【書評】 『宗教・抗争・政治 主権国家の始原と現在』 苅部 直、瀧井一博、梅田百合香 編
国家と法、宗教はどのような関係を取り結びながら近代国家の秩序を形成してきたのか。8人の論者が日本と西洋の双方に視野を広げて論じた論考が、国際日本文化研究センターの共同研究の成果として刊行された。扱う内容は、日本だけに限っても「国家」概念、国家神道、日本的キリスト教、無教会クリスチャン、政教分離など多岐にわたる。具体的な事例を挙げて歴史的経緯を整理し、精密な討究によって諸相を明らかにする。
第1部「近代日本における宗教と政治」には論考3本を所収。第1章では山口輝臣氏が宮中祭祀と国家神道の関係について論じる。
「天皇の本質を祭祀に置き、天皇を祭祀王といった形で理解するような言説が広まるのは、日本国憲法下でのことである。天皇を象徴と規定した同憲法のもと、戦争放棄の規定と相まって、天皇は『武』ではなく『文』を専らとする存在であるとの考え方が普及し、『文』に分類できそうな『戦後』の天皇の行動のなかで、祭祀に焦点が集まってきたためである。しつこいようだが、宮中祭祀が『戦後』も続いていたことがその前提にある。こうした言説は、社会におけるその機能面に着目すれば、日本国憲法に象徴という形で天皇が存在していることの意味を弁証しようとする点で、象徴天皇の神学ということができるだろう」(山口輝臣「宮中祭祀と国家神道――象徴天皇の現在とその道のり」)
山口氏は、村上重良、子安宣邦、島薗進らの学説をふり返った上で、そうした議論が「国民の多数からかけ離れた応酬」「『実態』とズレた」ものであったと批判する。氏によれば、そのことが明確になったのが2016年の明仁天皇による「おことば」を契機とする世論の形成。「おことば」では、天皇の務めとして大切にしてきたものとして、「国民の安寧と幸せを祈ること」と「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」の二つが挙げられた。具体的には、前者は宮中祭祀、後者は日本各地への旅行を意味していると考えられ、宮内庁ウェブサイトではこれらを「象徴行為」という言葉で概括する。明仁天皇はこの「おことば」を通して、「象徴天皇神学のなかに宮中祭祀を位置づけ直す作業」をし、このような捉え方が国民から広く支持されたと、山口氏はいう。つまり、学者たちによる議論全体をきれいに無視して、「おことば」とそれを支持する国民によって明快に位置づけられたのが、宮中祭祀の現在ということである。そうであれば、いくら「国家神道」を追ったところで宮中祭祀の変遷の理解にはクロスしない。氏は、こうした状況を「サポーターとアンチ・サポーターではなく、天皇とファンとが現在を創り上げたのである」と形容し、もはや「国家神道」は学者ら専門家集団から遠くかすんで見えなくなるほどに、遠いところまで来てしまったのであると述べて論考をしめくくる。
第2章は西田彰一氏による「筧克彦のキリスト教論」。筧克彦(1872~1961年)は東京帝国大学法学部教授で、国家学・憲法学・行政法学を専門とする学者でありながら、「古神道」や「神ながらの道」という独自の思想を説いた人物。ドイツ留学時代にキリスト教に接して衝撃を受け、キリスト教に強い関心を抱くようになった。特にアウグスティヌスの神国論を高く評価していた。西田氏によれば、筧は著作の中で、「古神道」のキリスト教に対する優位性を主張しつつ、キリスト教の信仰をより完成に導くことこそが「古神道」の使命であると位置づけているという。その後、筧は思索をさらに深め、「筧は日本に適応したキリスト教、すなわち『日本基督教』を主張するようになる」。これは、魚木忠一らもっぱらキリスト者によって主唱された「日本基督教」とは、字面こそ同じであっても根本的に異なるタイプの捉え方である。筧の著作をひも解き、丹念に分析した上で、西田氏は以下のようにまとめている。
「筧はキリスト教を一定評価しつつも、この批判を通して、自らの『古神道』の優位性を唱え、国内のキリスト教信仰をその内部に『日本基督教』として包摂しようと試みたのである。そして、普遍性を唱えるものの、実際には勢力圏外の人々を説き伏せることを目指すというよりは、その有効範囲は現実の『帝国』日本の勢力圏と連動するものであった」(西田彰一「筧克彦のキリスト教論――『日本基督教』と『古神道』」)
第3章では苅部直氏が、南原繁(1889~1974年)と三島由紀夫(1925~1970年)の言論媒体を通じたやり取りに着目。それらを含む南原の戦後社会における言動を取り上げ、その背後にあった意図を考察する。
学生時代、三島は南原(当時は法学部長)のフィヒテに関する演説を聞く機会があったと、朝日新聞のインタビューで語っている。当時、南原は「新日本の建設」と題した講演を行っており、そこでは「戦に敗れたこと自体は必ずしも不幸ではない。……問題は国民がそれをいかに受取り、それにいかなる自覚をもって新たに立ち向かうかにある。真の国民的試練と戦はこれからである」と主張していた。その講演を三島が聞いたかどうかは不明だが、こうした新しいナショナリズムの呼びかけに共感を覚えていたと推察される。南原もまた、自らの主張を理解してくれたことに感銘を受けていた。だが、この新しいナショナリズムは何を支えとするべきなのか、その点で南原と三島は大きく背反することになる。
1946年2月11日に一種の総長就任演説として語った「新日本文化の創造」で南原は、「われわれの祖先は、わが民族を永遠の昔より皇室を国祖と仰ぎ、永遠に生き来たったものと信じ」てきたと述べる。すなわち、「国生み」の神話を根拠として、代々の天皇が「国民的生の共同体の高き秩序の理想の表現」として国家制度の内に位置づけられてきた伝統は、終戦による民主化の改革を経たあとも維持されるべき、日本独特の「國體」と解されていたのであった。同年4月29日の天長節記念祝典でも、南原は同様の見解を示した。46年の年頭詔書は、「現人神」としての天皇の神格を否定し、「人類愛ノ完成」を目標に掲げるものであった。これを南原は、「國體」の基礎を「あまねく世界に理解さるべき人文主義的な普遍的合理的基礎」に基づいた「新しき倫理的文化的共同体」へと刷新するという、「新たな『国生み』の宣言」として読み取ったのだと、苅部氏はいう。
こうした神話と「國體」を基礎とする「祖国復興、精神革命」の主張を三島は理解してくれたが、国際社会にも通用する「普遍的合理的基礎」などには賛同しておらず、非現実的な天皇親政論へと走ってしまったと、南原は捉えていたようである(1972年のインタビュー)。
よく知られているように南原は内村鑑三門下の無教会のクリスチャンである。内務省に就職した際、採用面接試験で神社参拝の可否を質問されたが、国家的な「祭礼」と、個人の内面における信仰とを分けるという「怜悧」さを示して乗り切った。
「おそらく戦後の南原が、日本神話の意義を唱える姿勢を維持しながら、一九四六年の年頭詔書における『人類愛』の理想に着目し、新たな『国生み』と呼んだのは、この『怜悧』な政教分離に対する評価にも関わるのではないだろうか。宮中祭祀から各地の神社に至るさまざまな祭祀について、神話の意義を伝え、皇室の持続を正当化する『祭礼』として維持しながら、その意味づけを『日本民族』のみにとどまらない、人類に開かれた共生の理想へと開いてゆく。そうした作業を通じて再解釈を試みるならば、神話の意味とリベラル・デモクラシーの理想とは、南原にとって矛盾なく共存するものだった」(苅部直「南原繁と三島由紀夫―天皇と『神道』をめぐって―」)
第2部「主権国家の起点を探る」には瀧井一博、白幡俊輔、梅田百合香、第3部「現代国家と境界の変容」には毛利透、神江沙蘭(各氏)が論考を寄せる。
国際社会で宗教のプレゼンスが増し、政治と宗教の距離が問われる昨今、国家・法・宗教という三者の関係を現代的な観点から再検討する意義は大きい。ニュースやソーシャルメディアを眺めるだけでは見えてこない、世界に対する深い読解を可能にする一書。
【3,960円(本体3,600円+税)】
【千倉書房】978-4805113127