Morihiro Harano Interview

広告で人が泣くことってあるんですか? もり代表・原野守弘さんに聞いた広告の今昔

テレビCMを一本放映したら、翌日には全国の人がそのことを話題にしている──。そんな広告の黄金時代が過ぎ去った今、広告の楽しさはどこにあるのだろうか。異能のクリエイティブディレクター、原野守弘さんにお話を伺った。
もり代表・原野守弘

文・石井俊昭
写真・湯浅亨

もり代表の原野守弘さん

僕たちは映画や音楽に触れて心を動かされることがある。同じように、広告を見て感動することもある。しかし、今ほど広告が邪魔者扱いされている時代もないだろう。メディア体験を阻害する要因として、しばしば槍玉に挙げられるほどだ。

株式会社もり代表の原野守弘さんは、「クリエイティブ出身ではないクリエイティブディレクター」である。ベンチャー経営や事業開発での経験を持ってクリエイティブ業界に挑んだ人物である。

そんな原野さんは今、「広告」をどう考えているのだろうか。これまでのキャリアを辿りながら、原野さんに広告の本質を伺った。

──さまざまな分野で活躍されていますが、常にクリエイティブでいるための秘訣はありますか?

広告の仕事は「お客さまありき」です。ですから「クリエイティブ」は、目的というよりも手段。「クリエイティブ」そのものにこだわるよりも、「目的」をはっきりさせることのほうが重要です。

「目的」を考えに考え抜くことが、結果的に「クリエイティブ」を生み出します。今までの表現手法ではなくて、新しいやり方がいいんじゃないか、などと考えやすくなるんです。僕はクリエイティブ出身ではなかったこともあり、そのことに気付きやすかったのかもしれません。

──もともとはどんな仕事をしていたのですか?

電通でインターネット・ビジネスの開発をしていました。最も使っていたアプリケーションは「Excel」(笑)。今でも「日本一Excel上手なクリエイティブディレクター」だと思っています。

クリエイティブ一本でキャリアを積んできた方は、クリエイティブの制作を「目的」と考えがちなのですが、僕の強みは、物事を俯瞰で見て、クリエイティブを「手段」として考えられることだと思います。

打ち合わせで経営者や担当者の方々からお話を伺ってみると、「これは広告では解決できないな」と思う時もある。そもそも商品のコンセプトがブレていたり、パッケージデザインが良くなかっ たり、流通戦略がうまくいきそうになかったりと。そんな視点から、広告以外のことも俯瞰して話し合っていくと、例えば「商品のデザインそのものから見直す」、というような大胆なアイディアでも、クライアントは耳を傾けてくれます。なぜなら、先方には「この商品を売りたい!」とか、「格好良くしたい!」という「目的」があり、そのためにベストな「手段」を探しているだけだからです。

──「目的」を確実に果たすために、クリエイティブを「手段」としてとらえる……そんなイメージでしょうか?

そうですね。ただ、その時に重要なのは「診断能力」です。

ほぼすべての企業やブランドは、病気といっていい。どこかに腫瘍ができていたり、老化が進んでいたり。そして多くの場合、企業はそれを自覚していません。

たいていの企業は自己診断して「ちょっと風邪だと思うんですけど」などと言ってくる(笑)。ところが、それは風邪どころではなく、もっと根本的な病いであることが多いんです。ですから、そのことを率直に申し上げることが、たぶん一番大切なことになります。

僕には企業経営の経験があるんです。電通時代に「ドットコムバブル」が起きて、ついつい金に目がくらみ、ネットベンチャーに転職しました(笑)。そこで役員になり、IPOも実現させたんです。ですから、会社経営の仕組みやIR(投資家向け広報)の重要性などを社会人のアーリーステージで学べたんです。

クリエイティブ畑しか知らなければ、テレビCMをどう制作するかとか、ポスターのビジュアルをこう工夫しようなどということを追求するんでしょうけれど、僕はそういうバックグラウンドがあったので、最初から既存のクリエイティブの枠組みをそれほど意識しないでやってきました。

──ここで言う「枠組み」は、全体を俯瞰で見ず、部分に特化した領域という意味でしょうか。

広告黄金時代にできた「分業」のシステム、というような意味でしょうか。

広告が万能だった時代は、とっくの昔に終わりました。杉山恒太郎さんや糸井重里さんが活躍されていた80年代頃までは、面白い広告を作ってテレビで流すと、翌日、日本人全員が知っている、店に人が押し寄せる、という現象が現実に存在していました。もはやそれは「伝説」の類の話ですが、そのころまでに企業活動全体の中から「広告」活動が分業的に切り出され、宣伝部が出来たり、それへの対応を専業とする企業(代理店)が生まれてきたのです。また同時に広告代理店の中でも「営業」「メディア」「クリエイティブ」というような分業が生まれました。テレビという強力な武器があったので、人々は細かく「分業」していくことにより、それぞれの持ち場で、それぞれの精度を上げることに徹することができたのです。

そういう分業が成立する前提はもうとっくに無くなっているのですが、時代は変わっても一度できた社会や経済のシステムはすぐには更新されません。ですから、今日でも広告ビジネスには、かつての分業時代に生まれた「型」が残っているんです。

いま、ブランドは、その企業がもたらす革新や生み出す製品それ自体の魅力によって愛されるようになってきています。アップルやナイキが良い例です。ですから、企業の基盤となるそうした価値を高めることにこそ、力を注ぐべきなのです。

もちろん、広告が有効な領域は今もありますし、僕も専門ですから広告は作ります。でもこの10年間は、プロダクトを改良したりとか、お店のコンセプトやデザインを変えたりとか、広告以外のことを手がけることが増えてきました……だから僕のポートフォリオは領域的にはめちゃくちゃになってます(笑)。

──電通では、原野さんがやりたいことはできないんですか?

もともと現在やっているようなことは、電通時代に始めたんです。若気の至りで一度は電通を退社したものの、その後1年と少しで電通に復職しました。しばらくメディアの仕事をした後、先ほどお話ししたような考えに至り、電通に「非伝統的なクリエイティブをつくる会社」というコンセプトを提示して、それが「ドリル」という電通とアサツーディ・ケイが合弁で設立した会社として結実しました。

12年前の話になります。当時、周りの人たちの目は冷たかった(笑)。「原野くんはクリエイティブの経験もないし、邪道でしか生きていけないから、そっちで頑張っているんだね」というくらいの評価だったんですよ(笑)。でも、それが結果的にうまくいったんです。そして今では電通や博報堂も、ドリルが提示した「非伝統的クリエイティブ」を追求する子会社や組織をつくっています。

──電通時代から、広告が万能ではないこと、広告では解決できない問題なのに広告に囚われるというジレンマはあったのですか?

ありました。僕は1994年の入社なのですが、インターネットって94年とか、95年ぐらいには、早い人は使い始めていました。そういう黎明期からインターネットを見てきたので、世の中が変わっていっているのに、仕事のやり方が変わっていかないことに、モヤモヤした気持ちがありました。

──94年入社ということは、ひとり1台のパソコンがない時代ですよね?

僕は、趣味で音楽制作をしていたのでMacを持っていました。そして、当時住んでいた電通・調布寮の隣部屋にギル・ケイというDJ(もちろん電通社員)が住んでいて、彼が、僕に、インターネットを教えてくれたんです。その頃のインターネットって、クラブ・カルチャー的な側面もあったんです。結果、僕は相当早くにインターネットに出会うことができた。会社では、個人用のパソコンはなくて、業務会計の端末が部署にひとつあるくらいの感じでした。

──原野さんのそういう仕事のスタイルは、どこが原点なのですか?

最初に所属した部署は海外業務局という部署で、海外のメディアバイイングをしていました。とてもつまらない仕事でした。ある日掲載誌をチェックしていたときに「米国でインターネット上に広告ビジネスが出現した」というニュースを偶然目にしたのです。僕は、これが何かを変えるかもしれないという直観を感じて、それらの会社にメールを送り、資料を集めました。その資料は、電通社内の「インターネット・マニア/マフィア」の間でちょっと有名になっていました。

そこにソフトバンクの孫正義社長が電通を訪問してきたんです。米・Yahoo!と合弁で日本にヤフーを設立して、「Yahoo JAPAN!」を始めることになったから、と。

ネットメディアのビジネスモデルは、広告ですよね。孫社長は広告ビジネスを手がけるからには電通と組まないとうまくいかない、と思って訪問してきたんです。

そこで電通とソフトバンクでインターネット広告の会社を設立しよう、ということになりました。その仕事をいきなり僕が任されたんです。当時の電通にはネットビジネスをわかる人なんてそもそもいないし、その中では先ほどの資料を作成していた僕が「電通で一番詳しい人」だった(笑)。

入社2年目の話です。事業計画書の作り方なんて知りませんから、書店で「事業計画の書き方」みたいな本を読んで、その通りに書いて孫社長に持っていきました。電通から送られてきた担当者が入社2年目だったのはおそらく予想外だったと思いますが、孫さんは文句ひとつ言わずに色々と教えてくれました。

──今では考えられないエピソードですね(笑)。

そうなんですよ。「原野さん、事業計画というのはこうやって作るんですよ」って、その場でホワイトボードに全部書いてくれました。僕はそれをノートに写して、家に帰ってMacで打って、それを上司に提出していたんです(笑)。

そうやって設立したのが、サイバー・コミュニケーションズ(cci)です。96年のことです。

そうして電通がインターネットに関与することが世の中に発表されると、一発当てようと考えた山師のような人たちが、様々な企画や事業計画を持って大挙して電通に押し寄せてきました。そういう人たちの話を聞く仕事も僕の仕事でした。

電通社員の多くは、最初はインターネットのことをバカにしていました。当時はケーブルテレビや衛星放送のように「ニューメディア」と呼ばれるものがたくさんあって、インターネットも一括りにされていたんです。だから過去のニューメディアの失敗になぞらえて、インターネットも「結局は地上波に勝てない、新聞に勝てない。君のやっているインターネットは早晩失敗するんだ」と、インターネットに夢中になる僕を諭してくれる人もいました(笑)。

──ビジネス開発は何人でやっていたんですか?

最初は部長を入れて4人です。子ども銀行みたいなものだったなとも思います(笑)。でも、その子ども銀行に、アイディアを持った人々が押し寄せてきた。それが面白かったんですよね。95年ごろから99年に辞めるまでそこにいました。

──クリエイティブまで自分でやろうと思ったのはいつですか?

広告代理店では、クリエイティブは特別扱いされています。僕もそっち側に行きたいな、という単純な思いがありました(笑)。これは、電通を出て、ベンチャーに転職したあと、再び戻ってきてから、の話です。

ある時、書店でたまたま手にした『広告批評』に、僕よりはるかに年次が下の権八君というクリエイティブのインタビュー記事を読んだんです。まるでタレントのように扱われていて。佐々木宏さん(元電通のクリエイティブディレクター、1954年生まれ)という大御所を、「ヒロシ」って呼び捨てにしていて。「なんだこのカッコよさは!」って思った(笑)。この権八君への嫉妬と羨望が、当時の一番のモチベーションになりました。

──もちろん障壁はあったんですよね。

ありました。当時の電通は10年を超えるとクリエイティブ職に移るための試験さえ受けさせてもらえません。僕は10年目を超えていたのでチャンスすら無い。そこで上司だった杉山恒太郎さん(元電通役員のクリエイティブディレクター、1948年生まれ)に直談判したら、「原野君は会社を作るのが得意なんだから、クリエイティブの会社を作って出向したら、クリエイティブ職になれるよ」って言われて(笑)。

冗談だったのかもしれませんが、僕は本気にしてしまいました。もともと電通の中で2つほど子会社を設立した経験がありましたので、どうやっ て起案してどうやって通すかも熟知していました。その後いくつか幸運が重なって、実現してしまった。それが「ドリル」という会社です。そこに出向して、まったく未経験だったんですけれど、いきなり「クリエイティブディレクター」になりました(笑)。

──そこでは最初からクリエイティブディレクターを名乗ったのですか?

最初からそう名乗ると、さすがに軋轢が生じると思いまして、はじめは「プランニングディレクター」という肩書きにしました。クリエイティブじゃないですよ、まだ見習い中ですよ、と。

今思うと、最初は全部ハッタリでしたね(笑)。「仮編」とか「本編」といった用語も知らないし、クライアントに何か言われても知っているふりをして、横に座っているコピーライターに「だよね」って相づちを打ったり。

──その会社はどのような役割を負っていたのでしょうか?

会社設立前の僕は、電通の中でもメディア部門に所属していたのですが、これからどんどん時代が変わっていく中で、メディアとクリエイティブの境目がない新しいタイプのコミュニケーションの考え方が生まれてくる、だからこそメディア部門がクリエイティブの新会社を設立する意味があるんだ、と、このようなストーリーで起案しました。

クリエイティブ部門の方々は「お手並み拝見」という感じで見ていたと思います。でも、協力もいただけて、優秀なコピーライターやアートディレクターを新会社に送ってくれたりもしました。

──どのようにして、クリエイティブの仕事を身につけていったのですか?

日本国内では相手にされていませんでしたので、海外のクライアントや制作者たちから学びました。

設立したばかりで暇を持て余していたときに、電通役員の指示で、勉強会の講師をするために韓国にいきました。行ってから知ったのですが、勉強会の相手は、とある世界的な電気メーカーの社長さんでした。

当時流行り始めていたブランデッド・コンテンツの話をしたんです。「BMW FILMS.COM」という世界初の本格的なブランデッド・コンテンツのキャンペーンが大成功したばかりで注目されていました。通常はキャンペーン費用の8割くらいをメディア予算に投じ、2割くらいを制作費に、という配分になることが多いのですが、BMWは「インターネット上にみんなが自分で見に来るようなコンテンツをつくればメディア予算は不要なのでは?」という大胆な仮説を立てて、キャンペーン予算のすべてを制作費に投 じるという奇策に出たのです。具体的には、ガイ・リッチー、ウォン・カーウァイといった監督がBMWのクルマが登場する『The Hire』というショートフィルムシリーズを競作するというキャンペーンでした。

それらを見た社長が「うちでも作りたい。原野さん、このBMWのシリーズの予算はいくらですか?」と聞いてきたので、「18億円です」と答えました。「そこまでは出せない。原野さんだったらいくらでできますか?」と再び聞かれたので、「クオリティと予算は比例しますが……」なんてもっともらしいことを言いながら(笑)、「9億円あればカタチにします」と申し上げました。実際、9億あったら、大抵のことはできるでしょう(笑)。

そうしたら、社長から「6億で」と言われました。びっくりしました。「なんとかやってみましょう」なんて答えながら、心の中ではガッツポーズをしていましたね。

というわけで、僕がクリエイティブディレクターとして最初にした仕事の制作費は、6億円だったんです(笑)。当時僕は日本ではまったく無名でしたが、韓国ではそのことは知られていなかったようです。「電通が社長の講師として派遣してきたのだからおそらくすごいクリエイティブなのだろう」という風に勝手に想像してくれていたのだと思います。事故のような話です。

6億円の予算を獲得して帰国しましたが、僕自身にはバナー広告を除いて何もつくった経験がありません。そこで、これは「学び」だと割り切り、僕はプロデューサーに徹して、世界中の優秀なタレントに仕事をしてもらう、というやり方を選びました。むしろこれをチャンスにしようと思ったわけです。どうやって企画するのか、どうやってプレゼンするのか、どのように見積もりを書くのか、全部見せてもらおうと思いました。ロンドンの最先端のメディアプランニング会社、ニューヨークで一番イキのいいクリエイティブ・ブティック、ハリウッドの映画製作会社の3社に発注して、仕事のフレームを作ったのです。

僕は出てきた案をまとめて、社長にプレゼンに行くだけでしたが、あらゆることをそのプロセスから学ぶことができました。地雷という地雷もすべて踏みましたが(笑)。

日本のクリエイティブの現場では、大切な部分は「暗算」という感じになっていて、何をどうしたらいいのか、があまり明文化、体系化されていないような気がします。勘の良い人が、勘の良い人の下につくことで、伝承的に後継者が生まれるという仕組みです。

海外では、クリエイティブのメソッドはもっとはっきりしていて、体系化されている気がしました。企画書も明快で、なぜこのアイディアになるのか、どこがいいのか、がわかりやすい。そういう体系的な考え方を自分なりに取得することで、過去のカンヌ受賞作を自分で分析できるようになりました。そうしたら俄然面白くなりまして、どんどん優秀な作品を観て、自分の中で方法論を整理していったんです。

プレゼンのスタイルも欧米と日本でまったく異なります。欧米の人は相当下手な人でも、日本人の平均よりはかなり上手い。特に上手い人は、スティーヴ・ジョブズみたいに魔法をかけるようなプレゼンをする。そういう場面をたくさん見たので、まずはプレゼン力をつけようと思いました。説明する、のではなく、感情を動かす。左脳的な理解を得るのではなく、泣かせたり、笑わせたりすることそのものが大切なんだ、ということを知って、プレゼンを研究したんです。

そうしたら、負けっぱなしだった競合プレゼンで、いつのまにか勝てるようになっていました。優秀な会社から学び、ノウハウを取り入れたことで、僕たちもドリルでいい企画が量産できるようになったんです。

──日本の広告業界とは違う仕組みなんですか?

違うようで同じだな、と思うこともあります。日本の優秀な人たちと一緒にやっていると、最終的にはとても似ているんだな、と感じます。ただ、日本では「オレの背中を見て覚えろ」という感じが強い。でも、別のルートで、もっと合理的に仕組みを獲得することもできると思います。「企画」とは何か、という全体構造を理解して、そこから細部に入っていくようなアプローチとでもいいましょうか。

──プレゼンの方法はどうやって研究したんですか?

海外の会社が作ってくる企画書が、自分が今まで見てきた資料や表現とかなり違っていたんです。ですから、読み込んで研究しましたね。自分が聞いていて「いいな」と思ったところを真似るところから始めていきました。

──原野さんの映像作品には、感情に訴えかけるものが多いですよね。それは意図してやっているのでしょうか?

感情に訴える以外は効かない、と思ってやっています。

広告にできることは、「好きにさせること」と「尊敬させること」の2つだけ。クライアントさんからはよく「商品のこの機能を説明したい」などと言われるのですが、説明できたとして、それで買うか?というと決してそうではない。理屈なく好きにさせてしまった方が行動に影響を与えることが簡単になります。

「森の木琴」という作品は、「木っていいよね」というメッセージを届けることだけに全体の99%を集中させています。でも、みんなが愛したくなるような映像を見せたあとで、そっとロゴや商品を提示すると、みんなそれに向かって拍手をしたくなる。最後に2枚文字だけのスライドが出てくるのですが、そこにクライアントが説明したかったことが書いてある。その2枚のスライドをみんなが泣きながら見てくれる、っていうことが重要なんです。そのスライドだけを見せてもみんな通り過ぎてしまうし、その内容を面白おかしくCMしたところでたいして残らない。感情に訴えないと、好きになってもらったり、尊敬してもらったりすることはできないんです。

──感情に訴えかけるものを作るには、“感動できる才能”が必要ですか?

感動とは簡単にいえば「共感」なんです。話す側の物語と聞く側の心の中にある物語が触れ合って生まれる共振作用、それが共感です。「わかる」とか「私も同じ」って思うこと。感動のベースは、共感にあります。

僕は脳科学が大好きで色々と勉強したんですが、人類は共感することを気持ちいいと思う(=感動する)ようにプログラムされているんです。そして、同じものに接して同じものを「好き」と感じるもの同士が、グループをつくることで生き延びてきた。だから、人類にとって、「好き」という感情はとても根源的で大切なものなんですね。

もう一つの「尊敬」も根源的です。グループが生き延びるためには優れたリーダーによる統率が必要になる。ですから優れたリーダーを見つける仕組みとして「尊敬」という感情が生まれたんです。これがやはり重なりあうことによって、グループにとって最適なリーダーが決まるんです。

広告やブランディングはそれらの原理を応用したものと言えます。共感を生む物語をつくるのは一見、特殊な能力のように見えますが、実はそれほど難しいことではありません。人それぞれはみんな違っていて個性的なように見えますが、実のところ根っこのところでは、ほとんどの人は「同じ」なんです。みんな違う人生を生きているように見えて、それでもみんなで共感できることはたくさんある。それに気づく力が重要なんです。

──具体的にはどう「同じ」なんでしょうか?

例えば、ヒットした多くの日本映画や音楽は、主要な登場人物が高校生で、時季は夏休みで、舞台は港町、というパターンが多い。これ、半分、僕の思い込みですけれど(笑)。でも「確かに多いかも」って思いませんか。つまりこれは、これらの設定の中により多くの日本人が共感できるポイントがあるということなんです。

映画製作者や歌手は、たぶん直感的にそのことを知っているんだと思います。ただ、ここで大切なのは、そういうクリエイターは特段みんなにウケることを狙って書いているわけではなく、自分のなかにある一番強いものを書いているだけだ、ということです。それが世の中の人とシンクロした人が、アーティストとして成功者になる。

クリエイティブの熟練者は、自分がいかにみんなと同じかをよく理解しているんだと思います。このことは、ホイチョイ・プロダクションズの馬場康夫さんも同じようなことをおっしゃっていて、日立製作所に入社した当時、かなり尖って「俺はお前らと違うんだ」という意識で企画を出していたそうです。その時に上司の方が「馬場君、君は他人と自分がいかに“違う”かを考えているけれど、大切なのは、自分がいかに他人と“同じ”かっていうことなんだ」と話してくれたそうです。それが馬場さんの転機になったそうですが、僕もまったく同感です。

僕が企画する時は、自分のことしか考えないんです。例えば「水」という商品を担当するなら、自分の人生において最も印象的な「水」体験とは何か、「クルマ」を担当するなら、クルマについて一番心を動かされた経験は何だったのか、というように。その次に、それらがどれくらいみんなと共有できるか、についてを考えます。自分にとっての特殊体験だと響きませんからね。そして、その共有の規模・面積が大きければ大きいほど、作品としての成功が大きくなります。

──思いついたアイディアを客観的に見る時はどうしているのですか?

仲間に話します。いいアイディアを話している時って、みんな黙って聞いているんですよ。反応を見ていて良ければ「よし、いけるな」となりますし、みんながあんまりピンときていなかったら「ちょっと違うのかな」と再考に入ります。ですから、最低でも2人で考えることが大切ですね。

──現代はソーシャルメディアで共感の輪が広がっていきますよね。広告は国境や言語の壁も超えていくのでしょうか?

超えますし、超えるべきだと思っています。僕は、普遍的な共感を目指したいと考えています。

──近年は共感のマーケティングという言葉も聞かれるようになってきました。原野さんが「共感」を意識したのはいつでしょうか?

言語化したのはこの1、2年ですが、脳のことに興味を持って考え始めたのは、それよりもずっと前のことです。僕は原理主義者で、あらゆることに対して常にその原理を探求したいんです。どうして感動するのか、なぜこれは良いとされているのか。曖昧な事象を形式知にしたい。

──広告はクライアントがいる仕事です。NTTドコモの「森の木琴」のように、やりたいことを理解してくれる企業は多いですか?それとも、理解してもらうためのプレゼンが大事なのでしょうか?

最初から理解してくれる企業は少ないです。ですから、理解してもらうための技術も必要ですし、どうしてもわかってもらえないところからは逃げることもあります(笑)。つまり、そこで消耗し過ぎないようにする。

──もっと機能の説明を入れてよ、っていう要望は出てきますよね。

説明を尽くすんですけれど、実際にはそういう要望が多いですね。

ただ、クリエイティブの企画がわかるどうかって、比喩的に言うと「宗教的な問題」の側面も強いんです。つまり、クリエイティブのことがわからないって言う人は、ロジックや戦略を左脳的なものだと捉えていて、クリエイティブを右脳的な発想だと考えています。だから、あなたが考えた右脳的なものを私がわかるように左脳的に説明してくれ、とおっしゃったりするんですね。でも、それは「左脳的に説明されたものこそが正しい」と信じている宗教に過ぎない。しかしながら、広告が一番効くのは、そういう説明ができない感情的な部分なんです。そこを信じられない人は広告の仕事をやってもうまくいかない。

多くのクライアントが左脳的な説明にこだわるのは、「上司や他の部署に説明するため」だったりします。そこへの説明をわかりやすくするために、企画が少しずつぬるくなっていく。こういう現場をよく見かけます。これを避けるために僕が実践しているのは、「社長さんにプレゼンすること」。それでほとんど解決します。説明のための説明が不要になるから。

──今のネットの面白さって、どこにあると思いますか?

インターネットは、お金でコントロールできませんから、知恵やセンス、アイディアで勝負しないと君臨できません。ただ、裏返して言えば、知恵とセンスとアイディアがあれば君臨できるんです。

糸井重里さんは長年、ウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」を運営されていますが、かつてテレビで「YOU」の司会をやっていたとき以上の影響力をお持ちだと思います。でも、それはお金の力ではありません。知恵とセンスとアイディアの力です。

──最後に、原野さんはOK Goのミュージックビデオ(MV)を手がけたことでも知られています。MVも広告の一種でしょうか?

MVはアーティストや曲を売るために制作するものですから、広告の一種でしょうね。でも、商業性が薄い、純粋な表現に近いものだとは思います。

僕、実はMVをつくるのはOK Goが初めてだったんです。この映像は、OK GoからするとMVですけれど、制作資金はすべてHondaが出していて、Hondaにとっては、新しい形の広告という側面があります。

HondaとOK Goのビデオをつくる上で一番避けたかったのは、資金提供の見返りとして商品が不自然に登場するようなやり方。OK GoのMVにはHondaの「UNI-CUB」が登場しますが、あれは販売している製品ではないんです。Hondaの新しい技術がつまったプロトタイプなんです。あくまでMVのアイディアを構成させる要素として登場しています。だから、必然性がある。

「UNI-CUB」がなかったら、あのMVは存在していない。人間ひとりひとりの歩幅や動くスピードは違いますから、みんなが「UNI-CUB」に乗ることで、初めてマスゲームが「プログラマブル」になったんです。Hondaは資金提供者でもあるけれど、カメラマンや照明さんと同じようにスタッフの一部でもある。そういう考え方で制作されたので、いやらしくないし、観た人もHondaを尊敬できると思うんです。