むしろ死者たちの怨念や怒りを代弁した強烈な造形だった。ノグチが設計した2つの橋の欄干が、今も平和公園をはさんでかかっている。ダイナミックな息を呑(の)む造形。東に「いきる」、西に「しぬ」と名付けられ、後にそれぞれ「つくる」、「ゆく」となった。
採用されなかった慰霊碑の代わりに今日、私どもは丹下自身の設計による、あの弥生の馬の鞍(くら)のような慰謝の碑を見る。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」とある。
観光客はその意味をどう捉えるだろう。「過ち」を犯したのは日本人であり、米国人であり、そして今も生きる私ども人類全体であるという真実に思い至るのだろうか。
幼い頃から天才的な造形の才能を発揮して、芸術に邁進(まいしん)したノグチは最晩年にいたるまで生涯孤独で古里を持たず世界中を旅した。自信満々、意気揚々の写真しか、残されていない。
が、たった唯一彼が珍しいことに、怯(おび)え、慄(おのの)いている、悲惨な写真がある。
この慰霊碑の設計に初めて広島に来た時に、原爆ドームの前で立っているものだ。後ろの煉瓦(れんが)壁には、占領軍の兵士たちの落書きがある。
世界で唯一、他国との紛争の解決の手段として、武力を行使することを永久に放棄する、という平和憲法を私どもは持っている。原爆で身内を亡くしている私は、広島県人である誇りを持って、憲法9条の絶対護持を、慰霊碑に誓う。そして、死者たちに言う。必ず、いつか私もあなたたちを迎えに行くから、と。
彼らは今や天の国の野原で、天使として、子供の頃に戻って、遊んでいるだろう。これらのことを私は米国の友人、一人一人にいつも、きちんと伝えている。
日本経済新聞|新見隆 米国と広島 日本経済新聞|プロムナード(7月5日より、毎週金曜日夕刊にて連載) *日本経済新聞・無料会員は月10記事まで閲覧可能です