『おはなしおばさんの小道具』(藤田浩子編著)の中に、『一ぴき足りないブーブーブー』というお話がある。現在はどうか知らないが、小学校低学年用の教科書に載っていたこともあるらしい。
オリジナルは世界的な寓話だろうから、教科書だけでなく、誰もが、いろいろなもので一度は見たり聞いたりしたことがあるに違いない。
しかし、このお話の本当に重要な意味を誰も知らない。単に、「お馬鹿なブタさんですね」といって笑う話ではない。
インドの聖者ラマナ・マハルシが、それと似たお話である『10人の愚かな男達』の話を引用して、教えを授けたことがある。
私はそれを、めるくまーる社の『ラマナ・マハリシの教え』で読んだのだが、そこに書かれていたことが、どうもマハルシらしくない。
マハルシが、インドの方言であるタミール語で話したものを誰かが記述し、それが英語に翻訳され、さらに日本語に翻訳する中で、齟齬や欠落が発生したのではないかという気がする。
実際、この話は、深く難しい。
『10人の愚かな男達』は、大体こんな話だ。
10人の男達が大きな川を歩いて渡った。
川を渡り終えた時、仲間の無事を確かめるため、1人の男が、全員の数を数えた。しかし、彼は自分を数に入れなかったために、9人しか数えられなかった。
他の誰が数えても、皆、自分を数えないので、どうしても1人足りない。
「誰がいなくなったのだろう?」
10人の男達は考えたが、分からない。
その時、感傷的な男が、
「あいつが流されたんだ」
と言って泣き出したので、皆、つられて泣き出してしまった。
そこに旅人が通りかかり、泣いている男達に事情を聞いたところ、旅人はすぐに問題を理解した。
そこで、旅人は、
「お前達の頭を1人ずつ殴るから、殴られた者は、自分が何番目に殴られたかを言え」
と男達に言い、男達は同意した。
最初に殴られた男は大きな声で「1」と叫び、そして、旅人は次々と殴り続け、数は「2」、「3」と続いた。
そうすることにより、10人の無事が確認できた男達は喜び、悲しみから解放してくれた旅人に感謝したのだった。
この本では、マハルシがその話を引用した理由を、「失われた男が現れた」「本当は誰も失われた訳ではない」ということを示したかったためと書かれていた。
つまり、真の自己である真我(自己の内に存在する神)は、決して無くなったことはなく、常に存在するのだということを言いたいためだということだ。
間違いではないかもしれない。
しかし、それだけでは、肝心のところが抜け落ちることになる。
10人の男達が泣く原因となった、「流されてしまった誰か」というのは、本当は決して存在しないということが重要なのだ。
男達は、妄想(空想)により、「流されてしまった誰か」を創り出した。その、決して存在しなかった誰かのことが、男達にとっては現実になってしまったのだ。
存在しない誰かが創造されてしまい、さらには、その存在しない誰かが流されたという出来事まで創り上げられてしまった。それは虚偽であり幻想なのだけれども、それが実際に、男達に悲しみをもたらし、男達は不幸になってしまったのだ。
ここのところをよく理解しなくてはならない。
旅人が、男達の頭を殴り終えた時、失ったと思い込んでいた一人が現れたのではなく、その、本当はいないのに、男達にとっては実在となってしまった誰かが消えたのだ。
それが、男達を悲しみから解放したのだ。
さて、では、マハルシの話の真意は何だろう?
『10人の愚かな男達』のお話の中の、本当はいないはずの誰かというのは、実は、我々自身のことなのだ。
それに気付くことは、極めて重要なことであるが、同時に、気付くことは難しい。
我々は、「私が考える」「私がする」「これは私のものだ」という言い方をする。
しかし、そんな「私」など、決して存在しないのだ。
ラマナ・マハルシが教え続けたのはそのことなのだ。
あの愚かな男達が、本当は存在しない誰かのために不幸になったように、我々も、存在しない「私」のために不幸になるという愚かなことをしているのだ。
そして、マハルシは、我々の頭を殴る旅人になってくれているのである。
考える私、行為する私が消えた時が、悟りである。ラマナ・マハルシは、それを「真我の実現」と言う。真我とは神である。
行為する私、考える私とは自我である。
自我は決して存在しないのであるが、神である聖なる意識が人間の肉体と一体化するために、自我という幻想を生じさせるのである。
神がなぜ、そんなことをするのかは分からないので、インドではそれを、とりあえず、神のリーラ(遊び)と言うのである。
幻想である自我が消え去った時、自分が肉体や心であるという誤った束縛から解放され、我々は自分が真我(神)であると知るのである。
それは至福である。自分が神であると知る以上の至福はない。
だが、自分が神であることを楽しむ自我なんて決して存在しないのである。
それを、ラメッシ・バルセカールは、「100万ドルか悟りか、いずれか選べるのなら100万ドルにしなさい。100万ドルを楽しむあなたは存在するが、悟りを楽しむあなたなど存在しない」と冗談めかして言ったのである。
個人である私(=自我)が存在しないことを、どうやって知れば良いのだろう?
自我によって、自分が世界から分離した個人であるという思いを持ち続ける限り、あの愚かな10人の男達のように、我々は苦しみや悲しみに打ちのめされ続けるのである。
マハルシは、どうやって、我々の頭を殴ってくれるのだろうか?
マハルシは、2つのやり方を教えた。しかし、それは実際には同じものである。
個人としての私が本当は存在しないことを知るためには、1つには、その私を探求するという方法がある。
どんな想いが浮かんだ時でも、「この想いは誰に浮かんだのか?」「考えているのは誰か?」と問えば、思考は止まる。
だって、考えている源に意識をロック(固定)してしまうのだから、像のハナ先を押さえて何も掴めなくしてしまったようなものだ。
「誰が考えているのか?」「この想いは誰に起こったか?」に対し、「それは私だ」と答えるまでは良い。
「それは私だ」と浮かんだならば、すかさず、「私は誰か?」と問うのだ。すると、想いは破壊される。
必要最低限の思考である瞬間的な想い以外は、全て空想であるが、それは我々を肉体や心に縛り付ける妄想である。
「私は誰か?」と尋ね、心がそれに応じなければ、空想は消えるのである。
それを勤勉に続ければ、空想の主体である自我は弱くなり続け、やがて、真我自身により、自我は破壊されるだろう。
だが、「私は誰か?」を呪文にしてはならない。1回1回をしっかり自分に問うのだ。
しかし、ただ、心に問うだけだ。答えてはならない。
心の中に潜り込んで神を探しにいけば、神になって帰ってくることになるのである。
尚、ラマナ・マハルシとラマナ・マハリシのいずれが正しいかであるが、ラマナアシュラマム発行の季刊誌『ザ・マウンテン・バス』2006年版第1号によれば、
サンスクリット語:ラマナ・マハルシ
タミル語:ラマナン・マハリシ
ヒンドゥー語:ラマン・マハルシ
となるようだ。タミル語は、ラマナ・マハルシが使っていたインドの方言である。
ナチュラルスピリット『静寂の瞬間(とき)』序文ページより引用した。この本は、マナルシの写真集で、色々な本に書かれたマハルシの貴重な言葉が引用されている。
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オリジナルは世界的な寓話だろうから、教科書だけでなく、誰もが、いろいろなもので一度は見たり聞いたりしたことがあるに違いない。
しかし、このお話の本当に重要な意味を誰も知らない。単に、「お馬鹿なブタさんですね」といって笑う話ではない。
インドの聖者ラマナ・マハルシが、それと似たお話である『10人の愚かな男達』の話を引用して、教えを授けたことがある。
私はそれを、めるくまーる社の『ラマナ・マハリシの教え』で読んだのだが、そこに書かれていたことが、どうもマハルシらしくない。
マハルシが、インドの方言であるタミール語で話したものを誰かが記述し、それが英語に翻訳され、さらに日本語に翻訳する中で、齟齬や欠落が発生したのではないかという気がする。
実際、この話は、深く難しい。
『10人の愚かな男達』は、大体こんな話だ。
10人の男達が大きな川を歩いて渡った。
川を渡り終えた時、仲間の無事を確かめるため、1人の男が、全員の数を数えた。しかし、彼は自分を数に入れなかったために、9人しか数えられなかった。
他の誰が数えても、皆、自分を数えないので、どうしても1人足りない。
「誰がいなくなったのだろう?」
10人の男達は考えたが、分からない。
その時、感傷的な男が、
「あいつが流されたんだ」
と言って泣き出したので、皆、つられて泣き出してしまった。
そこに旅人が通りかかり、泣いている男達に事情を聞いたところ、旅人はすぐに問題を理解した。
そこで、旅人は、
「お前達の頭を1人ずつ殴るから、殴られた者は、自分が何番目に殴られたかを言え」
と男達に言い、男達は同意した。
最初に殴られた男は大きな声で「1」と叫び、そして、旅人は次々と殴り続け、数は「2」、「3」と続いた。
そうすることにより、10人の無事が確認できた男達は喜び、悲しみから解放してくれた旅人に感謝したのだった。
この本では、マハルシがその話を引用した理由を、「失われた男が現れた」「本当は誰も失われた訳ではない」ということを示したかったためと書かれていた。
つまり、真の自己である真我(自己の内に存在する神)は、決して無くなったことはなく、常に存在するのだということを言いたいためだということだ。
間違いではないかもしれない。
しかし、それだけでは、肝心のところが抜け落ちることになる。
10人の男達が泣く原因となった、「流されてしまった誰か」というのは、本当は決して存在しないということが重要なのだ。
男達は、妄想(空想)により、「流されてしまった誰か」を創り出した。その、決して存在しなかった誰かのことが、男達にとっては現実になってしまったのだ。
存在しない誰かが創造されてしまい、さらには、その存在しない誰かが流されたという出来事まで創り上げられてしまった。それは虚偽であり幻想なのだけれども、それが実際に、男達に悲しみをもたらし、男達は不幸になってしまったのだ。
ここのところをよく理解しなくてはならない。
旅人が、男達の頭を殴り終えた時、失ったと思い込んでいた一人が現れたのではなく、その、本当はいないのに、男達にとっては実在となってしまった誰かが消えたのだ。
それが、男達を悲しみから解放したのだ。
さて、では、マハルシの話の真意は何だろう?
『10人の愚かな男達』のお話の中の、本当はいないはずの誰かというのは、実は、我々自身のことなのだ。
それに気付くことは、極めて重要なことであるが、同時に、気付くことは難しい。
我々は、「私が考える」「私がする」「これは私のものだ」という言い方をする。
しかし、そんな「私」など、決して存在しないのだ。
ラマナ・マハルシが教え続けたのはそのことなのだ。
あの愚かな男達が、本当は存在しない誰かのために不幸になったように、我々も、存在しない「私」のために不幸になるという愚かなことをしているのだ。
そして、マハルシは、我々の頭を殴る旅人になってくれているのである。
考える私、行為する私が消えた時が、悟りである。ラマナ・マハルシは、それを「真我の実現」と言う。真我とは神である。
行為する私、考える私とは自我である。
自我は決して存在しないのであるが、神である聖なる意識が人間の肉体と一体化するために、自我という幻想を生じさせるのである。
神がなぜ、そんなことをするのかは分からないので、インドではそれを、とりあえず、神のリーラ(遊び)と言うのである。
幻想である自我が消え去った時、自分が肉体や心であるという誤った束縛から解放され、我々は自分が真我(神)であると知るのである。
それは至福である。自分が神であると知る以上の至福はない。
だが、自分が神であることを楽しむ自我なんて決して存在しないのである。
それを、ラメッシ・バルセカールは、「100万ドルか悟りか、いずれか選べるのなら100万ドルにしなさい。100万ドルを楽しむあなたは存在するが、悟りを楽しむあなたなど存在しない」と冗談めかして言ったのである。
個人である私(=自我)が存在しないことを、どうやって知れば良いのだろう?
自我によって、自分が世界から分離した個人であるという思いを持ち続ける限り、あの愚かな10人の男達のように、我々は苦しみや悲しみに打ちのめされ続けるのである。
マハルシは、どうやって、我々の頭を殴ってくれるのだろうか?
マハルシは、2つのやり方を教えた。しかし、それは実際には同じものである。
個人としての私が本当は存在しないことを知るためには、1つには、その私を探求するという方法がある。
どんな想いが浮かんだ時でも、「この想いは誰に浮かんだのか?」「考えているのは誰か?」と問えば、思考は止まる。
だって、考えている源に意識をロック(固定)してしまうのだから、像のハナ先を押さえて何も掴めなくしてしまったようなものだ。
「誰が考えているのか?」「この想いは誰に起こったか?」に対し、「それは私だ」と答えるまでは良い。
「それは私だ」と浮かんだならば、すかさず、「私は誰か?」と問うのだ。すると、想いは破壊される。
必要最低限の思考である瞬間的な想い以外は、全て空想であるが、それは我々を肉体や心に縛り付ける妄想である。
「私は誰か?」と尋ね、心がそれに応じなければ、空想は消えるのである。
それを勤勉に続ければ、空想の主体である自我は弱くなり続け、やがて、真我自身により、自我は破壊されるだろう。
だが、「私は誰か?」を呪文にしてはならない。1回1回をしっかり自分に問うのだ。
しかし、ただ、心に問うだけだ。答えてはならない。
心の中に潜り込んで神を探しにいけば、神になって帰ってくることになるのである。
尚、ラマナ・マハルシとラマナ・マハリシのいずれが正しいかであるが、ラマナアシュラマム発行の季刊誌『ザ・マウンテン・バス』2006年版第1号によれば、
サンスクリット語:ラマナ・マハルシ
タミル語:ラマナン・マハリシ
ヒンドゥー語:ラマン・マハルシ
となるようだ。タミル語は、ラマナ・マハルシが使っていたインドの方言である。
ナチュラルスピリット『静寂の瞬間(とき)』序文ページより引用した。この本は、マナルシの写真集で、色々な本に書かれたマハルシの貴重な言葉が引用されている。
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