「古事記に書かれたことの本当の意味は」なんてことを言う者が大勢いる。
それは、ホツマツタヱ、カタカムナ文献、あるいは、聖書、仏典なども同じだ。
だが、それらの書の真意を知ることに何か意味があるかというと、全くないと私は思うようになった。
その理由はこうだ。
古事記も聖書も、千年以上、見当もつかないほど沢山の人達によって「書かれていることの本当の意味」が解読され、かなり多くの自信たっぷりな発表があった。
しかし、いまだ統一された見解はなく、いまだ新しい解釈が生まれ続けている。
それはなぜかというと、それらに深い意味とか本当の意味などというものがないからだと思う。
ただ、何か凄い秘密、極めて重要な真理があると人々を騙すことが、ずっと続けられているだけだ。
そして、「聖書の真の意味はこうである」と言う者の解釈のおかげで何か良いことがあったかというと何もない。
よって、やはり、それらの書に、真の意味、重要な情報、ありがたい真理などはないと考えるべきと思う。

これまで、このように言う者はほとんどいなかった。
聖書や仏典はありがたいものと地球規模で信じさせようとする力は強く巧妙である。
ただ、おぼろげながら憶えているのは、『カモメのジョナサン』の著者のリチャード・バックが『ONE』という作品の中で、聖書をただの紙だと言っていたように思う。
彼が正しかったわけだ。
そして、この数日、よく取り上げている『エイリアンインタビュー』では、地球人を奴隷状態にしておきたい宇宙人によって、聖典を有難がるよう、地球人は洗脳されているらしいが、私は「なるほど」と納得がいったのである。
ただし、読んでそのまま意味が分かる聖典や経典であれば、良い教えが書かれている可能性がある。
しかし、馬鹿げているほど深読みしないといけない真実の書など、考えてみればあるはずがない。
支配者に分からないように書いたと言う者もいるが、それなら誰にも分からないではないか(笑)。

重要な真理は、全て我々の記憶の中に在るのだが、我々は記憶を失っているのだと思う。
この記憶とは、生まれてから今までの記憶ではなく、過去生を含む、何億年、何十億年、あるいは、それ以上の期間の記憶である。
スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)を有難がる人も多いが、スウェーデンボルグは転生を決して認めていない。
ところが、スウェーデンボルグを有難がりながら、転生について語る変な人が多い。
また、転生を前提に語ったエドガー・ケイシーとスウェーデンボルグの両方を重んじる妙な人も。

大切なことは、自分はすでに知っているという態度と思う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者、ベアード・T・スポールディングが、4歳で大学予備校に連れて行かれ、教師にアルファベットを見せられて、「どう思うか?」と聞かれた時、スポールディングが「分かりません」と言うと、教師は、「そんな態度ではいけない。自分はちゃんと分かっているという態度でいなさい」と言った。
そう教えられたおかげで、スポールディングは名門カルカッタ大学を14歳で卒業したという。
せめて、引き寄せのやり方をちゃんと知っているという態度でなければならない。
そうじゃないから、皆、引き寄せが出来ないのである。