「気まずさ」を感じ始めた世論
その空洞は、技術的には「地下ピット」と呼ばれる極めて一般的な空間であり、かつ、それをつくるのには、盛土にするよりもよりコストがかかり、しかも、万一の場合に備えた「モニタリング」のために必要な空間であり、「手抜き」とは到底言えない存在だったわけです。
もちろん、これまでの都の説明がちぐはぐであったり、建物の下も含めて、さながら全て盛土構造にするということを示唆する内容が都の関係者から発言されていたのは事実のようです。
しかし、そうした説明不足や説明の誤りと、「安全か否か」という技術的な問題は全く別次元の問題です。
言うまでも無く、都民の食の安全にとって何よりも大切なのは、それが「安全で、衛生的なのか?」という一点。仮に誤った説明を受けていることが問題だとしても、より安全・衛生にすることを十分説明しないという事と、その逆(つまり、より不衛生にすることを十分説明しないこと)とでは、その道義的な「罪」のレベルは全く違うと言うこともできるでしょう。
つまり、今回の件は、少なくとも当方が公表されている情報を見る限り、
「都の技術者に説明不足があったようだが、悪意があったというよりは、より安全で衛生的にするという善意に基づくものだったのではないか」
という風に見えるわけです。
しかし、人間というのは、なかなか冷静にこういう風に物事見ることはできません。
なんと言っても、「ウソ」「手抜き」「不審」「汚染水まみれ」等と、一週間にわたって朝から晩までよってたかって悪態をつき続けたのに、よくよく調べたら、本質的には「シロ」だったわけですから、なかなか世論の方も「引っ込み」がつきません。
今、「世論」は、事実が明るみに出るにしたがって、
「気まずい」
思いをしているのであって、出来ることなら、東京都の人たちが、やっぱり「悪人」であって欲しいという欲求を、潜在的に強く持つ心理状況に陥っています。
こうした時、人は、この「気まずさ」を解消するために、バッシング対象の「わずかな瑕疵(ミス)」を血眼になって探しだし、ヒステリックにそれを責め立てるという行為に及ぶことになります。
一般的にこうした心理学的現象は、フェスティンガーという社会心理学者の古典的理論である「認知的不協和理論」(cognitive dissonance theory)によってきれいに説明することができます。
これは、人間は、「不協和」な関係にある(つまり、整合していない)認識(認知)を複数持っていれば、その不協和を解消するように動機づけられる、という理論です。
今回の場合は、
認知A:東京都はワルイはずだ!
認知B:東京都が移転先に決めた豊洲は、不衛生的だ!
という2つの認知は全て「協和」します。
その結果、「東京都に悪態をつく」という自らの行為は「正当化」されます。
しかし、この認知Aは、次の認知B’とは、全く協和(整合)しません。
認知B’:東京都が市場移転先に決定した豊洲は、やっぱり衛生的だった。
この認知B’は、東京都が悪いはずだ、という「認知A」と不協和であり、したがって、「東京都に悪態をつき続ける」という自らの行為が『正当化』できなくなってしまうのです!
つまり、認知B’が正しければ、東京都はワルイ奴ではないし、そんなワルイ奴じゃない東京都に悪態をつき続ける私たちは、実はワルイ人なんじゃないか――という、不安に駆られてしまうことになります。
この時、認知的不協和理論は、次の様に「予測」します。
「人間は、現存する『不協和』を解消できるように、一生懸命工夫して、その『不協和を解消』しようと努める」
さて、この認知Aと認知B’の『不協和を解消』するには、いくつかのパターンがあります。以下、いくつか代表的な「対策」、というか、ありていに言えば、
「ごまかし方」
を列挙しましょう。