1歳の時、母親に連れられ原爆投下の2日後に広島市内をさまよった。いわゆる「入市被爆」。その数十年後、新聞記者として日本被団協に出会ったことが人生の大きな転機に…。12月、オスロで開かれる授賞式に参加する1人の男性に迫る。

母と焼け野原を…1歳で入市被爆

「79年前の広島の出来事は昔話ではない」

11月11日、広島市南区の「グランドプリンスホテル広島」
11月11日、広島市南区の「グランドプリンスホテル広島」
この記事の画像(12枚)

神奈川県から修学旅行で広島市を訪れた高校2年生360人を前に、被爆証言を行う田中聰司さん(80)。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表理事を務めている。

1944年3月9日、田中さんは軍人だった父親の勤務地・山口県下関市で生まれた。
広島に原爆が投下された2日後、当時1歳だった田中さんは母親と共に親族が暮らす広島市へ。いわゆる「入市被爆」である。

母親は幼子を連れて野宿をしながら親族を探しまわったという。もちろん田中さんに当時の記憶はない。でも母親から聞いた悲惨な光景は脳裏に焼き付いている。

焼け野原となった広島市中心部
焼け野原となった広島市中心部

「焼け野原に入っていくんだけど、爆心地から2キロくらいは全滅だから、家の跡がどこにあるかわからない」
やっとの思いで親族と再会した。しかし…
「軍隊から持ってきたわずかな塗り薬をつけたりして手当をするんだけど、6人いた親族のうち4人が1カ月以内に亡くなった。亡くなった人は校庭の片隅に次から次へと山積みにされて、石油をかけて焼かれるんですよ」

大学寮の風呂場で感じた「差別」

東京の大学に進学した田中さん。それは、自分が“被爆者”であることを痛感する始まりでもあった。

「広島から出て初めて東京に行くと、全国の人が集まる中で自分の立ち位置みたいなものがわかってくるじゃないですか。俺、被爆者なんだと。出身地を紹介しあって広島だと言ったら『原爆の時どうしていた?』と必ず聞かれる。僕は『たいしたことない』と適当にごまかしていたんだけど」

寮生活を送る中で、心が傷つく出来事があった。

大学時代に感じた「差別」について語る田中さん
大学時代に感じた「差別」について語る田中さん

「仲のいい友達がいたんだけど、一緒に風呂に入って隣で体を洗っていたときに『田中、放射能ってうつらないんだろ?』って言ったんですよ。原爆投下から20年経っているのに、まだそんなことを思っているのかと思ってね。それが精神的に『被爆者で差別された』と思った最初だね」
その後、田中さんは被爆者であることを隠して生活するようになった。

メモも取れなくなった新聞記者時代

大学卒業後は広島に戻り、地元の中国新聞社に就職。原爆や平和の取材にも携わるようになる。

「自分よりもっともっとひどい被爆者を知るし、小頭症の取材をする時にはメモも取れなくなって、胸がつまって…。もう記者をやめようかなと思った」

新聞記者を続ける中で転機となったのは、日本被団協との出会いだった。

1978年、取材を通じて日本被団協の活動を知る
1978年、取材を通じて日本被団協の活動を知る

「被爆者たちが被爆を自分の問題だけでなく人類の問題として捉えて、人類の危機を救おうと活動している人がいるんだと感銘を受けた。これじゃいけないと思って」
被爆者としての自らと向き合うようになった田中さん。「被爆者健康手帳」を取得した時には、原爆投下から約50年が経っていた。

2024年7月、日本被団協の一員として活動する田中さん(右から2番目)
2024年7月、日本被団協の一員として活動する田中さん(右から2番目)

2006年、自らも日本被団協のメンバーとして活動を開始。それから約20年間、核兵器の恐ろしさと廃絶を訴え続けてきた。

「無数の犠牲者に代わって訴える」

田中さんが力を入れてきた活動の一つが、被爆体験の継承だ。

修学旅行で広島を訪れた高校生360人に被爆証言
修学旅行で広島を訪れた高校生360人に被爆証言

被爆者の平均年齢は85歳を超えた。「被爆者なき時代」は間違いなく訪れる。次の世代が平和への思いを引き継いでほしい…そう願って、修学旅行で広島を訪れた高校生たちに語りかけた。
「平和のために自分は何ができるのか。そういうことを考えられる人間になっていただきたい。広島で学習したことも時々思い出して、広島の方を振り向いてほしい」

田中さんは、50歳を過ぎてから食道がんなど6つのがんを患い、今も治療を続けている。
口元を指して言った。
「ここのちょうど裏側にがんができてね。60歳になって原爆症とわかった。いつまたがんができるかわからない。昔話じゃないんですよ、原爆の被害は今も続いている」
声が思うように出なくなり、長時間話すのも苦しい現状。放射線治療の後遺症で咳が止まらなくなることもある。それでも「話せる間は語っていこう」と決めている。
「僕がここまで生きてきたということは、無念の思いで犠牲になった無数の人たちに代わって訴えることは何なのか、『核兵器をなくせ』『被害者を再びつくるな』『私たちと同じ思いや苦しみを他の人にさせてはならない』ということを合言葉に、先人たちが会を作って訴えてきた活動を引き継いでいかなければいけない」

10月、ノルウェー・オスロでノーベル平和賞発表
10月、ノルウェー・オスロでノーベル平和賞発表

2024年10月、被爆80年を前に「日本被団協のノーベル平和賞受賞」が決まった。ウクライナ侵攻や緊迫化する中東情勢など、世界で核兵器の脅威が高まる中での受賞だ。12月、ノルウェー・オスロで開かれる授賞式に田中さんも参加する。

「喜んでいる場合じゃないんですよ、本当に。核兵器が1発も減らないじゃないですか。核保有国をテーブルにつけて話し合いの場をつくってほしい。それを呼びかけようと思っています」

ノーベル平和賞受賞を核兵器廃絶に向けた一歩にしたい。田中さんたちの思いは世界を動かすかもしれない。

(テレビ新広島)

テレビ新広島
テレビ新広島

広島の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。