恵みというものは、誰でも大好きであると思う。
自然の恵みに感謝し、天の恵みをいつも期待する。
本来、自然は途方もなく豊かだし、天は多くの恵みを見返りを求めず、岡本太郎が言うには、恐ろしいまでに与えるものだ。
しかし、なぜか貧しい者がいるし、現代はひどく多くなってきた。
なぜ貧しいのか、どんな者が豊かに恵まれるのか、ヒントになる2つの話がある。

インドの詩聖タゴールが慣れない英語で書いたが、ノーベル賞を受賞する要因となった「ギタンジャリ」という103の詩からなる詩集がある。
その中に、だいたい、こんな内容のものがある。
乞食の女がいた。その女のところに、王の中の王という他ない、素晴らしい人物が訪れる。女は不幸の終りを期待したが、その王は、なんと、女に施しを求めた。
予想外のことに動揺しながら、女は袋の中から、一番小さな米粒を1つ渡した。王はそれを受け取り、去って行った。
しかし、後で女が袋の中を見ると、小さな金の米粒が輝いていた。

もう1つは、グリム童話の中の「星の銀貨」という、とても短い話である。
あるところに、小さな女の子がいた。彼女には両親はなくて、ひどく貧しく、やがて、住むところもなくなり、持ち物は、身に付けているものと、1つのパンだけになった。
しかし、餓えを訴える老人にパンをやり、寒さを嘆く子供に着ているものを与え、夜になる頃には、女の子は何も身に付けていなかった(夜だから、見られないと思ったのだ)。
全てを失った女の子だったが、神様が、新しい素晴らしい服と下着、それに、沢山の銀貨を女の子に与え、彼女は一生豊かだった。

タゴールの詩の女も、後で、全てを王(実体は神)に奉げなかったことを後悔した。
ニサルガダッタ・マハラジは、「無限の代償は有限の全て」と言う。
我々は、無限を手にする器ではないかもしれない。しかし、与えた分、与えられるのも真理である。
貴いものを奉げれば、大きく報われる。ただ、報いを目当てに、即ち、下心を持って(あるいは隠して)奉げても無駄である。
しかし、下心があっても報われる奉げものもある。それは命である。
命をつなぐものは、食べ物である。水野南北は、食べ物を奉げれば、神はそれを受け、恵みを与えるという。
普段、3つ食べるのであれば、1つは神に奉げる。すると、神はすみやかに受け取る。別に神棚に奉げる必要はなく、心で奉げれば良い。
しかし、決して、いつも通り3つ食べて、それとは別の奉げものを差し出しても駄目である。自分の食べるものを奉げることだ。食事の茶碗の御飯を残すことでも良い。
現代の日本人であれば、多くの人に間食癖があるだろうから、それを全部奉げれば良い。病気がいくらか良くなり、悪運も少しは払えるだろう。
そして、朝食か昼食を奉げれば良い。健康になり、運に恵まれ、心の奥の願いが叶う道に導かれるだろう。

潜在意識の法則や引き寄せの法則で、首尾よく成果を上げられない者(ほぼ全員と思う)は、正当な対価を払っていないのだ。
CLAMPさんの漫画で、複数の作品に登場する魔女の口癖が「対価が要るわ」だ。何かを差し出すと、「それでは足りない」と言われることが多い。
大きな願いには、相応の対価が必要だ。人間に差し出せるのは命のみである。そして、自分の意志で差し出せるのは食物だけだ。神からの借り物である肉体を奉げるなんてのは、盗んで与えるのと違わない。
食を慎むことのみが、全てを決めるのである。
一件、望みが叶ったような者でも、病気になったり、死んで食べられなくなる者が多い。それに比べれば、世間的栄誉からの転落はむしろ望ましいのである。







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