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公共 NEWS

世界は無根拠、だけど怖くない 
與那覇潤氏インタビュー

アメリカでトランプ氏が再び大統領に選ばれ、日本では新たな総理が誕生しました。「公共」科目が始まった2020年代前半を振り返ると、コロナ禍のロックダウン、ウクライナ戦争、パレスチナ紛争をめぐる議論など、これまで「正解」とされていたものが次々と揺らぎを見せた時代でもありました。このような複雑な時代において、私たちはどのように「公共」という科目と向き合っていけるのでしょうか。
教科書の公共哲学、倫理分野の監修をご担当いただいた與那覇潤からお話を伺いました。

「正解のある時代」が終わった

まもなく2024年が終わるとともに、「2020年代の前半」も閉じられることになります。この2020~24年の5年間を、どんな時代だったと呼ぶべきか。
それは、世の中には「正しい答え」があるとする思い込みが、最後の輝きを見せて燃え尽きる季節でした。

2020年に新型コロナウイルスの流行が全世界の課題となり、どの国でも行動の制限が「正解」だと思われました。憲法上の理由でロックダウン(外出禁止の強制)ができなかった日本でも、人々は一斉に自粛し、開発されたばかりのワクチンに殺到しました。
2022年2月には、ウクライナ戦争が勃発。ロシア軍の侵略であることは明白で、「ウクライナを応援しよう」とする国際世論が湧き起こりました。いわゆるグローバル・サウス(新興国)は態度を留保したとはいえ、「ロシアが正しい」と掲げる国はほぼなく、久しぶりに世界共通の正義が生まれたかのようでした。

ところが2023年ごろから、雲行きが怪しくなってゆきました。
「絶対安全」と言われたコロナワクチンは、実際には重篤な副作用を起こす例があり、接種後に亡くなった人も出ていた。欧米が最新兵器を供与し続けたウクライナも、ロシアに対してどんどん劣勢になり、いまや街頭で市民を拉致する形で徴兵していると言われる。戦争継続は「正義」なのか? と疑うのが、まともな感覚になってきました。

決定打になったのは2023年10月、ハマスの奇襲攻撃で再燃したパレスチナ紛争です。ハマスのテロは容認できないが、病院や学校まで爆撃するイスラエルの過剰報復にも正義はない。対立する両者のどちらかを「こっちが正しい!」と認定して、全推しするやり方では、問題を解決できないことはあきらかです。

あると信じられてきた「正解」は、実はなかった。ある「ふり」をしていただけで、みんなニセモノだった。それがはっきりしてしまった時代に、「公共」という科目はどうすれば成り立つのでしょうか。


(撮影=中村治)

世界に共通の正解があるとみなす風潮は、平成の初頭、1990年に前後する冷戦の終焉時にもありました。社会主義を掲げてきたソ連や東欧諸国が、「私たちはまちがいでした。自由と民主主義こそが正解であり、これからは資本主義をめざします」と音を上げた。
実はそれ以来、正しい答えが「ある」と「ない」の両極を振り子のように往復する形で、世界は動いてきたんですね。

2001年の「9.11」にアメリカ同時多発テロが起こると、イスラーム原理主義の過激な結社は取り締まらないといけないというのが、国際的な「正解」になりました。しかし2003年、テロ支援国家だと認定して米国が一方的にイラク戦争を始めると、「それは正しいのか?」と疑う揺り戻しが起きます。

2010年代は、もう一度「正解はある!」とする方向へと、氾濫のような逆流が生じた時代でした。序盤に起きた中東の民主化運動「アラブの春」は、やはり民主主義こそが世界共通の理想だとする空気を高め、2011年3月の福島第一原発事故をきっかけに、脱原発とエコロジーの波が欧州でも高まりました。2020年代前半の「答え」はある、ロックダウンでありウクライナ支援だ、とする潮流は、それらの勢いの余波だったとも言えるでしょう。

しかし2024年11月、アメリカ国民は当時のコロナ対策に否定的で、ウクライナにも冷淡とされるドナルド・トランプを大統領に選んだ。もういちど振り子は逆方向に進み、おそらくは戻って来ません。

なぜ、そんなことになったのか。実は、ともに「正解がある」と信じられた季節だった1990年代と2010年代には、よく見るとだいぶ違った点がある。後者、すなわち直近の時代では、正解志向がニヒリズムと表裏一体になっていたのです。

この前まで、「シンギュラリティ」という言葉をよく聞きました。AI(人工知能)がどんどん進歩して、やがて人間を追い越すときが来る、といった意味です。だとすると、もし全世界に共通の「正しい答え」が存在するなら、わざわざ人間が考える必要はありません。AIに丸投げして、計算してもらう方が楽ちんです。
あるいは、重なる時期に流行した「脱炭素化」の議論を思い出しましょう。極端なエコロジーの主張によれば、牛のげっぷは二酸化炭素が多いので、人間は牛の家畜を減らすために肉食をやめないといけない。というか人間自身が二酸化炭素を出しているので、私たちは生きているだけで地球環境にマイナスな、罪人だということになります。

ChatGPTのような生成AIに質問して教えてもらうのは、Googleで検索して自分で考えるより10倍も多く電力を使うので、環境への負荷としては最悪です。だからAIと脱炭素化が同時に流行するのは、本来なら矛盾している。
どうしてそんな奇妙な事態が起きたかといえば、「人間の悪口さえ言えればそれでいい」人が、あまりに増えたからです。「どうせAIには勝てない」「地球にとっては迷惑」という口実をつければ、いくらでも他人の活動をくだらないとけなすことができます。

ニヒリズムと癒着した正解志向は、「だからそれ以外は要らない」という攻撃の道具として便利だった。それが猛威を振るったコロナ禍では、他の人を叩いてストレスを晴らすために、お前のやっていることは「不要不急だ!」とレッテルを貼る人が続出しました。そうしたネットリンチの流行は、ウクライナ戦争の下でも、意見が異なる相手を「親露派」呼ばわりする形で引き継がれています。

こうした状況では、同じ社会に生きる人を信頼しあえず、まして議論に基づく民主主義など育てようがないでしょう。いま私たちがはまっている、この袋小路からの脱出口を考える役割を、「公共」は担わなくてはなりません。

日本社会を行き詰まらせた「信頼の喪失」

先日までのコロナ禍が明らかにしたのは、実は日本人こそが世界で最も「個人主義的」だったという、意外な事実でした。もっともここでいう「個人」とは、自ら考え行動する市民といったポジティブな含意ではなく、互いに孤立して共感しあわず、本人の損得しか気にしない人という意味です。

ロックダウンによる外出制限の長期化につれ、欧米諸国ではどこでも、「こんな権利の制限はおかしい」とする反対運動が起きました。デモをやったら投獄される中国ですら、白紙革命と呼ばれる抗議活動(2022年11月)で、共産党に政策を撤回させています。
しかし、日本人だけはやりません。かといって本気で「自粛」の効果を信じていたかといえばそんなことはなく、「俺は開いてる店を見つけたからもういい」として、黙ったまま個人ごとにしれっと飲みに出る。

なにが正しいのかを考える際に気にかける単位が、徹底的に「自分一人」だけになっていて、他の人への信頼がないのです。内心の主張が仮に世論と違っても、「誰かはついてきてくれるはずだ」とする期待が持てないから、声をあげる一歩が踏み出せない。
周りをキョロキョロ見回し、いつなら飛び出しても「ひとり負け」にならないか、そればかりを気にしている。互いに顔色を見て「せーの」でしか行動できない社会に、はたして公共というものはあるのでしょうか。

強いていうと、日本における政治的なトップの役割は、そうした「号令役」として公共を担う点にありました。いまが「変えるタイミングですよ」と、みんなにシグナルを送る。
誰もが知っている例は、ご存じのとおり、8月15日の敗戦(玉音放送)ですよね。そこまで極端でなくとも、江戸時代までは、たとえば天災や不祥事が続いたら同じ天皇の在位中に「改元」して、世の中の空気を変えようとしました。いまだと、不信任案が通ったわけでもないのに首相が身を引くとか、「内閣改造」をしてリフレッシュをアピールするといった手法が、似た機能を果たしています。

戦後の象徴天皇制の前から、日本ではトップに立つ人が全権力を握る例はまれで、むしろタイミングだけを指示し、後はそれぞれが「意向を汲んで」自分でやってねとする統治が通例でした。しかし近年、それが効かなくなっています。

コロナ禍では2022年の半ばから、皇族や首相があえてマスクをしない姿を見せ、外すタイミングをPRしました。しかし2024年が終わるいまも、スタッフが全員マスクの施設やお店は珍しくない。総理大臣を替えてはみても、国民が政治に抱く気分はちっとも変わらず、民意をシャッフルすることができていません。
「あの人が言うなら」ついていこうという信頼感は、この国から消えてしまった。一方で欧米諸国に「正解」を求めようにも、そんなものがあるという幻想自体が崩れている。

信頼も正しさもない環境では、生活に占める刹那性の度合いだけが増していきます。
秋から世相を騒がせている「闇バイト強盗」はその究極形で、やり取りが残らずに消えるアプリで集まり、見知らぬ人どうしで重大な犯罪に手を染める。人生を左右するような大ごとは、互いによく知った仲でなければできないはずだという前提が、もうないんです。集まった後に時間があれば、話しあう内に「やっぱりヤバいからやめよう」となる可能性もありますが、仕組む方もわかっているから、そうした余裕を与えず犯行に着手させる。

しかし、おかしいのは闇バイトの従事者だけでしょうか。「話しあってもどうせ相手は変わらない」「だから自分の出した結論がすべてだ」とする態度は、SNSはもちろん、政治家や有識者、TVのコメンテーターのあいだにも広まってはいないでしょうか?

誰もガチャからは逃れられない

時間をかけることの価値が見失われた状況を、ぼくは「“伝家の宝刀を最初から抜きすぎ” 問題」と呼びます。最後まで待ってから使うべきツールを、いきなり最初から出してしまう。
水戸黄門が初めから印籠を掲げて練り歩いたら、独裁者が自分を誇示する権威主義国のパレードと同じですが、そんなコンテンツを「カッコいい」と感じる人が増えています。

たとえば教科書でも扱う、哲学の「トロッコ問題」。本来なら、これはどうなんだ? と議論を交わすための問いかけとして意味があるのに、出せばマウントを取れる最終兵器のように使う人がいます。「トロッコ問題って知ってますか? 少数派は結局、切り捨てるしかないんですよ。はい論破」みたいな。
思考実験としての提案が、「極論こそが結論だ」に化けてしまっている。そうした姿勢に慣れたままで、感染症や戦争といった現実での極端な状況に出会うと、ますます単純化された「答え」ばかりが、正解として横行することになります。


(撮影=中村治)

面白いのは、ライトノベルって作風に流行りすたりがありますよね。この春に出した『教養としての文明論』(呉座勇一氏と共著、ビジネス社)では「異世界転生もの」を、徳川時代と現在とで共通する感性を探る手掛かりにしましたが、どうやらもう古いらしい。

最近は「追放もの」、それも追放されても無双できるタイプが売れ線だそうです。王国やパーティから追い出されちゃったけど、その時点でのスペックが普通の人から見たら超強いので、よそでは逆に「最初から無敵のヒーロー」になれました、みたいな。
つまり近代のあいだは主流だった、時間をかけてレベルアップする過程を描く「成長譚」には、もう魅力を感じない。むしろ、結局どんな世界に生まれるかの「運」だけ、ぶっちゃけすべてがガチャでしょ、とするシニカルさが前面に出ている。
瞬間という意味だけではなく、そうした偶然性、「根拠のなさ」というニュアンスでも、現代の社会では刹那性が増しているんです。

気をつけたいのは、2021年に「親ガチャ」が話題を呼んだように、偶然性の問題は人が生きているかぎり、どこにでもあるということです。狭義の社会問題には限られないし、誰もそれから自由であることはできません。

日本は諸外国と比べて、相対的には国民の同質性が高い社会です。アメリカの大統領選で報じられた、ある地域はこの宗派が強いので保守的だとか、でもこの町は何系の住民が多いからリベラルだ、みたいなことはあまりない。それは長らく長所だと思われてきましたが、これからはわかりません。
宗教や人種の別がはっきりしていて、それぞれの価値観もわかっていれば、「このあたりは民族がぶつかる境界地帯だから、衝突を防がなければ」と、ある程度予防できる。そうでない日本では、「えっ、そんなことで!?」というきっかけで、ガチャに外れたと感じる人による大事件が起きる。理由がガチャでしかないからこそ、前もって予測することも困難です。

国を代表する政治家が殺されたら、普通は政治への不満が動機ではないかと思う。ところが容疑者の憎しみの対象は、かつて母親が入れあげていた宗教団体で、親ガチャに外れたことが犯行の原点だった。それが異常であることへの驚きを、私たちはなくしています。

なによりSNSと動画配信が全盛のいま、過激な行為を起こしてどこまで反響を呼ぶか自体がガチャです。悪趣味な動画がバズって大儲けしている人、罪を犯したのに共感されて世論を動かす人がふつうにいる。
だったら、時間をかけて努力するよりも思い切って「テロガチャ」を回して、外れたら人生捨てればそれでいいじゃないか。宗教や思想上のイデオロギーに基づいて起きる海外のテロ事件よりも、いっそうデスパレート(やけっぱち)な、そうした気分がこの国の公共を揺るがしています。

孤独でなく「対話」が極論を緩和する

SNSのユーザーには、著名な大学の先生や毎日TVで見かける有名人も多くいます。彼らを見ていると「言論」というものの役割が、変わってしまったことに気づきます。

一人で考えられることには限界があるし、なにより結論が正しいかどうかわかりません。だから他の人、特に意見の異なる人と議論を交わして、「ここまでは同意してもらえますね」「わかりました、次こそは納得してもらえる根拠を出します」と、互いの主張をブラッシュアップしてゆく。
それが言論の本来の役割で、フェアな議論が自由になされる空間を「公共圏」と呼んだりしました。SNSの定着は、その基盤を掘り崩してしまったのです。

いまSNSで発信する言論人は、単に読者(フォロワー)のアバターになっています。TVゲームの中で使う「キャラ」みたいなものですね。「このキャラは強そうだぞ」という著名人を見つけてフォロワーになり、論争で勝ったのはその人であって自分じゃないのに、あたかも「キャラを操って敵を倒した」かのような快感を味わう利用者が増えました。

格闘ゲームでキャラを選ぶとき、「この必殺技は科学的に実現可能なものか」なんて考えませんよね。学者をキャラとして使ってSNSでの論破ゲームを楽しむ人も、その学者の主張が「本当に学問的か」は気にしません。いつしか学者の側も、そんなフォロワーばかりを向いてサービスするうちに、主張が学問からかけ離れていく。下品な罵倒や事実を歪めた主張、居直りやマウンティングであっても「勝ってる感」さえ出せれば、みんなが認めてくれるという世界に染まってゆきます。

どうしてそんな、不毛な遊びに溺れてしまうのか。原因は孤独であり、自己疎外でしょう。

自分には価値がなく、発言してもどうせ誰も聞かないと思っているから、すでにインフルエンサーとして力をもつ人の子分になる。勝手にその人に自分を投影して、「代わりに」戦ってもらっている気になり、あたかも自分が勝ったかのように錯覚する
こうなると勝ち負けがはっきりつくことが大事なので、穏当な妥協よりも極論がウケてゆきます。むしろ、常識ではあり得ない極端な主張を「自分たちフォロワーが応援して勝たせた!」となった方が、盛り上がりがMAXになる。SNSはこのような「言論によるテロ」の増幅器になっているのです。

「公共」の授業の教室は、そうした現状への防波堤になってほしい。リアルで一緒にいるからこそ、罵倒や極論で相手を威圧する人は出にくいはずです。40名近く集まれば、当然多様な意見が生まれ、最初から1つに収斂することもありません。

気をつけたいのは、教師が「望む答え」があるかのような匂わせです。そうした雰囲気が漂うと、優秀な生徒から順に空気を読んで、褒められる意見を述べようとします。クラスで弁が立ち、頭がよいとされている子がこぞって一方向に行ってしまうと、異なる発言は出てきません。
インフルエンサーにみんなで「いいね」しあう、SNSのエコーチェンバー(こだまが反響する部屋)と同じで、それでは教室で授業をする意味がない。教師も生徒もまず確認したいのは、授業の中だからこそ失敗していいんだということ。
「公共」が開く世界は、いわば「バーチャル日本国」みたいなもの。航空機のパイロットがフライトシミュレーターで訓練を積むように、現実の日本と世界に出てゆく前に、ミスプレイしてもリトライできる空間で、練習する場所だと思ってほしいのです。

答えのなさを手探りで楽しめる授業に

ちょうど1年前に『ボードゲームで社会が変わる』(小野卓也と共著、河出新書)という本を出し、あえてTVやスマホのゲームではなく、人と人とが同じ場所で対面して遊ぶ意義を考えました。「公共」をどう教えるかにも、同じ問いは関わってくると思っています。

AIを相手に一人で遊んでいると、自ずと「俺が」うまくなればクリアできるという発想になってゆきます。でも、ぼくたちが生きやすい世の中とは、そういうものでしょうか。
課金しまくれば強くなるスマホゲームのように、とにかくめいめいがお金を使いまくる、そのために稼ぎまくる、働きまくる……といった社会に、公共は存在しません。単にバラバラの個人が、蹴落としあっているだけですから。

一人ではできないことが「適度にある」環境があってこそ、じゃあ周りに助けを求めようか、相手を説得してみようかと試みて、公共と呼ばれる領域が生まれてくる。ゲームだって最初から全部楽勝だったら、かえってつまらないのと同じです。適度にミッションをクリアするから、充実感が湧くわけで。

先日、ちょっと面白いことがありました。ぼくはうつで3年間ほど働けなくなり、リワーク施設に通っていた時期があります。そこで知りあった友人たちと、施設でよくプレイしていたボードゲームを久しぶりに、自宅で再戦してみたんです。

うつの最中は脳の機能が低下するので、ルールの飲み込みも遅くなります。逆にいまは、みんな職場に復帰しており、当時よりずっと元気。……なのですが、リワークでは昼休みの余り時間にささっと遊んでいたゲームを終えるのに、1時間以上かかってしまいました。どうしてか。
能力が回復している分、自分が打てるベストな手=「正解」があるんじゃないかと、めいめいがバラバラに考え込んじゃったんですね。一緒にプレイする他のメンバーじゃなく、「自分とゲーム」の方だけを見てしまった。これでは、遊びのテンポも悪くなる。

対面で遊ぶときは、相手とリズムを合わせることが大事です。パッと直感で打つ手を決めればミスもするけれど、でもそれに釣られて他のプレイヤーもミスをして、結果的には意外にいい手になるかもしれない。そうした形で偶然性を織り込めたとき、「ガチャ」はつまらないことではなくなります。裏返して言うと、「正しい」最善手を打つことは、楽しむための必要条件ではないわけです。

「正解」がないことが、不安を募らせるのではなく、むしろ参加者を楽しくさせる空間を作る。「公共」の授業は、そのきっかけを作るものであってほしい。

本来、あらかじめ「ひとつの正解」があるのなら、政府が力で押しつける権威主義の方が効率的ですよね。むしろ私たち民主主義の国がめざす公共とは、そうした答えがないからこそ、国民が議論して見つけてゆくものだったはずです。


(撮影=中村治)

「公共」の開設を目前にした2021年、まさにコロナ禍の最中での取材でも、「専門家」を盲信する危険性について述べました(歴史のない社会でどう「公共」を教えるか?)。
もし、あらゆるトピックごとに専門家がいて、彼らが正解を供給してくれるなら、一般の国民には授業も教育もいりません。それこそ独裁者が専門家集団を顧問として従え、彼らの答申に沿った決定を全員に強制すればいい。そうなると民主主義はもちろん、国民主権も必要ない。
しかし、あなたが専門家の助言を欲するのは、そもそもあなたが知らない分野の話題だからですよね。だとすると「その専門家はほんとうに実績のある人か。正解を断言できる根拠を持っているのか」も、あなたは知らないはず。なのに疑わずに信じてしまうとしたら、相手を不安に陥らせて信仰を売り込む、タチの悪い宗教と同じ手口にはまっているだけです。

2016年のアメリカ大統領選では、トランプが当選する可能性はゼロのように言われ、メディアと専門家の大部分が予想を外しました。24年はそこまでの「大外し」ではなかったものの、接戦と報じてきたのに圧勝という点では、やっぱり予測をまちがえている。
原因として「隠れトランプ派」の存在が、よく指摘されます。人前では言いにくい本音をぶっちゃけるトランプは、あまり堂々と「支持しています」とは言いにくい候補なので、機械的なアンケートの項目では、そうしたシャイな支持者が数字に出てこない。

こうしたとき、ミクロとマクロの両方のアプローチが大切です。
一人ひとりとじっくり話せば、その人が表では言わない複雑な内面を、聞きとれるかもしれない。逆にいったんは関心の対象(この例ではアメリカの選挙)から離れて、広く世界の全体を見渡してみる。するとどこの国でも、エリート支配への反発や自国最優先のナショナリズムが高まっていることが見えてくる。そうすると「米国でもひょっとして……」と、気づくセンスが生まれます。

学問の名称でいうなら、前者は文化人類学、後者は国際政治学の手法に近い。でも、大事なのは専門ごとに分岐する前に、むしろいま「語られていないこと」はないのか、を問う姿勢です。

答えのない時代だからこそ、誰もが手探りで考え、ひとりよがりにならぬよう、他の人と議論を交わしていかなければならない。そのためには特定の専門に縛られず、かつまちがえてもいい、失敗しても大丈夫だという「安心感のある学び舎」が必要です。
「公共」を教える教室は、そうした空間であってほしい。教科書の著者のひとりとして、そう強く願っています。

與那覇潤氏のその他インタビュー記事はこちら[歴史のない社会でどう「公共」を教えるか?

高等学校公民科 公共

與那覇 潤よなは じゅん

1979年、神奈川県生まれ。評論家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学者時代の専門は日本近現代史。公立大学准教授として教鞭をとった後、双極性障害にともなう重度のうつにより退職。2018年に病気の体験を綴った『知性は死なない』、2020年に精神科医の斎藤環氏との対談『心を病んだらいけないの?』(小林秀雄賞)が話題となる。講義録『中国化する日本』『日本人はなぜ存在するか』、歴史家としての主著『帝国の残影』『平成史』、時評と対話を収めた『過剰可視化社会』『危機のいま古典を読む』など著書多数。ほぼ毎週、noteでも現代世界についての考察を発信中。(写真=中村治)