昨日、早速、遠赤外線ヒーターを買い換えるために、近所の家電量販店に妻と一緒に実物を見に行きました。
昨日の書いた記事でも紹介した、お目当ての機種が運良く売り場に置いてあったのですが、実物を見るとやたらとサイズがでかかった印象ですね。作業場は狭いのでもうちょっとコンパクトな物が良かったのですが・・・。なので、作業場用にはもっと小型で値段的にも安いものを買うことにしようと思いました。
ネットショッピングでいきなり買わないで、実物を見に行って本当に良かったです。大型のヒーターは、今回の購入目的からすると大きすぎでした。しかし、実際に電源の入っているヒーターにも当たらせてもらって、いい感じにじんわりと暖かくて、その点に関しては非常に良い感じでした。
「リビング用にどうかな?ちょっと欲しいかも・・・」と思ったその瞬間、うちの奥様の鶴の一声でやめることになりました。
妻「デザインダサくない?」
僕「うん、まあ知ってたよ!デザインダサいよね!!でもでも、性能もいいしさ、いろいろと多機能だし、省エネの技術もかなりすごいし、けっこう良いと思うんだけどね・・・。うん、まあダサいよね・・・」
妻「私、これを買っても愛せないかなあ。」
僕「ですよね・・・。」
今になって思えば、売り場に置いてあるヒーターで、デザイン的に優れていると言えるものは少なかったですね。特に、「人気」ということで下調べをしたはずの日本企業の製品は全滅でした。インターネットで検索して、ディスプレイに表示された小さな写真を見ていただけだと、よくわからなかったけれども、お店で実物を自分の目で見てみると「ダサい」と言わざるを得ませんでした。
ホント、性能的には素晴らしいと思うのですけどね〜。最近の遠赤外線ヒーターは省エネ機能も充実していて、かなりの高機能ではあるのです。でもどうして、日本の家電というのは「これぞ日本の家電だぜ!」っていう独特のダサさを感じさせるデザインなのでしょうか。絶望的です。
もしも、これを買ってリビングに置くとしたら、家にいる間はずっとこのダサい見た目の家電が視界に入ってくるわけです。それは大きなストレスとなってしまいます。だからこそ、日常生活で使用する工業製品の見た目のかっこよさには気を使いたいですよね。性能的には素晴らしいのに本当に残念な気持ちになりました。
目次
日本のプロダクトデザインは成熟していない
日本のプロダクト(生産品)デザインは、結論を言ってしまえば成熟していない状態なのですよね。だから、性能が良かったとしてもデザインはものすごく微妙だし、かっこ良くしようとこだわっている様子が見られない物がおおいのです。
その反面、電気屋さんで売り場に並んでいる遠赤外線ヒーター達を見ていて「ちょっといいな」と思ったのは「アラジン」のヒーターでしょうか。
アラジン 遠赤グラファイトヒーター ホワイト AEH-G401N-W
- 出版社/メーカー: Aladdin (アラジン)
- 発売日: 2014/09/19
- メディア: ホーム&キッチン
- この商品を含むブログを見る
↑作業場で使用するには、小型だし、シンプルだし、安いし、おそらくこの辺りの製品を買うことになりそうです。
アラジン ブルーフレームヒーター グリーン BF3911-G
↑今回は買わないけど、アラジンの「灯油を使うタイプのストーブ」なんて、ものすごくかっこいいです。これは、将来的に寒い地方の田舎などに住むようになったりしたら、是非とも手に入れたい製品ですね。
ちなみにアラジンはイギリスのメーカーなのだそうです。写真だとわかりにくいかもしれませんが、実物を見ると、非常にかっこ良いのですよ。使い勝手という意味では、日本のメーカーの製品の方が優れているという話も聞きますが、見た目のかっこよさと言うのは正義だと思います。
ただ、日本の家電製品のデザインがダサい理由というのは、ある意味で仕方のない部分というのもあるのです。この記事ではそのことについて説明していきたいと思います。
日本のプロダクトデザインのルーツとは
まずは、日本のプロダクトデザインのルーツについて書いていかなくてはなりません。
そもそも、江戸時代以前の日本において、現代日本の工業製品に相当する存在と言えば、「職人の作る工芸品」がそれにあたるでしょう。当時は、現代のように工場での大量生産の技術が存在しない時代です。だから、日常で使用されるあらゆる道具が手作りされていました。
特に当時の最先端の道具と言うのは、一流の職人の手によって作られ、上流階級の人々が使用するために、貴族や武士の手に収められていました。だから、日本のデザイン、芸術について語るとしたら、当時の貴族文化や武士の文化と言うのは避けては通れない話でもあるのです。
例えば、武士の使う「刀」です。「刀」はその時代の最高の技術と、最先端のデザインの物が作られ、使われていました。特に、時代によってデザイン的な変化が大きかったのは「鍔」などの「刀装具」ですね。これは、その時代の刀を所持する目的に応じて、その姿が変遷していきました。
室町時代などの、戦争が多かった時代は見た目は無骨だけど実用的な刀装具が用いられていました。この頃の時代は「刀」は実用性が追求された武器(道具)だったのです。
※室町時代の鍔の例(画像は東京国立博物館 - トーハクより)
ところが、江戸時代の初期〜後期にかけては、武士が戦う必要がほとんどなくなった安定した時代でした。だから、武士の権力の象徴として、時代が進むにつれて、絢爛豪華かつ細かい細工が施された刀装具が用いられるようになっていったのです。
※江戸時代の鍔の例(画像は東京国立博物館 - トーハクより)
特に、江戸時代後期の刀装具の職人さんの技術と言うのは、超絶技巧と言っても差し支えないほどに、とてつもなく洗練されていたのです。
刀という「道具」が、武器ではなく「装飾品」としての意味合いが次第に強くなってきたというわけです。つまりこの時代は、「見た目重視」の刀を作るプロフェッショナル職人が育成されて、伝統的な工芸の世界を中心として、デザイン的な意味で、ものすごい発展を遂げたというわけなのですね。
特に歴史的に見ても、戦争のない穏やかな時代は芸術文化が発展しやすい傾向にあります。だから、刀装具だけではなくて、江戸時代は、日本国内のあらゆる芸術文化が熟成していった時代だったのです。
ある意味で、この時代こそが、日本のデザインや芸術のレベルが最も洗練されていた時期と言っても過言ではありません。
文明開化と急速な変化
(画像は黒船来航 - Wikipediaより引用)
ところが、ペリーの黒船がやってきたことから状況は一変します。江戸時代が終わり、鎖国→開国となって、海外の文化が流入してきたのです。
この時代の、歴史的な変化の事を「文明開化」と呼んだりするわけなのですけれども、江戸時代から明治時代に移り変わった辺りから、とてつもない速度であらゆるものが変化していってしまいました。
「鉄道」や「ガス灯」等、当時の人々にとっては、西洋の見たこともないような便利な技術が衝撃的だったに違いありません。そうして、驚きとともに恐ろしい速度で欧米の文化が吸収されていきました。
街には洋装をした人々が現れ、着物を着る人の数も減りました。ところが、西洋的なものが輸入されると同時に、逆に日本独自の文化は衰退していってしまったのです。
・・・これだけの急速な変化が受け入れられた原因というのは、日本という国が「多神教の国」だからなのではないかと思います。まあ、日本は仏教がメインだし、隠れキリシタンみたいな人達も当時はいたわけなのですが、土着の信仰と言うのものは、われわれの精神に深く根付いているものです。
日本には「八百万の神」なんてものがあったりするわけじゃないですか。「世の中に存在するすべてのものが神様」という考え方です。あれって、言ってしまえば一つのものに固執するのではなく、「他の文化をも存在を認める」ということに繋がると思うのです。「一神教の国」の多くが、その国の文化を守っている場合が多いのは、外からの文化を受け入れ難い土壌があるからだと思います。
そしてそれとは逆に、この急速な変化の原因は、異国の全く異なる文化も容易に受け入れられる、日本人の精神構造に原因があるのではないでしょうか。
まあ、どちらにしても、事実として、江戸時代→明治時代と移り変わるときに、歴史上まれに見る速度で、欧米の優れた技術が吸収されたというわけなのです。
職人の需要がなくなった
また、この時代と言うのは、イギリスの産業革命が数十年も前に終わっている時代なわけです。ゆえに、文明開化と同時に日本の産業も「工業化」していきました。
そうして、今まで日本のデザインを支えていた「職人」の需要がなくなっていくのです。
それまで、武士の権力の象徴とも言える刀の需要が、1876年に「廃刀令」が施行されたことによって、完全に消滅してしまったのは、一つの大きな事件でした。「刀」は、当時の人々にとっては、ただの鉄の棒ではありません。「刀は武士の魂」と言われるように、非常に大切にされてきた命にも変わる存在でした。だからこそ、当時の洗練された技術とデザインが使用されてきた「職人技の結晶」のような存在でした。
そして、悲しいことに、海外の文化を得るのと引き換えに、江戸時代後期までの期間で積み上げてきた日本の美的感覚の集大成のような存在を失ってしまったのです。
その結果、日本と海外の文化がブレンドされて、明治時代、ある意味での新たな日本独自の文化というものが誕生したのです。これは欧米の文化とも、これまでの純粋な日本の文化とも異なる全く別種な存在です。問題なのは、生まれ変わったばかりで未熟であるという点です。
つまり、ドラクエで言うと、転職してレベルが1の状態になってしまったのと同じ状態ですね。
この時代に文化的な部分がリセットされてしまったことで、日本独自のデザイン文化がゼロの状態に引き戻されてしまったというわけです。
デザインやアートの発展には時間がかかる
ただ、文明開化以降、技術的な部分だけは素晴らしい速度で進歩していきました。第二次世界大戦で日本が敗戦した後も、高度経済成長期を経て、世界的な技術大国へと発展することに成功しました。
これは、おそらく「技術」というものが日本人の気質的にも合っていたからなのでしょうね。日本人って丁寧だし真面目ですもんね。世界的にもレベルの高い製品を生み出すことができる国になることが出来たと言うのは、明治時代以降の日本人の努力の賜物だと思います。
しかし、その一方で、デザインやアートのレベルは、技術的な発展のスピードから比べると非常に遅かったのです。その点に関しては、海外の製品の方が格段にレベルが上です。つまり、文化と技術がレベル的にアンバランスな状態が、現代に至るまでずっと続いていっている状態というわけですね。
そもそも、急速に発展することが可能な「科学技術」などに比べて、「デザイン」や「アート」は何百年、何千年かけて成熟していくものだったりします。
それは何故かと言うと、生活の為には直接は関係のないところだからです。そりゃあ「使えさえすれば」とりあえずは生きていけますものねぇ・・・。だから、人々は芸術に関してはそこまでの真剣さを持たないし、そこを真面目に研究するのは、人口の中でもごく一部のアーティストやデザイナーだけです。
これは、どの時代も同じ状況であったはずです。故に、「文化的な成長」が「技術の発展」に比べて非常に遅いのは必然なのです。
日本の工業技術は世界的にトップレベルにまで上り詰めることが出来ました。しかし、文明開化でリセットされた文化レベルは、たった150年足らずの期間では洗練させることが出来なかったというわけです。
その一方で、海外(ヨーロッパなど)の文化は大昔から一貫して築き上げてきたものです。だから、その歴史の長さの分だけ美的センスが磨かれています。歴史的には、どの国でも文化がブレンドした時期もあったかもしれないけど、日本に比べるとずいぶんと昔の話です。
だから、日本の家電のデザインが未熟なのは仕方のない事というわけです。
それは、一人の優秀なデザイナーがいればそれでなんとかできるとかそう言う問題ではなくて、もっと根本的な、日本の文化レベルでの問題だと思います。
それでも日本のデザインが世間的に受け入れられている理由
ここまでのところで、なぜ日本の家電などのデザインがダサいものが多いのか?ということについて書いてきました。
ここからは、それがダサくともそこそこ世間的に受け入れられている理由について書いていきたいと思います。
僕は、日本の多くの家電は非常にダサいと思っているのですが、それでもそれを買う人がいる理由はなぜなのか?という話ですね。
老人受けするデザイン
日本の家電は、見た目的には昔から基本的には変わっていない印象があります。何十年も前のデザインを踏襲しつつも、最新の技術を詰め込んだようなイメージではないでしょうか。
つまり、現代日本においては、この「ダサいデザイン」こそが、最も普遍的で、最も昔から存在しているビジュアルであるということが言えます。「多くの日本人にとって違和感のないデザイン」と言い換えても良いでしょう。
江戸時代以降にリセットされてしまった美的文化から生まれたレベルの低いデザインも、100年以上も経てばその次代の人々にとっては「生まれた頃からあるのと同じ馴染み深いもの」という認識に変化するのは当然のことです。
そして、僕がダサいと思っているデザインが受け入れられているのは、「それ」しか存在しなかった時代を生きてきた人達が、たくさん世の中に存在しているからです。つまり「老人」ですね。一般的に、老人は変化というものを極端に嫌う傾向があります。だから、昔から変わらない見た目の家電の方が違和感がなくて、受け入れやすいのです。
そもそも、家電製品の多くは老人の需要を意識してデザインされています。特に、暖房器具なんてものは、身体機能が衰えて、寒さを感じやすい「お年寄り」こそが必要とする場合も多いです。若い学生なんかは、一人暮らしでワンルームのアパートとかに住んでいたりするので、エアコン一台さえあればそれでOKですものね。若さと気合があれば、上着と布団だけで冬を越すことも不可能ではありません。
だから、老人にウケそうなデザインというものを作らないと、むしろ売れないという事態にもなりかねないというわけです。
インターネットの存在とデザイン感覚
言ってしまえば、若者と老人の「デザイン感覚」には大きな隔たりがあるのですよね。
それには、「インターネット」の存在が非常に大きな影響を与えています。というのも、ウェブを多く使用する世代は、海外のレベルの高いデザインに触れる機会が、小さい頃から多かったはずだからです。
10代〜50代くらいの世代の人は、普通にApple製品とか使っていたりしますものね。やはりなんだかんだ言ってiPodやiPhoneやMacなどのデザインはとてつもなくレベルが高いですよ。小さい頃から「Apple」をはじめとする、洗練された製品に触れながら育った世代のデザイン感覚と言うのは、そこそこまともではあるかと思われます。
ところが、老人はインターネットなどというハイカラなものが存在しない時代から生きてきているのです。
そして、脳みそがスポンジのように情報を吸収できる年齢の時は、自分の身の回りにあるものが全てだったのです。したがって、若年者に比べて、優れたデザインの経験が少ないと言えます。
美的センスが、昭和とか大正くらいの時代から、ほとんど変わっていない人が多いのですよねぇ。しかし、これは仕方のないことです。だから、ダサいストーブを見ても、昔から変わらないダサさだからこそ、むしろ違和感なく受け入れることができるのです。
以上のことから、世代間のギャップが大きすぎるというのも、日本の家電がかっこ良くならない理由の一つであると言うことが出来ます。
日本の企業のデザインが洗練されない理由
インターネットの発達による、情報革命が起こって、海外の優れたデザインが広く知られるようになった現代ですが、そんな状況でも日本の家電デザインのレベルが上がらないのはなぜなのでしょうか?
ここからは、その辺りの事情について考えていきます。
企業がかっこいい製品を作りたがらない理由
そもそも、「家電」というものは一人の職人が作るものではなく、「企業」が利益を追求して製造するものです。一つの製品のために大勢の人間が関わることになります。ゆえに、売れないかもしれない製品は作ることが出来ません。「売れないかもしれない」リスクのある製品を世の中に出すような冒険は難しいのでしょうね。
特に今の時代は、ちょっとした失敗が、取り返しのつかないことになるかもしれない厳しい時代です。そのことこそが、革新的な製品が生まれにくい理由の一つとしてあげられるでしょう。
それに、新しいコンセプトの製品を作るには、それだけで開発費として莫大なコストがかかります。それも、企業の腰を重くしている原因の一つかもしれません。
先程も書いたように、今まで通りに作っていけば、お年寄りを中心に買ってくれる人が現れるわけですからね。企業を存続させるためには、短期的にはその考え方で良いとは思います。けれども、現在生き残っている老人たちがいなくなった後には、非常に困ることになるでしょうね。
今の若い人が年をとってから、昔ながらの見た目の家電では買ってくれない、という事態にも陥りかねません。
製品の「見た目」ってものすごく重要な要素です。でも、そこをなんとかしないというのは、どうかしていると思います。
おそらく(ビジュアル的なかっこよさという意味での)デザインの重要性を理解していない人が経営しているのでしょう。
僕は、日本の家電製品を作っている企業の内部事情については全く知りません。けれども、「かっこいいデザインを作ろうと思っている人がいないのでないか?」と疑ってしまうくらいに絶望的なデザインが多いと感じています。これは、今回買おうと思った遠赤外線ヒーターだけではなくて、日本企業のほとんどの製品に言うことができる事実です。
そんな人達が作っているのだから、どうしたって日本の家電のデザイン的な部分での成熟が遅くなってしまうわけです。これも、ある意味仕方ないことですよね。
ユーザーの意見を聞きすぎてしまう
それと、もう一つの原因としてユーザーの意見を聞きすぎてしまう企業の体質というのもデザインがダサくなる原因だったりします。日本人はその場の空気を読み過ぎちゃうのですよねぇ。
その製品のデザイン全体の一貫した「コンセプト」を、一つのクレームや意見に過剰に反応して、捻じ曲げてしまう場合が多いのですよ。そのために、性能はいいんだけど、やたらと多機能で、その多すぎる機能を実現するために、よくわからない形状の家電が誕生してしまうというわけなのです。
その点、Apple社なんかは上手くやっているのですよね。これまでも、ある時期が来ると、いらないものはバッサリと切り捨ててデザインを一新することで、さらなるデザインの追求を行ってきたのですよね。もちろん、ユーザーの意見は無視ですよ。
初代iMacではフロッピーディスクを廃止したり、新しいMacBookではUSBポートをタイプCだけ残して廃止したりとかですね。ユーザーの意見よりも、そのプロダクトのコンセプトの一貫性を重視した結果、スタバでドヤ顔できるくらいにかっこいいマシンが誕生したというわけです。
その点、日本人と言うのは周囲との協調性の方が、個人の我を通すことよりも重要視する場合が多いのです。
だから、いろんな人の意見を聞きすぎて、その集合体のようなごちゃごちゃしたデザインのプロダクトしか生まれてこないのです。例えて言うならば、日本の家電製品は友達が材料を持ち寄る「闇鍋」みたいなものですね。あらゆるものをゴリゴリに詰め込んでいるがゆえにシンプルさがないのです。
これは日本人の性質というべき部分でもあります。だからこそ、個人プレイができるくらいのカリスマ性を持った優秀なデザイナーが生まれにくいし、そういう人がいたとしても一人の人間の意見は通りにくいです。
ゆえに、日本という国は、レベルの高いシンプルなデザインが生まれにくい特性があるのです。協調性がありすぎるというのも、日本で、かっこいいデザインの家電が生まれにくい原因なのではないかと思います。
美術教育が重要視されていない
先程、「老人」にデザインが進歩しない原因の一端があると書きました。
ところが、「若い人」でも、人によってはデザインへのこだわりが薄い場合も多いです。それこそ、人にとっては見た目なんか関係なくて、スペックだけ良ければOKという人も多いのは事実です。
ただ、それは個人の問題ではなくて、日本では、「美術教育」が重視されていないということが原因の一つだったりします。
7〜8年程前、僕が大学院生だった時代に、とある政治家の方と話をする機会がありました。そこで、「クールジャパン」についての意見を聞かれました。ところが、その政治家は完全にとんちんかんな事を言っていまして、美術教育の重要性が全くわかっていない様子でした。
日本をクールにするための中心的存在であるにも関わらず、日本の美的センスの根本的なレベルの低さをまったく理解していないのです。
これが今の日本の最大の問題点の一つなのですよ。芸術の重要性を理解しない人間が政治家になっているのです。トップに立っている人間がそれだから、クールジャパン(笑)となってしまうのです。
日本では美的感覚が自然と身につくわけではない
で、そんな人が決定権を持っているもんだから、美術教育は縮小されていくばかりです。本来であれば、文明開化によってリセットされてしまった「デザイン」や「アート」の分野にもっと本腰をいれて、教育による底上げを行って、バランスをとるべきなのです。
なぜなら、伝統的な「美」が失われつつある日本の家庭には、美的感覚の教育を行うことが出来ないからです。
その点、伝統的な文化が絶やされていない海外の国では、子供時代から身の回りの洗練された多くのものに囲まれて育っていくわけです。だから、子供たちは美的感覚を自然と受け入れていくことができるのです。
ところが日本では意識的に教育を施さない限り、優れた美的感覚を手に入れることは出来ません。洗練された造形物が周囲に少ない状態だからです。自宅にあるのはダサい家電とかだったりしますからねぇ。
だからこそ、日本では、学校等でそれを補填しなくてはならないはずなのです。そうでなくては、特別に興味を持って勉強をする子以外は、デザインに対する関心が育つはずがありません。
そして、年齢を問わず、多くの人間がデザインへの関心が薄いのも、日本でデザインが洗練されない理由の一つなのです。
日本の家電製品のデザインの未来について
日本という国は、デザインやアートの分野では他国に遅れを取っています。それはここまでで述べたように仕方のない事情もあります。
では、日本の家電のデザインには未来がないのか?というと、そうではありません。
こんな状態の日本でもかっこいいデザインの家電製品は少数ながら存在しているのですよ。
バルミューダデザイン
「バルミューダデザイン」という日本の会社が作っている製品はものすごくかっこいいです。非常に洗練されたデザインでありつつも、性能的にも革新的な製品を多数生み出しています。
「グリーンファン」という扇風機は一世を風靡しましたよね。我が家にも一台あるのですが、音も静かだし、見た目もかっこいいので非常に気に入って、数年間使い続けていますよ。
バルミューダデザインのグリーンファンは金額的には高いけど、夏になると品薄になるくらいに、めちゃくちゃ売れています。つまり、分かる人はわかるということなのですよね。革新的な製品でも、うまいことハマれば売れるのです。
グリーンファンの良かったところは、見た目的なかっこよさもありますが、機能的にも優れていたからですね。非常にシンプルかつ、全体的な性能も含めたバランスが非常に良かったのです。だから、ヒットしたのだと思います。
日本の家電はどうなっていくのか?
デザインの良し悪しと言うのは、センスだとか、その人の好みが関係していると思うかもしれませんが、そうではありません。絶対的な評価基準というのが存在しています。
だからこそ、性能も含めたトータルのデザインが優れている製品は、グリーンファンのように高額だったとしても売れるのです。世間の一般的な人達も、なんとなくの感覚ではあるけれども、優れたものには反応を示すというわけですね。
その事実に、僕は「救い」を感じます。
日本という国のデザインレベルが様々な事情から、全体的に低かったとしても、本当に優れたものは認めてもらうことができるのです。これは、作品を作っている身からすると非常に嬉しいことですよ。
現在の日本が、レベルの高い製品が生まれにくい停滞した状況であるのも事実だと思います。けれども、少数ながらもレベルの高い物も作られ始めているし、なんだかんだで売れるわけです。
おそらく今は過渡期なのでしょうね。もうちょっと待てば、いい感じのデザインの遠赤外線ヒーターが発売されるかもしれませんね。
まとめ
以上が、日本の家電のデザインがダサい理由です。
まとめると以下の様な感じになります。
- 明治時代の文明開化によって、今までの文化がリセットされてしまった
- リセットされた文化が再度、成熟するには長い時間がかかる
- ダサいけど、一定の人が買ってくれる無難なデザインである
- 先進的なデザインが作れない企業
- ユーザーの意見を取り入れすぎてしまう
- そもそも美術教育が熱心ではないから、美的感覚が育ちにくい
文化的な土壌が育っていない日本では、家電製品に、デザイン的なレベルの高さがないのは仕方のないことだと言うわけですね。
僕が電気屋さんで、一瞬「いいなあ」と思ったヒーターも「ダサさ」さえなければ買っていました。性能的には申し分なかっただけに、非常に残念です。うちの奥さんが言うように、毎日目にするモノの見た目が微妙だと気分的にも盛り上がりませんものね・・・。
もうちょっと考えますが、おそらく、アラジンの遠赤外線ヒーターを作業場用に買うことになるでしょう。リビング用にも、もう一台暖房器具が欲しいと思っているので、それはまたもうちょっと検討してから、何を買うかは考えます。
一応、日本にはバルミューダデザインみたいな、素晴らしい製品もあるにはあるのですが、現状ではそれは扇風機などの一部の家電だけの話です。特に、遠赤外線ヒーターなんてものは、後回しになっちゃうのでしょうね〜。
ただ、最近はインターネットの発達によって情報の共有も進んでいるおかげか、大企業でなくとも、レベルの高い製品は評判が広まりやすくなっていると言う印象もあります。クラウドファンディングとかで、おもしろそうな製品とかも、最近はよく見かけますものね。
まあ、急速に時代が変化しているわけですから、日本の家電のダサさも近いうちに変化があるのかもしれません。
それがいつになるかは予想できませんが、日本の製品の、性能と見た目の全体的なデザインレベルが許せるものになることを、本気で願っております。