2005年 11月 13日
「インテリ」批判は聞き飽きましたよ
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ネットをいろいろ見ていたら、あまりにもひどいと思う文章に出会った。実際に反応するひとは少ないかもしれないので、ここで少し批判めいたことを述べておきたいと思う。
疑問を感じたのは、編集者で批評家の仲俣暁生氏によるブログのエントリー。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20051112/p1
仲俣氏の文章を随時参照していただきたい。
まず、「マルチチュードがわからない」という小見出しから引っかかる。分からないなら、マルチチュードについて書かなければいいじゃないかとただ思うだけだ。仮に、理解できない自分の能力のなさを書くというのなら理解はできる。しかし、そうでもないようだ。おそらく仲俣氏なりのレトリックなのでしょう。「マルチチュードがわからない」という言い方には、『マルチチュード』という本に問題があるからだという含意が感じられる。実際、後で「「マルチチュードがよくわからない」と書いたけれど、それは私の理解不足のせいだけではない。」とおっしゃってるので、この本への批判として「わからない」と書いているのだろう。それにしても、他人の本を批判する時に「わからない」と言うのはどうかと思う。おかしいと思う部分があるなら、ただそこを批判すればいいだけだ。それを「わからない」というレトリックを弄して批判するのは卑怯とさえ感じる。(そう言えば、仲俣氏と田中純氏との「論争」ときもこれに近いレトリックを使っていた。例えば次のような発言。「やはり肝心の都市の表象分析のところにくると、そこで展開されているアナロジーなりイメージの連関に、ぼくの頭は今回もついて行けなかった。たぶん、抽象的な思考能力と、イメージというものへの感受性が、どちらもぼくにはひどく欠けているのだろう。」 そのような能力や感受性が欠けてるなら書評など最初からしなければいいと思うのだが、仲俣氏は違うお考えのようだ。)
私は『マルチチュード』という本をまだ読んでいないので、仲俣氏の『マルチチュード』読解に関しては何も言いません。しかし、「マルチチュード」という概念に対する批判から急に「インテリ批判へと飛躍するのはおかしいと思う。
例えば次のような文章。
前の二つの文と終わりの一文の間に論理的飛躍があるのではないか? アフリカ系移民たちがマルチチュードではないというのは仲俣氏の言うとおりかもしれない。だが、そのことがどうして「マルチチュード」概念が「インテリ」の「あり得べき自己イメージ」であるということに論理的に繋がるのか? トニ・ネグリとマイケル・ハートという二人の「インテリ」が編み出した概念だからだろうか? もしそうならすべての現代思想や哲学は「インテリ」の「あり得べき自己イメージ」でしかなくなってしまうだろう。まさか仲俣氏でもそんな暴論を言うとは思えない。では、次に続く文章のなかでこのことが説明されているのだろうか? 続きを見てみよう。
だが、次の段落ではなぜかパオロ・ヴィルノの『マルチチュードの文法』が参照されている。(もしかすると仲俣氏は本当に『マルチチュード』が分からなくてヴィルノの本を参照したのだろうか?) ヴィルノの本から仲俣氏が取り出した論点は、「マルチチュード」概念の対極にあるのが「人民」であること、さらに「人民」概念の父がホッブスであり「マルチチュード」概念の父がスピノザであることだ。
そして、仲俣氏はそこでスピノザという名前に反応して、一時期スピノザをよく語っていた柄谷行人氏と柄谷氏の概念「単独性 singularite」(なんでいきなりフランス語を使っているんでしょうか? そもそも正確に書けば“singularite”ではなく“singularité”ですが。)の話へと移る。それにしても、スピノザの話題から柄谷氏へと移行するのは強引ではないか? 普通この文脈でスピノザが出てくれば、柄谷氏ではなく、ネグリのスピノザ論、さらにアルチュセールやバリバール、ドゥルーズのスピノザ論が参照されてしかるべきではないか? ネグリ=ハートが柄谷氏のスピノザ論を参照していたとも思えない。(もし『マルチチュード』でネグリ=ハートが柄谷氏に言及してるならすみません。) それをいきなり主に日本だけの文脈へ持ってきて柄谷氏の「単独者」概念へと話題を移すのは強引な印象を免れない。そして、仲俣氏は次のように続ける。
「「単独者」がダメなら「マルチチュード」」というのはどういうことなのか? 誰がそんな考え方をしているのだろうか? ネグリ=ハートは別に「単独者」が駄目だから「マルチチュード」という概念に向かったわけではないだろう。仲俣氏は勘違いしているようだが、柄谷氏の「単独者」という概念は「孤独」といったものとは全く違う。柄谷氏の言う「交通」とは「単独者」によって初めて可能になるものであって、「孤独」とか「孤高の人」とかいうものとは異なる。『探求』をまともに読んでいれば分かることだと思う。だから、「寂しい」から「マルチチュード」に向かったとかいう馬鹿げた話では決してない。そしてまた、仲俣氏得意の「インテリ」である。「ようするにインテリの方々はみんな寂しいのだろう。」 なぜネグリ=ハートや柄谷氏の話が「インテリ」の話に摩り替ってしまうのだろう? 彼らはインテリの代表なのだろうか? 「マルチチュード」という概念を提唱してるのはあくまでも「インテリ」や現代思想の一部だけだし、なぜか仲俣氏の文脈ではネグリ=ハートと共犯関係に置かれている柄谷氏も「マルチチュード」概念には批判的だ。 ここにわたしが感じるのは仲俣氏の「インテリ」へのルサンチマンだ。(それにしても「インテリ」とは嫌な言葉だ。平気で使う人の気が知れない。) そもそも仲俣氏は自分のことを「インテリ」だと思ってないのだろうか? 編集者、そして批評家である仲俣氏は一般的にはまさに「インテリ」の形容にぴったりだ。それこそフランスの移民のような人々からすれば「インテリ」のおっさん(失礼!)ぐらいにしか思わないだろう。まるで自分が「インテリ」とは関係のないようなふりをして「インテリ」批判を繰り返す。見飽きた光景だ。
次の段落もまた例の「インテリ」話だ。それにしても「インテリ」は本当に寂しいと思ってるのだろうか? そんな「インテリ」がいるなら是非会ってみたい。もしかすると「インテリ」である仲俣氏自身が寂しいのだろうか?
いくら書いてもきりがないのでこのぐらいにしておきますが、その後の文章にもつっこみどころはいくらでもあります。(むしろそっちのほうがつっこみどころは多いかも) 気が向いたらまた書きます。
それにしてもそんなに「インテリ」がお嫌いなら、仲俣さん、また田中純氏と論争でもしたらどうですか? この前は中途半端に終わってしまいましたし。仲俣さんがお嫌いな現代思想に田中氏はお詳しいですしね。
疑問を感じたのは、編集者で批評家の仲俣暁生氏によるブログのエントリー。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20051112/p1
仲俣氏の文章を随時参照していただきたい。
まず、「マルチチュードがわからない」という小見出しから引っかかる。分からないなら、マルチチュードについて書かなければいいじゃないかとただ思うだけだ。仮に、理解できない自分の能力のなさを書くというのなら理解はできる。しかし、そうでもないようだ。おそらく仲俣氏なりのレトリックなのでしょう。「マルチチュードがわからない」という言い方には、『マルチチュード』という本に問題があるからだという含意が感じられる。実際、後で「「マルチチュードがよくわからない」と書いたけれど、それは私の理解不足のせいだけではない。」とおっしゃってるので、この本への批判として「わからない」と書いているのだろう。それにしても、他人の本を批判する時に「わからない」と言うのはどうかと思う。おかしいと思う部分があるなら、ただそこを批判すればいいだけだ。それを「わからない」というレトリックを弄して批判するのは卑怯とさえ感じる。(そう言えば、仲俣氏と田中純氏との「論争」ときもこれに近いレトリックを使っていた。例えば次のような発言。「やはり肝心の都市の表象分析のところにくると、そこで展開されているアナロジーなりイメージの連関に、ぼくの頭は今回もついて行けなかった。たぶん、抽象的な思考能力と、イメージというものへの感受性が、どちらもぼくにはひどく欠けているのだろう。」 そのような能力や感受性が欠けてるなら書評など最初からしなければいいと思うのだが、仲俣氏は違うお考えのようだ。)
私は『マルチチュード』という本をまだ読んでいないので、仲俣氏の『マルチチュード』読解に関しては何も言いません。しかし、「マルチチュード」という概念に対する批判から急に「インテリ批判へと飛躍するのはおかしいと思う。
例えば次のような文章。
パリ郊外で暴動を起こしたアフリカ系移民たちは、いかなる意味でもマルチチュードではないだろう。日本のフリーターたちも、マルチチュードではありえないだろう。「マルチチュード」という言葉を振りかざす寄る辺なきインテリたち、彼らにとっての「あり得べき自己イメージ」としてのみ、マルチチュードという言葉は存在するのだと思う。
前の二つの文と終わりの一文の間に論理的飛躍があるのではないか? アフリカ系移民たちがマルチチュードではないというのは仲俣氏の言うとおりかもしれない。だが、そのことがどうして「マルチチュード」概念が「インテリ」の「あり得べき自己イメージ」であるということに論理的に繋がるのか? トニ・ネグリとマイケル・ハートという二人の「インテリ」が編み出した概念だからだろうか? もしそうならすべての現代思想や哲学は「インテリ」の「あり得べき自己イメージ」でしかなくなってしまうだろう。まさか仲俣氏でもそんな暴論を言うとは思えない。では、次に続く文章のなかでこのことが説明されているのだろうか? 続きを見てみよう。
だが、次の段落ではなぜかパオロ・ヴィルノの『マルチチュードの文法』が参照されている。(もしかすると仲俣氏は本当に『マルチチュード』が分からなくてヴィルノの本を参照したのだろうか?) ヴィルノの本から仲俣氏が取り出した論点は、「マルチチュード」概念の対極にあるのが「人民」であること、さらに「人民」概念の父がホッブスであり「マルチチュード」概念の父がスピノザであることだ。
そして、仲俣氏はそこでスピノザという名前に反応して、一時期スピノザをよく語っていた柄谷行人氏と柄谷氏の概念「単独性 singularite」(なんでいきなりフランス語を使っているんでしょうか? そもそも正確に書けば“singularite”ではなく“singularité”ですが。)の話へと移る。それにしても、スピノザの話題から柄谷氏へと移行するのは強引ではないか? 普通この文脈でスピノザが出てくれば、柄谷氏ではなく、ネグリのスピノザ論、さらにアルチュセールやバリバール、ドゥルーズのスピノザ論が参照されてしかるべきではないか? ネグリ=ハートが柄谷氏のスピノザ論を参照していたとも思えない。(もし『マルチチュード』でネグリ=ハートが柄谷氏に言及してるならすみません。) それをいきなり主に日本だけの文脈へ持ってきて柄谷氏の「単独者」概念へと話題を移すのは強引な印象を免れない。そして、仲俣氏は次のように続ける。
「近代的個人(市民)」に対する「単独者」の関係が、「人民」に対する「マルチチュード」ということだ。古い亡霊がまたぞろ出てきた、という感じである。「マルチチュード」の流行は、現代思想の最後の悪あがき、という気がする。「単独者」がダメなら「マルチチュード」というのもお手軽な発想だが、ようするにインテリの方々はみんな寂しいのだろう。
「「単独者」がダメなら「マルチチュード」」というのはどういうことなのか? 誰がそんな考え方をしているのだろうか? ネグリ=ハートは別に「単独者」が駄目だから「マルチチュード」という概念に向かったわけではないだろう。仲俣氏は勘違いしているようだが、柄谷氏の「単独者」という概念は「孤独」といったものとは全く違う。柄谷氏の言う「交通」とは「単独者」によって初めて可能になるものであって、「孤独」とか「孤高の人」とかいうものとは異なる。『探求』をまともに読んでいれば分かることだと思う。だから、「寂しい」から「マルチチュード」に向かったとかいう馬鹿げた話では決してない。そしてまた、仲俣氏得意の「インテリ」である。「ようするにインテリの方々はみんな寂しいのだろう。」 なぜネグリ=ハートや柄谷氏の話が「インテリ」の話に摩り替ってしまうのだろう? 彼らはインテリの代表なのだろうか? 「マルチチュード」という概念を提唱してるのはあくまでも「インテリ」や現代思想の一部だけだし、なぜか仲俣氏の文脈ではネグリ=ハートと共犯関係に置かれている柄谷氏も「マルチチュード」概念には批判的だ。 ここにわたしが感じるのは仲俣氏の「インテリ」へのルサンチマンだ。(それにしても「インテリ」とは嫌な言葉だ。平気で使う人の気が知れない。) そもそも仲俣氏は自分のことを「インテリ」だと思ってないのだろうか? 編集者、そして批評家である仲俣氏は一般的にはまさに「インテリ」の形容にぴったりだ。それこそフランスの移民のような人々からすれば「インテリ」のおっさん(失礼!)ぐらいにしか思わないだろう。まるで自分が「インテリ」とは関係のないようなふりをして「インテリ」批判を繰り返す。見飽きた光景だ。
次の段落もまた例の「インテリ」話だ。それにしても「インテリ」は本当に寂しいと思ってるのだろうか? そんな「インテリ」がいるなら是非会ってみたい。もしかすると「インテリ」である仲俣氏自身が寂しいのだろうか?
いくら書いてもきりがないのでこのぐらいにしておきますが、その後の文章にもつっこみどころはいくらでもあります。(むしろそっちのほうがつっこみどころは多いかも) 気が向いたらまた書きます。
それにしてもそんなに「インテリ」がお嫌いなら、仲俣さん、また田中純氏と論争でもしたらどうですか? この前は中途半端に終わってしまいましたし。仲俣さんがお嫌いな現代思想に田中氏はお詳しいですしね。
by la_reprise
| 2005-11-13 23:37
| 雑談