お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2005-07-26

■ []上越教育大学(その4) 11:15 上越教育大学(その4) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 上越教育大学(その4) - 西川純のメモ 上越教育大学(その4) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 上越教育大学のおかれた状況は厳しいものがあると不安になります。客観的に見れば、上越教育大学は県庁所在地にない、田舎の小さな国立大学にすぎません。国立大学であるため、現在の私立大学の厳しさに比べれば天と地ほどの違いがあります。しかし、他の国立大学の比べたときの状況は厳しいものがあると思います。上越教育大学の特徴は三つあると思います。第一は、多数の現職教員を院生として受け入れている。第二は、地元の学校との関係が極めて良好である。第三は、学生が全国から集まる全国区の大学である。その中で最も重要なのは、第一の特徴だと思います。もし、これを失ったら、上越教育大学は「本当」に取るに足らない大学になると思います。逆に、それを生かせば、全国的に意味を持つ大学になるはずです。しかし、現在の地方公共団体の財政は厳しく、予算は大綱化され、派遣される現職院生さんの数は減少しています。さらに、各地域で教職大学院が設置されれば、その状況は更に進みます。

 他の大学ではなく、上越教育大学に進学する理由として考えられるものは何でしょうか?同時に、他の大学ではそれが実現が困難なものでなければなりません(そうでなければ、早晩、マネされてしまいます)。後5年の内に、我々、職員はそれに対して答えを出さなければなりません。でも、戦後に開放制の教員養成システムが出来てから50年以上、一度も考えなくても良かったことなんですから・・。出来れば、定年まで20年間はお世話になりたいと思う組織です。

 もし、現職教員が来ない大学になったら、いったいどんな学生さんがくるのでしょう?また、その人数は定員を維持できるでしょうか?定員を維持しようとしたら、どんな学生さんを受け入れることになるでしょうか?そうしたときに、現在のレベルの教育・研究を維持できるでしょうか?我々は長期履修プログラムというパンドラの箱を開けてしまいました。その先に何があるのでしょうか?今何をすべきなのでしょうか?

 シミュレーションすると恐ろしいことばかりです。

■ []千客万来 11:15 千客万来 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 千客万来 - 西川純のメモ 千客万来 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今週は、千客万来です。今年大学院を受験する現職院生さん、学生さんの方々が来ました。本日は、福井から学校研究の相談に泊まりがけでお客様が来ました。明日は、新潟市よりお客様が来ます。現在、仕事で気持ち悪くなるほど忙しい毎日です。しかし、一生懸命に教育を考えようとする人と語ることは、精神衛生上はいいことだと感じています。

追伸 8月中にある、一つの集中講義と、5つの講演のプレゼン原稿を作り始めました。

■ []学び合いの障害 11:15 学び合いの障害 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合いの障害 - 西川純のメモ 学び合いの障害 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日のKさんのブログを読んで、思い出したことがあります。

 本日は遠方からお客さんが来ました、その先生は学校の取り組みとして「学び合い」をやっている学校から来られました。その先生は、何故か、ある先生のクラスでは学び合いが生じ、何故か、ある先生のクラスでは学び合いが生じないことを質問に来られました。そして、「どうやったら学び合いをさせることができるのか?」と質問されました。その最後の言葉を聞いたとたんに原因は明らかになりました。つまり、「学び合いは教えなければ出来ない」という拘りに陥っているからです。それゆえ、学び合いをテクニックのレベルで見てしまいます。おそらく、テクニックのレベルで分析したならば、学び合いが生じるクラスと、生じないクラスの差は見えないはずです。だって、そんなことは「ど~でもいいこと」ですから。そこで、「「静かに!」を言わない授業」の最後につけた、学び合いが生じない原因の部分を読んでいただきました。そして、学び合いが生じないのは、教えていないからではなく、実は、教師が邪魔をしているからであることを説明しました。そして、その原因は「子どもは有能である」という揺るぎない確信が持てないからであることを説明しました。もし、その確信が持てれば、それは授業における全ての行動・表情に表れます。それらを総合的に見て、子どもは教師の「腹」を見透かします。子どもは、「○○指導法」を使うか否かのレベルで教師の腹を見ていません。その教師の全ての行動・表情から、その教師を判断しています。それって、自分が子どもの頃を思い出せば当たり前ですよね。

 何故、子どもの有能性を信じられないのでしょうか?いくつか原因はあると思いますが、その一つに、普通のことの積み重ねが一番凄いことを出来る、ということがなかなか分かってもらえないからだと思います。私も臨床研究の初期段階では、子どもはとてつもない凄いことをするのではないか、と思っていました。ところが、子どもの会話を隅から隅まで分析しても、そんなものはありません。ごくごく普通の会話が積み上げられているだけなんです。それにも関わらず、その結果として、成績は上がるし、人間関係は良くなるんです。でも、これって当たり前ではないでしょうか?教師の皆さん思い出してください。皆さんが子どもと個別対応しているとき、難しげな○○理論に基づいて言葉を選んでいます?また、家族・友人との人間関係を維持するときもそうです、なんか難しげな理論に基づいてやっています?義務教育の先生の聞きます?皆さんが普段教えているときに、大学で学んだ専門知識が生きたことが何回あります?皆無とは言いません。でも、それが無ければ教師をやってられない、と言う人っていると思います?第一、教員採用試験の問題で大学レベルの問題って、どれだけあります?そして、その問題の正誤が合否に関わることってあると思います?私は大学の教師です。そして、我々の研究室は教科教育で最も学術論文の生産量が多い研究室の一つであると自負します。しかし、私が院生さん、学生さんと研究を語り合うとき、その95%以上の内容は、常識レベルのことを語り合っています。そして、常識レベルの積み上げによって学術レベルに高めることが出来ることを証明し続けています。

 子どもが有能であると言っても、スーパーマンレベルの有能性を信じているわけではありません。一般人が普通にやっている程度のことは出来る能力があると信じているだけのことです。もちろん、そういうことの出来ない子どももいます。しかし、子ども「たち」の中にはそのような能力を持つ子どもは「絶対に」いることを信じていることなんです。考えても見てください。以前のメモにも書いたように、教師が教える前に「分かっている子ども」は絶対にいることは、ちゃんと子どもを見ている先生だったら常識のはずです。その子を含んだ子ども「たち」が、普通のことを積み上げる程度の有能性があると信じることは難しくないんです。だから、我々は確信しているんです。そのようなことを本日のお客さんに説明しました。

 本日のお客さんが「それでも分からない人がいたら?」と最後に質問されました。それに対して、「どうすればいいの?(その2)」に書いたことを言いました。つまり、我々が目指していることを分かるか、否かは、結局、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」という本質的な問いかけをしているか、していないかの差のように思います。だから、きつい言い方であることは十分に分かっているのですが、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」を考えてくださいと言うほか無いですね、と言いました。その先生は笑って、大きくうなずいてくれました。

 我々は子どもたちを臨床的に徹底的に見る過程で、常に、「自分が一生をかけた教職という仕事に誇りを持ち、人生を全うするにはどうすべきか」を問い続けます。私は、毎年毎年、多くの院生さん、学生さんの研究を学ぶことによって、自分の中の「答え」を磨いています。それを感謝し、誇りに思っています。そして、それを世に還元することが大学の教師としての私の「答え」なんです。

■ []教師主導 11:15 教師主導 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教師主導 - 西川純のメモ 教師主導 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 Kさんのブログを読んで、もう一つ書きます。

 Kさんが書かれているように、学び合いの対立概念は「教師主導」ではありません。我々の学び合いにおいても、教師主導であることは確かです。ただ、我々の場合は「目標」の設定の主導は行いますが、「方法」の主導はしません。目標の主導を放棄したならば、それは学校教育ではなく、遊びです。ただし、「目標」および「方法」は絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものです。ある目標はそれより上位の目標の方法であり、ある方法はそれより下位の方法の目標なんです。だから、正確に言えば、大事なところは教師が主導し、それをどうやるかは学習者が主導 するというのが我々の教師主導です。ところが、一般の教師主導はどうでしょうか?多くの場合、我々の考える目標の主導はしていないようです。何も考えず、教科書に書いてあるからでやるのではないでしょうか?さらに、それより重要なのは、何のために学ぶのか、ということをちゃんと語っていないように思います。その一方、 我々の考える方法のレベルはやたら主導したがります。だから、我々の教師主導は目標主導で、一般は方法主導とでも言えるかもしれません。 でも、おそらく、その人たちにとっては、我々には方法のレベルにすぎないことを目標と考えているのだと思います。

 両者の違いはどこにあるのでしょうか?それは先のメモと同じように気がします。結局、「何のために自分は教師として教えているのか」、逆に言えば、「何のために子どもたちは学んでいるのか」という本質的な問いかけに対する、その人なりの答えの違いなのでしょう。例えば、「子どもが主体的に学ぶのが総合学習で、子どもたちが「やるぞ!」と思うような課題を語るのが教師の仕事なんだ」と考えるか「子どもが誤り無く、教師が予想するクロスカリキュラムの課題をこなすことが総合学習で、そのために詳細な準備をすることが教師の仕事なんだ」と考えるかで、総合学習の姿は全く違います。もっと抽象的に言えば、「教師がいなくても問題解決を出来る学習者を育てるのが教師の仕事なんだ」と考えるか、「教師の与えた問題解決の方法を使える学習者を育てるのかが教師の仕事なんだ」と考えるかの違いです。どちらにせよ、教師主導です。でも、その結果として表れる子どもの姿は「全く」違います。