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山口周「人生の終盤をどう生きてもらうか―サイエンスだけでは、その答えは見つからない」

最終更新日時 2019/05/27

山口周「人生の終盤をどう生きてもらうか―サイエンスだけでは、その答えは見つからない」

現在、外資系コンサルティング会社でシニア・パートナーを務める山口周氏は、大学で哲学を、大学院で美術史を研究してきたという異色の経歴の持ち主。その広範な視野と深い教養に裏打ちされた鋭い知見は、しばしばメディアに取り上げられ、各方面で話題を呼んできた。2017年には『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか』(光文社新書)を刊行、多くの固定ファンを獲得している。そんなコンサルティング界の異才は、現在の介護現場をどう見ているのか。山口氏独自の視点と発想に迫る。

文責/みんなの介護

日本人には「宗教」という精神的なバックボーンがない。弱いもの、小さいものへの慈しみのまなざしをどう獲得するか

みんなの介護 介護の現場では、相変わらず深刻な人手不足が続いています。労働環境はなかなか改善されず、介護スタッフによる高齢者への虐待など、悲しいニュースを耳にすることも少なくありません。

山口さんは著書のなかで、ビジネスにおける「美意識」の重要性に言及されていますが、介護の現場に美意識が導入されれば、現場はもっと働きやすくなるようにも思います。介護の現状について、山口さんはどのような印象をお持ちですか?

山口 介護現場の方たちは、すでに十分努力されていると思うし、現場を知らない門外漢の私がコメントすべきことではないような気もします。

ただ、漏れ伝わってくる情報をもとに言わせていただくと、介護の現場は、「人生の終盤をどう生きるか?」という命題と深く関わっているはず。スタッフの方たちの立場から言えば、「人生の終盤をどう生きてもらうか?」ですね。そして、その命題については、効率や生産性といった「サイエンス」だけでは答えが得られないと考えています。

先般、ある社会学者の人が「終末期医療は必要ない」と発言して物議をかもしました。「サイエンス」の立場から発言すると、どうしてもあのような内容になってしまうんでしょうね。しかし、人が人生の最期をどう迎えるべきか考えるとき、美意識、人生観、生命倫理など、数値化できない要素がどうしてもかかわってくる。だから介護という仕事にも、他の仕事以上に、美意識が強く求められるのではないでしょうか。

みんなの介護 人が人生の最期をどう生きるかという問題は、哲学にもかかわってきますね。山口さんの著書を拝読すると、ヨーロッパでは文系・理系を問わず、基礎的な教養として哲学教育が重視されているとか。

一方、わが国では、哲学について学ぶ機会はほとんどありません。こうしたことは、わが国の介護の在り方に、何か影響を与えているでしょうか?

山口 人生観や生命倫理に関して、日本と欧米で最も異なっているのは、精神的なバックボーンとして「宗教」の基盤があるかどうか、ですね。

欧米の場合、大抵の人がキリスト教徒として幼い頃から聖書に慣れ親しんでいます。実際、新約聖書やマタイ伝などの福音書を読むと、「弱者への慈しみのまなざし」という学びが書かれていますね。そしてイエス・キリストが実践したように、弱いもの、小さいものは慈しみ、大切に守ってあげなければならないと教えられます。

みんなの介護 聖書をもとにした倫理観があるから、年老いて弱っていく人に、自然と慈しみのまなざしが向けられるのですね。

山口 ところが日本には、欧米人にとってのキリスト教のような、精神的な支柱となりうる宗教がありません。近親者が亡くなったとき、多くの日本人は仏式で葬儀を営みますが、必ずしも仏教徒というわけではない。

かつて日本の家庭では、仏壇とご先祖様の遺影が「倫理システム」として機能していた

みんなの介護 確かに、日本人の多くは基本的に無宗教ですよね。

山口 それでも、一般家庭が核家族化する前の、大家族時代の日本では、宗教に近い「倫理システム」が機能していました。そのシステムを支えていたのが仏壇であり、仏間の長押に掲げられていた、曾祖父・曾祖母などご先祖様の遺影です。

仏壇の扉が開いている限り、めったなことはできません。また、ご先祖様の写真に四六時中見下ろされていれば、ご先祖様の手前、恥ずかしいことや人の道に反することなどできませんでした。

このように、かつての日本人には、ご先祖様から、あるいは神様仏様から「常に見られている」という感覚がありました。それが一種の抑止力として働いていて、あんまりデタラメなことはできなかった、という側面があったと思います。

ところが、現代の一般家庭には、仏壇もなければ、ご先祖様の遺影もありません。もはや、私たちをうるさく監視するものはいなくなったのです。

みんなの介護 そう言われてみると、「誰かに見られている」という感覚は、あまり感じなくなったかもしれません。それと同時に、駅や電車内、学校や病院などのパブリックスペースで、節度ある行動を取れない人が増えたと言われています。

山口 ご先祖様の監視態勢から逃れた今、私たちは何でもアリの、一種の暴走状態になっていますね。人々の倫理性は希薄になり、品位や人間性はさておき、「たくさんのお金を効率良く稼げる人がエラい」という価値観が生まれてしまった。こうした環境では、自分なりの美意識を持って介護の仕事に取り組むことは、難しいかもしれませんね。

ともあれ、仏壇・遺影という倫理のシステムが崩壊したことは、今、家庭内を含むあらゆる場所で、さまざまな虐待や暴力が横行していることと無関係ではない気がします。

子どもも、お年寄りも、制御不能な「自然」と同じ

大家族の中で、祖父母の老いと死を体験していなければ生身の高齢者に対応するのは難しいかもしれない

みんなの介護 戦後の日本は、大家族から核家族へと家族構成が大きく変化しました。その影響が、いろいろなところに現れているんですね。

山口 そう思います。

個人的な話になりますが、私の妻はイタリア暮らしが長かったので、妻に案内されてイタリアを何度か訪れたことがあります。そのときに感じたのは、イタリアにはかつての日本のように大家族が多いこと。三世代、四世代が同居していて、孫たちはおじいさん、おばあさんと一緒に暮らし、おじいさんたちが老いて弱っていく様子を間近に見て、最期は自宅で家族とともにおじいさん、おばあさんを看取る。

そうやって老いや死を身近に体験し、やがては自分たちの両親が、そしていつかは自分自身が老いと死を迎えることを了解していく。このように、人の終末期に関する教育が自然になされているんですね。

ところが、現代の日本では、おじいさん、おばあさんが年老いて死に至る場面を間近で見る機会など、ほぼありません。例えば統計上、東京では1日数百もの人が亡くなっているはずですが、それらの死は私たちの目から巧妙に隠蔽されています。

近現代の都市には、基本的にバイタルなものしか存在しません。かつてフランスの哲学者ミシェル・フーコーが指摘したように、恐ろしいものや忌まわしいものは人々の目に触れないよう、秘密裡に処理するシステムが確立されているからです。

みんなの介護 多死社会と言われながら、確かに私たちは現実の「死」に接することはほとんどありません。現代において、「死」はなぜかタブー視されていますね。

山口 かつての日本は、そうではありませんでしたね。私自身、子ども時代は祖父母と同居していて、祖父と祖母が徐々に弱っていくのをこの目で見ていました。

あんなに元気だった祖父も、次第にさまざまな能力が衰え、ついには歩けない状態になり、亡くなっていきました。そんな祖父の姿を、私は一緒に暮らしていたからこそ、慈しみのまなざしを見ることができたんだと思います。

改めて考えてみると、今の若い介護スタッフの方たちは、自分の祖父母が老いて死んでいく姿など、見たことがないかもしれませんね。人が老い、死んでいくことを、実体験ではなく、介護のテキストの中でしか知らないのかもしれない。

だとすれば、目の前の生身の高齢者に上手く対応できなくても仕方ないのかなあ、と思ってしまいます。

地域全体でお年寄りの世話をできるかどうかは、そこにコミュニティーが残っているかどうかで決まる

みんなの介護 介護スタッフが高齢者施設に勤務して初めて高齢者と接するのであれば、接し方がわからないのも当然かもしれない、という話でしたね。では、かつての日本のように、高齢者と若い人がもっと日常的に交流を持つようにするには、どうすればいいのでしょうか?

山口 高齢者施設側で何とかしようとしても、難しいでしょうね。たとえば、施設を一般に開放しても、地域の人たちが気軽に遊びに来てくれるとは思えませんから。

イタリアの話に戻りますが、街では、とにかくお年寄りの姿が目につきました。おばあさんたちは家の前に椅子を出して、そこで一日中編み物しながら、通りかかる近所の子どもに気軽に話しかけていたりする。おじいさんたちは、公園やオープンテラスのカフェで友だちとトランプなんかしながら、大きな声で何事か討論している。

その後、日本に戻ってきて驚きました。日本では、屋外でお年寄りの姿を目にすることがほとんどないと気づいたからです。

みんなの介護 日本の場合、高齢者は施設や病院にいる人も多いですからね。一人暮らしの高齢者は、とかく引きこもりがちでもあります。

山口 イタリアのおじいさん、おばあさんが屋外で楽しそうに過ごしているのを見ると、日本のように、施設に閉じ込めてしまうのはどうなのか、と思ってしまいますね。

みんなの介護 国としてもすべての高齢者を施設に入居させるのは難しいと判断しているみたいです。そこで厚労省は5年ほど前から、「地域包括ケアシステム」という概念を打ち出し、「お年寄りは地域のみんなで見守り、ケアしていきましょう」と訴えていますね。

山口 なるほど。でも、それを東京で実現するのは難しいかもしれませんね。東京では、既に地域のコミュニティーが機能していませんから。

東京などの都市部で、なぜ幼児虐待が多発するのか。それは、若い親を支えるべき地域のコミュニティーが崩壊しているからだと思います。そもそも、子どもを育てるのはきわめて難しい仕事なんですよ。なぜなら、子どもは海や山、天候や気象と同じ「自然」だから。

私たち人間は、自然をコントロールすることができません。自然と仲良くやっていくには、例えば天候が回復するのをじっと待つように、忍耐強く接するしかない。ところが、今の若い親御さんたちは、自然と接した経験がほとんどありません。

というのも、私たちの身の回りにあるほぼすべてのものが、「情報」という制御可能なものだから。特にネット社会となった今、多くの人が、何でも自分自身で制御可能だと錯覚している。

でも、赤ちゃんは制御不能ですよね。なんで泣いているのかわからないし、どうすれば泣きやむのかもわからない。きちんと整理された家の中に、突然「荒れ狂う海」が出現したかのよう。すると、何でも制御可能だと思っている今どきの親御さんは、パニックを起こしてしまいます。

みんなの介護 なるほど。すごくわかりやすいたとえですね。

山口 そんなとき、地域のコミュニティーが機能していれば、パニックになりかけた親に代わって、赤ちゃんの世話をしてくれる。荒れ狂う自然に、たった一人で対処しなくていいんです。

同様に、お年寄りも年を取れば取るほど子どもに近づき、制御不能になっていく。子どももお年寄りも、東京のような大都市では受け入れがたい「自然」なんです。だから地域の人々は、近所に保育園の建設計画が持ち上がると猛反対しますよね。

私は4年前に神奈川県葉山町に引っ越しました。すると嬉しいことに、転居先にはまだ地域のコミュニティーが残っていたんです。引っ越し当日の夜は、近所の人たちが「引っ越してきたばかりで、夕食を調理するのは大変だろう」と、路上でバーベキューをしてくれました。私には子どもが3人いますが、近所の人は他人の子どもでも呼び捨てで、きちんと叱ってくれます。

私たちはそれまで、都内のマンションに暮らしていましたが、そこで他人の子を呼び捨てにしたりしたら、大問題になっていたはず。コミュニティーが残っているこの葉山町であれば、地域でお年寄りの世話をすることも可能かもしれません。

職員が相互に人事評価し合うシステムを導入し、働き方と定着率を大きく改善させた病院がある

みんなの介護 冒頭でもお話ししましたが、介護の現場は今、疲弊しています。人材が確保できず、やむなく廃業する施設運営会社も増加中です。そこで、組織開発や人材育成のコンサルティングを手がけている山口さんに伺います。スタッフが定着しやすい組織を作るには、どうすれば良いのでしょうか?

山口 数年前、終末期医療で有名な青梅慶友病院の理事長にお話を聞く機会がありました。今では入院希望の患者さんが数多く順番待ちしている人気の病院ですが、かつては看護師がなかなか定着せず、それも、残って欲しい看護師に限って辞めてしまうなど、人事労務面で多くの問題を抱えていたそうです。

そこで理事長が断行したのは、人事評価のシステムを一変すること。それまでの、ごく一般的な「上司による人事評価」を取りやめ、「職員相互の人事評価」に切り替えました。例えば、病院に200人の看護師がいるとすれば、当人以外の199人に、「そのご当人に病院に残って欲しいかどうか」、投票してもらうわけです。

すると、何人かの職員の評価が激変したとか。上司からは「良くやっている」と高く評価されていたのに、多くの職員からは「一緒に働きたくない」とダメ出しされる人が何人も出てきたのです。

そういう人はつまり、裏表のある人だったんですね。上司の前では一生懸命に働き、患者さんにもやさしく接しているけど、上司のいないところでは同僚に非協力的で、しかも患者さんをぞんざいに扱うような人だったのです。

みんなの介護 わりと、ありがちなパターンかもしれませんね。

山口 「職員が相互に人事評価し合う」という青梅慶友病院の人事評価システムは、一般的な組織から見れば、確かに異色です。しかし、実は極めて理にかなっている評価システムとも言えます。なぜなら、その人の「価値が生まれる瞬間」できちんと評価しているから。

「看護師として働いている人」の価値が生まれるのは、上司であるドクターの診療行為を補助しているとき、だけではありません。終末期医療の病院であれば、「患者さんのお世話をしているとき」が最大の価値創出の瞬間のはず。その瞬間を誰よりも目撃しているのは、一緒に働いている看護師ですね。

だとすれば、「価値の生まれる瞬間」のごく一部しか見ていない上司の目よりも、同僚たちの目のほうがずっと確かであり、より公正で正確な評価を下せるはずなんです。

こうして人事評価システムを改革した結果、青梅慶友病院は多くの看護師にとって働きやすい職場になり、看護師の定着率が大きく改善し、それが患者さんに対するサービスの充実につながり、人気の終末期病院へと生まれ変わりました。

成功例を丸ごとコピーするだけでは100%失敗する

みんなの介護 人事評価の仕組みを変えれば、スタッフの離職率を大幅に低減できるケースもある、ということですね。

山口 勘違いしないでいただきたいのは、今お話ししたのはあくまでも青梅慶友病院のケースだということ。ひとつの参考例、成功例に過ぎません。だから、このシステムをそのままコピーして別の組織に導入しても、ほぼ100%失敗するでしょう。ある組織をどうやって改善するかは、やはり当事者自身が考え、実行しなければなりません。

とはいえ、まるっきりヒントがないわけでもないんですよ。私自身、ひとつの真理だと考えているのは、「組織を良くするためには、関係性の質を良くするしかない」ということ。これは、人事や組織論の世界ではあまり言われていなんですが、「関係性の質」は重要なキーワードだと思います。

みんなの介護 そのキーワードは、先ほどの青梅慶友病院のケースにも当てはまるのでしょうか?

山口 当てはまります。通常の人事評価は、従業員一人ひとりの「能力」を評価しますね。それに対して、青梅慶友病院が職員相互に人事考課させたのは、一人の「能力」ではなく、人と人との「関係性」に着目したから。

「組織」は「コンピュータ」と同じです。一人ひとりがどんなに高い能力を持っていても、その一人ひとりの関係性が良くなければ、組織としてパフォーマンスを発揮できません。なぜなら、関係性が切れている組織は、プリント基板の回路が切れているコンピュータと同じで、組織として機能しないから。

青梅慶友病院の例をコンピュータ用語に言い換えると、一つひとつのノード(結節点)の能力評価はさておき、ネットワークそのものの質を良くしようという試み。能力は高くなくても良いから、同僚と円滑なコミュニケーションが取れて一致協力できる人、患者さんときちんと向き合える人たちばかりに残ってもらえば、病院全体のパフォーマンスが上がる、と考えたわけですね。

みんなの介護 その試みが、ずばりハマったんですね?

山口 そうですね。人事評価のシステムを改善した結果、病院で働く看護師や職員の満足度も上がり、病院での診療サービスも患者さんに評価されるようになって、病院経営も安定したと、理事長さんが話してくれました。

繰り返しになりますが、今お話ししたのは、あくまで参考例です。この病院では人事評価システムの見直しが有効でしたが、他の組織では、手をつけるところはそこではないかもしれない。単に形だけ真似てもダメです。スタッフの「関係性の質」を改善するにはどうすれば良いのか、それぞれの立場で考えてください。答えはあなたの外にあるのではなく、あなたの目の前にあります。なんだか、道元禅師みたいな物言いになってしまいましたが(笑)。

「関係性の質」が良くなれば、スタッフは安心して能力を発揮できる

人が、何か困難なことにチャレンジするには、セキュア・ベース(心の安全基地)が必要

みんなの介護 青梅の病院のケースは、多くの読者にとって参考になると思います。システムを丸ごとコピーするのではなく、「関係性の質」というキーワードがわかっただけでも、現状を改善する大きなヒントになるのではないでしょうか。実際、介護職の離職の大きな原因のひとつが職場での人間関係だったという調査もあります。

山口 結局、「関係性の質」が良くなれば、スタッフが離職せず職場に定着して、それぞれが安心して能力を発揮できるようになるんですよね。この「安心して」というのも、もうひとつのキーワードだと思います。

もう亡くなりましたが、イギリスの心理学者であり精神分析医でもあるジョン・ボウルビィの提唱した概念に、「セキュア・ベース(A Secure Base)」というものがあります。直訳すれば、「安全な基地」。「心の安全基地」という言い方もされます。この概念の意味するところは、「人は、いつでも帰還できる安全な基地を持っていれば、より不確実で難しいことにチャレンジできる」というもの。

ボウルビィはこの概念を、子どもの養育行動に関する研究から導き出しました。彼が最初に発見した理論は、「母親とのアタッチメントが十分にあって、母親から愛情をたっぷり受けて育った子どもほど、より不確実なことにチャレンジできる」。

つまり、「例え失敗しても温かく迎えてくれる場所がある」ことが明確であれば、人は失敗を恐れずに挑戦できる、ということです。「安全な基地」の安全性が高ければ高いほど、より遠くまで遠征できるわけですね。

みんなの介護 なるほど、すごく良く分かります。

山口 このセキュア・ベースの概念を知っていると、今、信賞必罰の態勢でイノベーションに取り組んでいる日本企業の戦略など「あり得ない」のがわかります。

例えば、「1年以内に何らかのイノベーションを達成せよ。できなければペナルティーを科す」なんて社命は、完全に逆効果。ペナルティーに言及した時点で、イノベーションの達成は困難になります。なぜなら、そもそも人は、安心して仕事ができる状態になければ、リスクを冒せないからです。

もし、リスクを冒してでも部下にチャレンジしてほしいと思ったら、「たとえ失敗しても、キミの人事評価には一切影響しない。それでも、もし誰かに何か言われたら、オレが120%責任を取る」くらいのことを言って、部下を心から安心させなければなりません。

つねにセキュアな状態で働くことができれば、モチベーションを保ち続けることができる

みんなの介護 今伺った「セキュア・ベース」という概念も、介護現場の改善に役立てられそうですね。

山口 そう思いますね。経営者側が、スタッフ一人ひとりに対して、いかに「セキュアな状態」を作ってあげられるかがポイントになってくるでしょう。

「セキュアな状態」には、さまざまなパターンがあるはずです。

やりがい・達成感に関して言えば、「仕事に対して誠実に取り組んでさえいれば、必ず正当に評価される」という安心感。これについては、先ほどの青梅慶友病院のように、「いつも同僚の誰かが見ていてくれる」という評価システムが有効ですね。

経済面で言えば、「遅刻や欠勤をせず、真面目に働いてさえいれば、生活を維持できるだけの収入が得られる」という安心感。これについては、待遇改善が近道になります。

また、対人関係について言えば、「いつでも気の合う同僚たちと、嫌な思いをせずに楽しく働ける」という安心感。これについては、相性の良いスタッフ同士を組み合わせるなど、勤務シフトの見直しで改善できます。

そうやって、働く人の安心感を何重にも担保してあげれば、その人のモチベーションも自ずと高まっていくはずです。サービス業に従事するうえでは、なんといってもモチベーションが最も大切ですから。

みんなの介護 確かに、介護の仕事でモチベーションをいつまでも保ち続けるのは、すごく難しいことのようですね。スタッフ本人としては、時間をかけて高齢者に丁寧に接してあげたいのに、人手不足であまりに忙しすぎて、おざなりの対応しかできない。そんな自分の仕事ぶりに、自ら心を痛めている介護スタッフがたくさんいます。

山口 介護職は、お年寄りという制御不能な「自然」を相手にする、大変難しい仕事です。そんな不確実で大変な仕事に、自己肯定感が持てない不安定な労働環境の中で取り組まなければならないとしたら、それはもう、気の毒としか言いようがありません。人手不足を解消するために、もっとお金が必要なのであれば、政府に何らかの予算措置をお願いするしかないでしょう。お金で解決できる問題であれば、今すぐにでも対処してほしいと思います。

金融コンサルタントがこの世から消えても、社会は1ミリも困らない

みんなの介護 医療の発達で日本人の平均寿命は着実に延び、ここ数年、「人生100年時代」というフレーズが世間を賑わすようになりました。私たちが本当に100歳まで生きるとすると、50歳で企業を早期退職した場合に残り50年、60歳で定年退職しても残り40年という長い年月を生きることになります。その一方、AI(人工知能)の進歩はめざましく、これから多くの仕事がAIに取って代わられるとの予測もあります。これからの日本人は、「働く」ことに対して、どのような意識を持つべきでしょうか?山口さんのキャリア観をお聞かせください。

山口 また、ずいぶん大きなテーマですね…。ちょっと、関係ないところから話し始めてもいいでしょうか?

まだ翻訳されてないのですが、昨年、ロンドン大学の人類学者であるデヴィッド・グレーバーが『Bullshit Jobs:A Theory』という本を刊行しました。「ブルシット・ジョブズ」、日本語に訳せば、「クソ仕事の理論」ですね。その本の中に、興味深い記述がありました。

現代の都市では、ゴミ収集車が1週間来なくなるだけで、町中にゴミがあふれて大変なことになり、都市機能はほぼ崩壊します。一方、現代の東京で最も高給取りなのは外資系の金融コンサルタントだと思いますが、彼らが1ヵ月間この世からいなくなっても、世の中的には1ミリも困りません。

つまり、どういうことかというと、今の私たちの社会では、最も役に立たない仕事に、最も高い給料が支払われているということ。その一方で、「ゴミ収拾」という最も必要とされている仕事には、おそらく必要最低限の給料しか支払われていない。これって、明らかにおかしいですよね。

みんなの介護 そうか。言われてみると、確かにおかしいですね。

山口 介護の仕事についてもそうですね。高齢化社会を迎えた今、介護は最も必要とされている仕事のひとつなのに、それに相応しい給料が支払われているとは思えない。おかしな話です。「コンサルタントで高給を取っているおまえが言うな!」と言われるかも知れませんが(笑)。

日本政府には、所得税の税率を上げてもいいから、社会に必要な仕事にお金が回るようにしてほしい

みんなの介護 山口さんは現在、組織・人材開発のコンサルタントとしても活動されていますが、キャリアのスタートは大手広告代理店でしたね。

山口 はい。私が新卒入社でキャリアをスタートさせたのは、電通という広告会社です。今でもそうかもしれませんが、当時は日本で最も給料の高い会社と言われていました。

「なにかがおかしい」と思い始めたのは、入社して4?5年目の頃ですね。当時私は家電メーカーのCMを制作していましたが、クライアントの人たちより、なぜか私のほうが高い給料をもらっていました。

それで、「あれ?」と思ったんです。冷蔵庫や洗濯機など社会の役に立つ製品を作っている人たちより、社会の役に立たないCMを作っている自分のほうが、なぜ給料が高いのか?私は学生時代、哲学と美術史を専攻していて、経済についてはきちんと勉強してこなかった。そこで、経済を改めて勉強してみようと思いました。

みんなの介護 経済学を学ばれて、疑問は解消したんですか?

山口 解消しませんでした(笑)。「市場原理に任せておくと、どうもそうなるみたいだ」とわかったくらいで…。

ただ、私なりに結論は出しました。CMを乗せる電波は、希少な天然資源ですよね。使える周波数帯は厳格に決まっていて、誰もが自由に使えるものではない。そういう意味では、石油と同じ天然資源なんです。電通は、その資源をがっちり押さえている。だからみんな、電通にお金を払わざるを得ない。アラブの産油国が経済的に潤うのと、理屈は同じです。

そんな風に認識していたので、インターネットの普及に合わせて、私は電通を退社しました。ネットが普及すれば、近い将来「電波」というメディアの希少性は失われると思ったからです。つまり、電通の“油田”は枯渇する、と。案の定、その後の電通は業績を悪化させています。

話がすっかりそれてしまいました。ここで私が言いたいのは、社会の役に立たず、何の価値も生み出していない者に高い給料が支払われるのはおかしい、ということです。ただ、経済の市場原理に任せていると、必要性や有用性に関係なく、どうしても希少なもののほうにお金が回ってしまう。いい加減、この仕組みは改められるべきですね。

政府はこの仕組みをこのまま放置するのではなく、世の中に必要な仕事、例えば介護の仕事にもっとお金が回るよう、市場原理にメスを入れるべき。それが難しければ、必要な仕事の待遇改善に思い切った助成金を付けるべきです。

みんなの介護 介護スタッフの待遇改善に政府のお金を使う場合、財源が問題になりそうですね。

山口 必要な分だけ、税金を上げればいいのではないでしょうか。日本の所得税の最高税率は45%、消費税は2019年10月から10%ですが、北欧諸国では所得税50?60%、消費税20?25%が当たり前。だから日本も、それこそ外資系金融コンサルタントの人たちからは70%くらい徴収すればいいんです。

「税率を上げろ」と言うと、「優秀な企業や人材が海外に流出して産業の空洞化を招く」なんて言い出す人が出てきますが、出ていきたい人には出ていってもらって構いません。空洞化も大いに結構。私はちくわ、大好きですから(笑)。

その代わり、北欧諸国のようにセーフティネットをしっかり張って、年を取っても安心して暮らせる国にしてほしい。将来、私が要介護になったら、仕事に誇りを持ち、経済的にも十分満たされている介護スタッフの方のお世話になりたいと思います。

日本はそもそも、マルチスタンダードの国。何が幸せかを測るとき、さまざまなモノサシがあって良い

「成長経済」と「定常経済」。主張している人は、どちらも「経済」というモノサシにこだわっているという点では同じ

みんなの介護 これからの日本を考えるとき、識者によって意見はまちまちですね。「もっと生産性を上げれば、これからも経済成長は期待できる」と言う人もいれば、「これからはあくせく働くのではなく、現状維持の定常経済で良い」と言う人もいます。

山口 成長経済を主張する人と、定常経済を主張する人は、一見、真逆なことを主張しているようでいて、私から見れば実は同じ人種なんですよね。つまり、健全な社会の在り方を考えるときに、「経済」というモノサシしか使わない人。同じ穴のムジナ、と言ったら失礼ですが。

彼らの議論は、「成長経済か定常経済か」、どちらかひとつしか選択できないことを前提にしています。すなわち、二者択一の「リプレース」の議論ですね。これは、言い換えれば「一神教」の考え方。言わば「経済一神教」です。

先ほど私は、キリスト教の「弱者への慈しみのまなざし」について言及しましたが、旧約聖書に書かれたモーセの十戒には、まず1番目に「私以外の神を崇拝してはいけない」と明記されています。キリスト教が一神教であることを、高らかに宣言しているわけです。

みんなの介護 キリスト教が一神教であることと、先ほどの経済一神教は何か関連があるのでしょうか?

山口 関係あるでしょうね。かつて、ドイツの経済学者マックス・ウェーバーは「プロテスタンティズムが資本主義を生んだ」との論文を発表しましたが、キリスト教と資本主義は、実はきわめて馴染みがいいんです。「物事の良し悪しを経済価値で測る」という考え方は、キリスト教的世界観と矛盾しません。

それに対して、日本はそもそも、一神教の国ではありませんでした。七福神がいて、八百万の神がいる。

文字についても、日本は独特ですね。中国から入ってきた漢字には音読み、訓読みがあり、ひらがなもカタカナもアルファベットも使う。欧米では、ダブルスタンダード(二重規範)はネガティブにとらえられますが、日本はダブルスタンダードどころか、マルチスタンダードの国なんですよね。

みんなの介護 日本がマルチスタンダードの国だとすると、どういうことになるのでしょうか?

山口 一神教のように、危険な原理主義に走る心配がない、ということですね。世の中のさまざまなモノサシや価値観を認め、「それはそれ、これはこれ」と対処している限り、大きな対立や争いは起きません。アリストテレスがその価値を認めた、「中庸を取る」を実践しているわけです。

先ほどの経済の話に戻ると、成長経済でも定常経済でも、どちらでも良い気がします。成長経済を続けるのがツラかったら定常経済を目指せばいいし、定常経済がつまらなかったら成長経済を目指せばいい。

そもそも、モノサシが「経済」である必要はありません。人生100年時代を迎えた今、それぞれの人が、それぞれ自分の気に入ったモノサシで、幸せを見つけていけば良いのだと思います。

これからの時代は、「役に立つもの」より「意味があるもの」が重要視されていく

みんなの介護 人生100年時代、山口さんだったら、どんなモノサシを使いたいですか?

山口 モノサシの話の前に、先ほどのブルシット・ジョブズ、「クソの役にも立たない仕事」のところで、言い忘れたことがあります。それは、これからの時代、「役に立つもの」は次第に不要になっていくだろう、ということです。

かつてわが国には「三種の神器」と呼ばれる工業製品がありました。昭和30年代であれば、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫。昭和40年代であれば、カラーテレビ、クーラー、自動車。これらはそれぞれ豊かさの象徴であり、これらを使いこなすことで、私たち日本人の暮らしは、飛躍的に便利で快適になりました。

こうした三種の神器は、いわば「役に立つもの」の代表ですが、平成を通り越して令和の時代を迎えた今、これら三種の神器をありがたがって使う人は、おそらく日本のどこにもいないでしょう。

みんなの介護 むしろ、若い人の間ではテレビのない暮らしのほうが「センスが良い」と言われる場合もありますね。

山口 この世の中の「価値があるもの」には、実は2種類あります。「役に立つもの」と「意味があるもの」。これまで日本企業が得意にしてきたのは、「役に立つもの」を作ることでした。しかし、時代は確実に変化していて、今、「役に立つもの」に対するニーズは急速に失われつつあります。

代わって注目されているのが、「役に立たないけど、意味があるもの」。アートはまさにその典型ですね。持っていても何の役にも立たないけど、芸術作品としての意味はある。

先ほどからモノサシの話をしていますが、「役に立つもの」は「数字で定量化できるもの」でもあります。食品を5℃で保存できるとか、時速250kmで走れるとか。そして、このように数字で定量化できるものは、人工知能に容易に代替できます。

一方、「意味があるもの」は、数字で定量化することもできなければ、何らかの関数を使ってコンピュータに計算させることもできません。そもそも、人工知能に「意味」という概念はないはずですから。「意味があるもの」は、いくらAIが進歩しても、やはり人間にしか作れないのです。

みんなの介護 つまり、これからの時代、人間は「役に立つもの」ではなく、「意味があるもの」に関わる仕事に就くべきですね?

山口 そう思います。そしてそれは、介護の現場についても言えるのではないでしょうか。

お年寄りの日常生活をサポートすることは、極端にいえば、ロボットにだってある程度はできます。しかし、その方がこれまでどんな人生を歩んできて、これから終末期に向けてどう生きていくのか、見守ってあげられるのは人間だけ。特にお年寄りは、最期の瞬間まで、自分自身の人生に何らかの意味を見出したいはず。その意味を作ってあげることは、介護スタッフの大切な仕事のひとつだと思います。

介護スタッフの方には、普段の立ち居振る舞いやお喋りを通して、お年寄りが自分の人生に意味を見つけられるよう、お手伝いをお願いしたいです。人生の最期を迎えるとき、人間は誰でも「意味のある人生だった」と思いたいはずですから。

撮影:公家勇人

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医師・医療ジャーナリスト
2022/11/07

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