挫折は必然だった「雨傘革命」――香港財界は10年前も、民衆より北京政府を選んだ

執筆者:樋泉克夫 2024年12月12日
エリア: アジア
香港行政長官選挙制度の民主化を求める大規模デモ「雨傘運動」は2014年9月26日に始まり、79日間続いた後、同年12月15日に終わった[2014年10月24日、香港](C)EPA=時事
1期目の習近平政権を揺るがせた香港の「雨傘革命」は、はじめから挫折を運命づけられていた革命だと言える。「自由を求める民衆vs.強権政治」という善悪二元論で香港を語る時、重要なプレーヤーの存在が視界から抜け落ちていたのではないか。英国からの返還を機に政治と結びつきながら富の源泉となる不動産を押さえ、繁栄を謳歌してきた地場の資本=「華資」である。

 10年前の2014年の秋、香港は若者らが唱える「雨傘革命」に揺れていた。習近平政権(第1期)が発足して2年程が過ぎた頃であった。

「我們要普選(我らは普通選挙を求める)」を掲げた若者らは、「香港特別行政区政府のトップである行政長官は香港住民の自由意志で選出されるべきだ」と訴え、香港島と九龍の主要道路を封鎖した。国際金融センターとしての心臓部である中環(セントラル)地区を占拠(「佔中運動」)し、北京の中央政府に「港人治港(香港人による香港)」の実現を逼ったのである。

 あの時、筆者は騒然とした現場を歩き、若者の声に耳を傾けた。滾り立つ若者の熱情に心を動かされる一方で、彼らの主張が早急で直截に過ぎるがゆえの危うさを痛感した。習近平政権による強権的な香港政策に強く異を唱え、民主化を強烈に求めはするものの、彼らは香港社会の仕組みが抱える矛盾に無関心が過ぎる。その矛盾が香港の繁栄を支えているというのに――現場で彼らと討論を重ねるうちに、こんな思いが浮かんできたことを、10年が過ぎた今も鮮明に覚えている。

 彼らの主張は当然のように習近平政権によって強引にネジ伏せられてしまう。若者の政治的願望は逼塞し、鬱屈せざるをえなかった。2019年に起こった「逃亡犯条例」の改定問題は、その思いに再び爆発するきっかけを与えた。抗議は燎原の火のように香港の街を包み込み、市街戦さながらの長期で激しい街頭行動につながっていった。

 だが、2020年6月に「香港国家安全維持法」が成立したことで、またも若者の激情は封殺されてしまう。かくて最近のメディアは、香港は往時の輝きを失い凋落への道を踏みだしつつあると専ら伝える。

 はたして香港は、このまま死を迎えることになるのか。

返還を機に結びついた中央政府と「華資」

 香港社会の仕組みを考える時、香港が持つ国際的な経済的役割をまず念頭に置き、その前提として個々の企業家の振る舞いを注視し続ける必要があるだろう。そこで、時計の針を半世紀ほど昔に巻き戻してみたい。それというのも、1970年前後を境に、「華資」で総称される地場の資本が、160年余りに亘って圧倒的優位にあった英国資本を駆逐し、香港における経済と政治の担い手として登場してきたからである。

 アヘン戦争(1840~42年)で英国殖民地となってから1970年代前半まで、香港経済はJardine Matheson(怡和洋行)、John Swire & Sons(太古洋行)、John D Hutchison(和記洋行)、Wheelock(会徳豊)の「四大洋行」を頂点に、HSBC(香港上海匯豊銀行)とStandard Chartered Bank(香港渣打銀行)を軸とする金融資本が連なり、さらにはThe Inchcape Pacific(英之傑太平洋集団)やCable & Wireless Public(香港電訊)などの英国資本による独占状態が続いた。

 当時、「世界の海運王」として知られたY・K・パオ(包玉剛)を筆頭に、李嘉誠、董浩雲、安子介などの華資の担い手は巨大英国系資本に向かって果敢に、そして巧妙に戦いを挑んだ。彼らは殖民地行政に参画する一方で、四大洋行などに資本参加し、やがて経営の主導権を握り、英国系資本を駆逐し、香港経済の中核を押さえたのである。

 彼ら華資の崛起と平仄を合わせるかのように中国では文革が終焉を迎え、鄧小平による対外開放政策が一気に加速し、香港返還(中国では「香港回帰」)に関する交渉が中英両国政府間で本格化する。当時、Y・K・パオは鄧小平の知恵袋として対外開放と中英交渉に関わったとも伝えられた。

 香港返還に関する中英交渉が具体化するなかで、華資にとっての最大の関心事は共産党政権による主権回復後の“香港の形”であった。自分たちが経済を牛耳っていればこそ、それも無理からぬことだろう。華資もまた独自な形で返還交渉を進めるのであった。たとえば李嘉誠などは北京の動向に最大限の注意を払う一方で去りゆく英国の動向すら見極めようと、ロンドン政界への政治資金提供に励んでいた。

 返還交渉が中国ペースで進むに従って、華資は共産党政権の意向を探ろうと動きだす。
1982年6月、華資は香港工商会代表団を北京に派遣し、「最高実力者」として絶対的影響力を発揮していた鄧小平に「香港の将来」についてお伺いを立てる。そこで①1997年前後に香港に対する主権を回復する。②香港の繁栄と安定は維持する――との回答を得た。

 次いで同年11月、北京に送られた香港中華廠商聯合会参観団に向かって、中央政府における華僑・華人政策の最高責任者であった廖承志全人代常務副委員長から、「中国政府の将来の香港政策の方針は、主権回復・港人治港・制度不変・繁栄保持」と申し渡すのであった。

 両首脳の発言から、将来の香港における自らの立場を確信したからだろう。その後、少数の例外を除き、華資は雪崩を打ったように中央政府による返還作業に参画する。中央政府の指名を受けた企業家は、返還後の香港の在り方を定める「香港の小憲法」と呼ばれた香港基本法の起草委員をはじめとして、基本法諮詢委員、同諮詢委員会執行委員、港事顧問などの公的ポストに就くことになる。彼らが中国市場における様々な“特典”を享受したことは、敢えて解説するまでもないだろう。

 ここに挙げた一連の動きこそ「官商勾結」、つまり中央政府(政治)と華資(資本)が合体された姿であり、華資の中心が圧倒的資本を保有する不動産開発を中核に据えた企業集団であることを強調しておきたい。不動産開発から得た莫大な資本を他のビジネスに投資し、第三者の介入を排除しながら仲間内で経済活動の主導権を掌握し続ける。

 華資は大枠では共存共栄・互恵互利の道を求めながら、香港社会全体を動かすために必要なビジネスを押える一方で市場全般を巧みに動かし、香港住民の日々の暮らしを左右してきた。返還を機に形作られた政治と資本の強い結びつきこそが、経済活動の枠組みを大きく超えて香港社会全体の構造を大きく規定することとなる。

30に満たない同族企業が覇権を握る「不動産本位経済」

 英国殖民地となってから現在に到るまで、香港には私有地はありえない。すべての土地は、殖民地時代はイギリス国王(当時はエリザベス女王)に、返還後は特別行政区政府(その上部に位置する中央政府)に帰属し、土地の使用権を競売することによって財政を賄い、潤してきたのである。

 タテマエのうえからは入札の機会は万人に与えられる。だが、当然ながら落札には莫大な資金が必要であり、実質的には極めて限られた数の企業家しか応札できない仕組みなのだ。彼ら一握りの有力企業家が政府払い下げの「地産」を抑え、地産をテコに香港の「覇権」を握る。これが権力と資本が巧妙に結びついた「地産覇権」、いわば不動産本位制経済という香港社会の基本構造になる。

カテゴリ: 政治 経済・ビジネス
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執筆者プロフィール
樋泉克夫(ひいずみかつお) 愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。
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