『方丈記』という、1212年に完結した、随筆、雑記、エッセイ、日記・・・等、何とでも言えそうなものがある。一応、我が国古典屈指の作品とされていると思う。
書いたのは、鴨長明(かものちょうめい)という男だ。彼は、立派な神社の次男として生まれ、頭が良く、意欲もあって、神職として出世していき、また、和歌の才能も発揮して、優れた歌人と評価された。
しかし、いろいろあったのだろうが、長明は世俗が嫌になっていったようだ。だが、実際には、どんなことに対して長明が何を考えたかなんてことは、本人にしか分からないことだ。いろんな先生がいろんなことを書いて発表し、中には通説になっているものもあるだろうが、私は全く信じない。本当のことなんて分かるはずがないのだ。長明がもし、あの世で、自分について言われたり、書かれたりしている内容を知ったら、「なんてこったい!」と思うかもしれない。
そして、長明は54歳で世俗を捨て、山中に小屋を建てて引きこもった。だが、いかにも自給自足の生活をしているように書いてはいるが、私は、長年蓄えた資産で悠々自適していたのではないかと思っている(まあ、これも勝手な想像だがね)。その小屋だって、案外に立派なものだったと思う。土台、お坊ちゃまで育ち、都で高級神官、名文芸家として過ごしたエリートが、たった一人で逞しく生きていくことなど、現実的ではないと思うのだ。
とはいえ、本人は、世俗を嫌って、清浄な人間を目指したところはあったのだろう。
そして、数年が過ぎる。長明は、自分では修行している気になり、それなりに自己満足もしていたと思う。
だが、身体も衰え、そろそろ死期も近いと思い始めた頃の、ある静かで爽やかな夜明けのことだ。
結局、自分は何も変わっておらず、欲望にまみれた俗物から一歩も離れていないことに気付く。
私は、巡音ルカの名曲『Just Be Friends』を思い出すのだ。
♪♪♪
浮かんだんだ 昨日の朝 早くに
割れたグラス かき集めるような
これは一体なんだろう 切った指からしたたる滴
僕らはこんなことしたかったのかな
分かってたよ 心の奥底では 最も辛い 選択がベスト
それを拒む自己愛と 結果 自家撞着(どうちゃく)の繰り返し
僕はいつになれば言えるのかな
♪♪♪
~巡音ルカ『Just Be Friends』(作詞、作曲、編曲:Dixie Flatline )より~
結局、長明は、ベストな選択をしなかったし、ベターな選択さえしなかったのだろう。
自己愛から逃れられず、 自家撞着(自己矛盾のこと)の混乱に陥ったままであったのだ。
長明は、自己嫌悪、自己憐憫に陥り、絶望する。
だが、『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公のキョン(男子高校生)なら、「やれやれだ」とちょっと気落ちしても、すぐにその気持ちを流してしまうような気がするのだ。
そして、意図せずにだが、彼に、その「やれやれだ」の口癖を与えた佐々木という美少女も、何があっても、「やれやれだ」と言った後、自分をリセットする逞しさがあるのだ。
しかし、長明は、なんてヘタレ(情けない者)なのだろう。
だが、そんな悲観と幻滅の崩壊感に陥っていた長明の口から、不意に「南無阿弥陀仏」の念仏が自然に発せられ、彼は三度ほど唱えた。
長明は、最初から念仏を唱えていれば良かったのだ。
つまり、仏に全てを任せ、何をしようとも、「仏様にさせていただいているのだ」ということを心の深奥から分かれば、全ての問題は消えたはずなのだ。そうであったなら、どこに住み、何をしようと、人生を楽しめたはずなのだ。
そして、それは、長明と全く同じヘタレである我々もそうなのだ。
上に挙げた、美しき巡音ルカの歌の、「僕はいつになれば言えるのかな」は、何を言うのかは分からないが、私は、一遍上人が言った、
唱ふれば 我も佛(ほとけ)もなかりけり 南無あみだ佛(ぶつ)なむあみ陀佛(だぶつ)
ということであると思うのである。
いつにならなくても、今言えれば良いと思う。
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書いたのは、鴨長明(かものちょうめい)という男だ。彼は、立派な神社の次男として生まれ、頭が良く、意欲もあって、神職として出世していき、また、和歌の才能も発揮して、優れた歌人と評価された。
しかし、いろいろあったのだろうが、長明は世俗が嫌になっていったようだ。だが、実際には、どんなことに対して長明が何を考えたかなんてことは、本人にしか分からないことだ。いろんな先生がいろんなことを書いて発表し、中には通説になっているものもあるだろうが、私は全く信じない。本当のことなんて分かるはずがないのだ。長明がもし、あの世で、自分について言われたり、書かれたりしている内容を知ったら、「なんてこったい!」と思うかもしれない。
そして、長明は54歳で世俗を捨て、山中に小屋を建てて引きこもった。だが、いかにも自給自足の生活をしているように書いてはいるが、私は、長年蓄えた資産で悠々自適していたのではないかと思っている(まあ、これも勝手な想像だがね)。その小屋だって、案外に立派なものだったと思う。土台、お坊ちゃまで育ち、都で高級神官、名文芸家として過ごしたエリートが、たった一人で逞しく生きていくことなど、現実的ではないと思うのだ。
とはいえ、本人は、世俗を嫌って、清浄な人間を目指したところはあったのだろう。
そして、数年が過ぎる。長明は、自分では修行している気になり、それなりに自己満足もしていたと思う。
だが、身体も衰え、そろそろ死期も近いと思い始めた頃の、ある静かで爽やかな夜明けのことだ。
結局、自分は何も変わっておらず、欲望にまみれた俗物から一歩も離れていないことに気付く。
私は、巡音ルカの名曲『Just Be Friends』を思い出すのだ。
♪♪♪
浮かんだんだ 昨日の朝 早くに
割れたグラス かき集めるような
これは一体なんだろう 切った指からしたたる滴
僕らはこんなことしたかったのかな
分かってたよ 心の奥底では 最も辛い 選択がベスト
それを拒む自己愛と 結果 自家撞着(どうちゃく)の繰り返し
僕はいつになれば言えるのかな
♪♪♪
~巡音ルカ『Just Be Friends』(作詞、作曲、編曲:Dixie Flatline )より~
結局、長明は、ベストな選択をしなかったし、ベターな選択さえしなかったのだろう。
自己愛から逃れられず、 自家撞着(自己矛盾のこと)の混乱に陥ったままであったのだ。
長明は、自己嫌悪、自己憐憫に陥り、絶望する。
だが、『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公のキョン(男子高校生)なら、「やれやれだ」とちょっと気落ちしても、すぐにその気持ちを流してしまうような気がするのだ。
そして、意図せずにだが、彼に、その「やれやれだ」の口癖を与えた佐々木という美少女も、何があっても、「やれやれだ」と言った後、自分をリセットする逞しさがあるのだ。
しかし、長明は、なんてヘタレ(情けない者)なのだろう。
だが、そんな悲観と幻滅の崩壊感に陥っていた長明の口から、不意に「南無阿弥陀仏」の念仏が自然に発せられ、彼は三度ほど唱えた。
長明は、最初から念仏を唱えていれば良かったのだ。
つまり、仏に全てを任せ、何をしようとも、「仏様にさせていただいているのだ」ということを心の深奥から分かれば、全ての問題は消えたはずなのだ。そうであったなら、どこに住み、何をしようと、人生を楽しめたはずなのだ。
そして、それは、長明と全く同じヘタレである我々もそうなのだ。
上に挙げた、美しき巡音ルカの歌の、「僕はいつになれば言えるのかな」は、何を言うのかは分からないが、私は、一遍上人が言った、
唱ふれば 我も佛(ほとけ)もなかりけり 南無あみだ佛(ぶつ)なむあみ陀佛(だぶつ)
ということであると思うのである。
いつにならなくても、今言えれば良いと思う。
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なにもかも与えられていて、自分に必要なものは全て揃っていると、、、
食べ物も、服も、靴も、寝るところも、家族も、そして自分のこの体さえ与えられたものなのだと感じました。よく、自分を大事にしなさい。とか大切にしなさい。という言葉を聞くけど、それは自分が一番、という自己中心的な考えではなくて自分でさえ神様から与えられたものだから大切にしなきゃならないのかなあ、と。
「最初から念仏を唱えていれば良かったのだ。」
その通りだと思います。
そして、kayさんから教えていただいた「唱えさせていただく」
これを忘れないようにこれからも実行できたらいいなと思いました。
素晴らしい教えをありがとうございました。