他人を毛嫌いする傾向の強い者もいれば、さほどでない者もいる。
あまりにその傾向が強いと、「人間嫌い」になってしまい、世間でうまくやっていけない。
ところで、有名な映画評論家だった淀川長治さんの本に、『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』というものがあるが、この本のタイトルが本当は何を示しているのかは分からない。
私は、淀川さんは好きなのだが、もし、言葉通りの意味で、こんなセリフを言う者がいたら、私は、その人をあまり信用しない。
人間の心の構造を調べれば、人間は嫌いな人間を作らずにはいられないことが分かる。だから、他人を嫌悪するからといって自分を蔑む必要はない。
言ってみれば、神が人間を、嫌いな人間があるように創ってあるのだ。
人はなぜ、ある種の他人を毛嫌いするのだろう?
wowaka(現実逃避P)さん作詞作曲の、初音ミクと巡音ルカのデュエット曲、『ワールズエンド・ダンスホール』に、
短い言葉で繋がる意味を 顔も合わせずに毛嫌う理由を
さがしても さがしても 見つからないけど
という歌詞があるが、なるほど、その理由は見つからないものだ。
簡単に言えば、人は、考え方が自分と異なる人間が嫌いなのだ。
異なる教義や信念を持った人間を異分子として、過激な手段を使ってでも排除したがるのは、本当は、ただ嫌いだからという理由からなのだ。
だから、世間の教義や信念に反する考え方をする者は、世間の人に嫌われ、その者もまた世間の人を嫌うだろう。
この世とは、常に多数派のものであり、少数派は理不尽な目に遭わされるのは当然のことなのだ。
「いや、少数派を尊重する者だって沢山いる」と言う人がいるだろうか?
それは、あくまで、その変わった少数派の考え方が、ある程度、自分の考え方と似ている場合にのみ容認するというだけのことなのだ。
スーフィー(イスラム神秘主義)に伝わる面白いお話がある。
ある男が、いずれ村の井戸の水が恐ろしいものに変わり、飲むと気が狂ってしまうことになると聞き、その前に水を貯蔵した。
そして、ある日から、井戸の水を飲んだ村人達は、確かに狂気としか思えない行動をするようになったのを、その男は見たが、自分は貯蔵された水を飲んでいるので、難を逃れたように思え、安堵した。
だが、ある時、その男は、村人達が自分を見る目が、哀れみと嫌悪に満ちていることに気付いた。
やがて、男は、村人達のその目に耐えられなくなり、井戸の水を飲む。
そして、村人達は、狂気から回復したその男を祝福したのだ。
だが、その男は、本当に狂気から回復したのか、あるいは、正常だったのが狂ってしまったのだろうか?
精神分析学者の岸田秀さんは、人間は皆、幻想の中に生きていて、人間である限り、1人残らず、確実に狂っていると言う。
それはある意味正しい。
人間は、空想をしない限りは正常なのだが、空想しない人間はいないので、確かに、実際は、全ての人間は狂っている。
ただ、岸田さんは、フロイト説に則り、人間は本能が壊れた動物であり、本能を補完する目的で創った自我は自然に立脚しない幻想であるから、人間は狂っていると言っているのである。
だが、本当は、自我という幻想が本能を歪めているのである。
本能そのものは正常なのだ。
人類は3万年ほど前まで、自我を持たなかった。
脳自体は20万年前からさして変わらないにも関わらず(むしろ太古の時代の方が大きかった)、人類が人類らしくなったのは3万年程前のことで、それは、人類が自我を持ったことによる。
自我を人類に与えたものは、神とでも言うしかないものだ。とりあえず神と言うが、神が人間に自我を与えた理由は、別に本能が壊れたからではない。そもそも、自我なんて、ちっとも本能の代わりになどならない。
いったん与えられた自我が破壊されたら、人間は狂気から解放される。
だが、自我を与えたのが神なら、それを破壊する者もまた神なのだ。そして、神は極めて稀にしかそれを行わない。
だから、ここでは岸田さんの言う通り、全ての人間は狂っているとする。
すると、上のスーフィーの伝説の男は、1つの狂気から、別の種類の狂気に移っただけだということが分かる。これは、よくあることだ。洗脳から覚めたと言う者は、単に、違う洗脳で上書きされたというだけのことなのだ。
岸田さんも述べていたが、人間は、同じ種類の狂気を持った者同士で集団を形成し、そのグループに所属する人々は、その中では正常な人間として扱われる。しかし、そのグループの中の者が違う種類の狂気を持つ集団に行けば、たちまち狂人扱いされるのである。
それが、このスーフィーのお話の要旨である。
我々は、自分が狂っていることを棚に上げて、別の狂い方をしている者を嫌悪するのである。それが、人間がある種の人間を毛嫌いする理由である。
人は自分の狂気については全く分からない。つまり、自分は正常だと思っている。
もし、自分が狂っていることに気付いている者がいれば、その者は賢者に近い。
人は、空想する限り、狂っている。
少し前にも書いたが、想像と空想は全く違う。
想像は瞬間的だが、空想は時間のかかる思考だ。
そして、空想というものは、全て妄想であり、どこにも正常さはない。
想像と空想は全く別のものだ(当ブログ内記事)
空想するのは自我である。それはフロイトや岸田秀さんが言う狂っている。
しかし、フロイトや岸田さんは、想像と空想を混同し、自我が想像をするのだと勘違いしているのだと思う。
想像は意識の奥からやってくるものであり、頭脳がそれを受信する。
だが、空想は自我が作り出す妄想である。
自我の正体とは、私という想いだ。
これを破壊しても、悪いことが無いばかりか、それが悟りなのだ。
ニーチェもまた、自我と意識を混同し、想像を受信する頭脳そのものを破壊してしまい、狂気に陥った。
頭脳の活動は、そのまま放置すれば良いのである。
仏教では、「妄想するな」などと言うから曖昧になってしまっているが、空想は全て妄想なのだということが分かるなら、その人には希望がある。
空想する限り、我々は狂っている。
そして、どんな相手であれ、他人を嫌悪する限りは空想しているのである。
どんな理由にしろ、誰かを嫌悪するのであれば、我々は確実に狂っているのである。
だが、他人を嫌悪するななどとは決して言わない。
自我を持つ人間である限り、つまり、空想する限り、誰かを嫌悪するのは避けられない。
大事なことは空想をやめることだ。
そのために重要なことは、いつも申し上げている通り、自分は全く無力で、人生や世界に対し何の影響を与えることも出来ないことを受け入れることだ。
運命とは生まれる前に完全に決められたもので、我々にはいかなるコントロールも出来ないのだ。
だから、定められた運命を無条件に受容し、一切をなりゆきに任せるのである。
それが出来た時のみ、自我が弱まり、空想することも、他人を毛嫌いすることも少なくなるだろう。
ただ、最終的に、いつ自我が破壊されるかは(あるいは、最後まで破壊されないかは)、運命によって決められており、我々にはどうすることもできないのである。
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あまりにその傾向が強いと、「人間嫌い」になってしまい、世間でうまくやっていけない。
ところで、有名な映画評論家だった淀川長治さんの本に、『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』というものがあるが、この本のタイトルが本当は何を示しているのかは分からない。
私は、淀川さんは好きなのだが、もし、言葉通りの意味で、こんなセリフを言う者がいたら、私は、その人をあまり信用しない。
人間の心の構造を調べれば、人間は嫌いな人間を作らずにはいられないことが分かる。だから、他人を嫌悪するからといって自分を蔑む必要はない。
言ってみれば、神が人間を、嫌いな人間があるように創ってあるのだ。
人はなぜ、ある種の他人を毛嫌いするのだろう?
wowaka(現実逃避P)さん作詞作曲の、初音ミクと巡音ルカのデュエット曲、『ワールズエンド・ダンスホール』に、
短い言葉で繋がる意味を 顔も合わせずに毛嫌う理由を
さがしても さがしても 見つからないけど
という歌詞があるが、なるほど、その理由は見つからないものだ。
簡単に言えば、人は、考え方が自分と異なる人間が嫌いなのだ。
異なる教義や信念を持った人間を異分子として、過激な手段を使ってでも排除したがるのは、本当は、ただ嫌いだからという理由からなのだ。
だから、世間の教義や信念に反する考え方をする者は、世間の人に嫌われ、その者もまた世間の人を嫌うだろう。
この世とは、常に多数派のものであり、少数派は理不尽な目に遭わされるのは当然のことなのだ。
「いや、少数派を尊重する者だって沢山いる」と言う人がいるだろうか?
それは、あくまで、その変わった少数派の考え方が、ある程度、自分の考え方と似ている場合にのみ容認するというだけのことなのだ。
スーフィー(イスラム神秘主義)に伝わる面白いお話がある。
ある男が、いずれ村の井戸の水が恐ろしいものに変わり、飲むと気が狂ってしまうことになると聞き、その前に水を貯蔵した。
そして、ある日から、井戸の水を飲んだ村人達は、確かに狂気としか思えない行動をするようになったのを、その男は見たが、自分は貯蔵された水を飲んでいるので、難を逃れたように思え、安堵した。
だが、ある時、その男は、村人達が自分を見る目が、哀れみと嫌悪に満ちていることに気付いた。
やがて、男は、村人達のその目に耐えられなくなり、井戸の水を飲む。
そして、村人達は、狂気から回復したその男を祝福したのだ。
だが、その男は、本当に狂気から回復したのか、あるいは、正常だったのが狂ってしまったのだろうか?
精神分析学者の岸田秀さんは、人間は皆、幻想の中に生きていて、人間である限り、1人残らず、確実に狂っていると言う。
それはある意味正しい。
人間は、空想をしない限りは正常なのだが、空想しない人間はいないので、確かに、実際は、全ての人間は狂っている。
ただ、岸田さんは、フロイト説に則り、人間は本能が壊れた動物であり、本能を補完する目的で創った自我は自然に立脚しない幻想であるから、人間は狂っていると言っているのである。
だが、本当は、自我という幻想が本能を歪めているのである。
本能そのものは正常なのだ。
人類は3万年ほど前まで、自我を持たなかった。
脳自体は20万年前からさして変わらないにも関わらず(むしろ太古の時代の方が大きかった)、人類が人類らしくなったのは3万年程前のことで、それは、人類が自我を持ったことによる。
自我を人類に与えたものは、神とでも言うしかないものだ。とりあえず神と言うが、神が人間に自我を与えた理由は、別に本能が壊れたからではない。そもそも、自我なんて、ちっとも本能の代わりになどならない。
いったん与えられた自我が破壊されたら、人間は狂気から解放される。
だが、自我を与えたのが神なら、それを破壊する者もまた神なのだ。そして、神は極めて稀にしかそれを行わない。
だから、ここでは岸田さんの言う通り、全ての人間は狂っているとする。
すると、上のスーフィーの伝説の男は、1つの狂気から、別の種類の狂気に移っただけだということが分かる。これは、よくあることだ。洗脳から覚めたと言う者は、単に、違う洗脳で上書きされたというだけのことなのだ。
岸田さんも述べていたが、人間は、同じ種類の狂気を持った者同士で集団を形成し、そのグループに所属する人々は、その中では正常な人間として扱われる。しかし、そのグループの中の者が違う種類の狂気を持つ集団に行けば、たちまち狂人扱いされるのである。
それが、このスーフィーのお話の要旨である。
我々は、自分が狂っていることを棚に上げて、別の狂い方をしている者を嫌悪するのである。それが、人間がある種の人間を毛嫌いする理由である。
人は自分の狂気については全く分からない。つまり、自分は正常だと思っている。
もし、自分が狂っていることに気付いている者がいれば、その者は賢者に近い。
人は、空想する限り、狂っている。
少し前にも書いたが、想像と空想は全く違う。
想像は瞬間的だが、空想は時間のかかる思考だ。
そして、空想というものは、全て妄想であり、どこにも正常さはない。
想像と空想は全く別のものだ(当ブログ内記事)
空想するのは自我である。それはフロイトや岸田秀さんが言う狂っている。
しかし、フロイトや岸田さんは、想像と空想を混同し、自我が想像をするのだと勘違いしているのだと思う。
想像は意識の奥からやってくるものであり、頭脳がそれを受信する。
だが、空想は自我が作り出す妄想である。
自我の正体とは、私という想いだ。
これを破壊しても、悪いことが無いばかりか、それが悟りなのだ。
ニーチェもまた、自我と意識を混同し、想像を受信する頭脳そのものを破壊してしまい、狂気に陥った。
頭脳の活動は、そのまま放置すれば良いのである。
仏教では、「妄想するな」などと言うから曖昧になってしまっているが、空想は全て妄想なのだということが分かるなら、その人には希望がある。
空想する限り、我々は狂っている。
そして、どんな相手であれ、他人を嫌悪する限りは空想しているのである。
どんな理由にしろ、誰かを嫌悪するのであれば、我々は確実に狂っているのである。
だが、他人を嫌悪するななどとは決して言わない。
自我を持つ人間である限り、つまり、空想する限り、誰かを嫌悪するのは避けられない。
大事なことは空想をやめることだ。
そのために重要なことは、いつも申し上げている通り、自分は全く無力で、人生や世界に対し何の影響を与えることも出来ないことを受け入れることだ。
運命とは生まれる前に完全に決められたもので、我々にはいかなるコントロールも出来ないのだ。
だから、定められた運命を無条件に受容し、一切をなりゆきに任せるのである。
それが出来た時のみ、自我が弱まり、空想することも、他人を毛嫌いすることも少なくなるだろう。
ただ、最終的に、いつ自我が破壊されるかは(あるいは、最後まで破壊されないかは)、運命によって決められており、我々にはどうすることもできないのである。
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そこで、神はいったい、この厄介な自我を我々に持たせて何をされようとしているのか、興味心身で追っかけを続けさせて頂きます。ちなみに当方はフロイトさんよりは全体的な面でユングさん、そして詳細についてはアドラーさんを支持していますので今後が楽しみです。この度も有難うございます。