2020年の夏季オリンピック開催都市が東京に決まった。9月8日早朝(日本時間)に開催地の発表があった直後から、ネット上には、大友克洋の長編マンガ『AKIRA』ではすでに物語の背景として2020年の東京オリンピックが登場していたと指摘する書きこみがあいついだ。


それにしてもなぜ、大友は1980年代の時点で、将来の東京オリンピックを、それも2020年と正確な開催年まで“予言”することができたのか? よく考えてみると、それはわりと単純な理由だったりする。

『AKIRA』の冒頭、1982年12月に第三次世界大戦が勃発したのち、時代は一気に37年後、翌年にオリンピックを控えた2019年(各巻の巻頭のあらすじ紹介では「ネオ東京38年」という年号が用いられている)へと飛ぶ。どうして37年後だったのか? それは現実世界で『AKIRA』の雑誌連載が始まった1982年が、第二次世界大戦の終結から37年後だったので、そのまま当てはめたのだろう。そのことは大友自身の次のような発言からも裏づけられよう。

《やっぱりぼくは東京が好きなんですね。この東京を別のかたちで語り直してみたいという欲望があったんだろうな。[引用者注――『AKIRA』は]いちおう“近未来SFアクション”なんだけど、気分的には、戦後の復興期から東京オリンピックの頃のような混沌とした世界を構築したかったんだよ。こんなに無思想で歪んでめまぐるしく変化していく都市というのは、やっぱり魅力的だからね》(『美術手帖』1998年12月号)

事実、『AKIRA』には、21世紀を舞台にしているにもかかわらず、戦後の復興期から高度成長期にかけての風景やモノを思い起こさせるものが多数登場する。

超高層ビルの建ち並ぶネオ東京だが、一歩路地裏に入れば昭和っぽい家屋や店舗が軒を連ねているし(再開発の進む現実の東京ではいまや消えつつある風景だ)、主人公の金田少年が逃亡中にかくまわれるアジトにも、四畳半にちゃぶ台の置かれた部屋があった。金田はそこで“人工サンマ”を出され、貪るように食べる。そのカットはどこか小津安二郎の映画のワンシーンを想起させる。アジトの主でゲリラに武器を調達する「おばさん」ことチヨコも、出てきた当初は割烹着をまとい、昭和のおかみさん風に描かれていた。


ほかにも、ミヤコ様を教祖とする新興宗教の神殿は、東京オリンピックのためにつくられた国立代々木競技場や、東京カテドラル聖マリア大聖堂(いずれも1964年竣工)といった丹下健三設計の建物を彷彿とさせる。また、超能力少年・アキラの覚醒でネオ東京が崩壊したのち、金田の親友だった鉄雄が「大東京帝国」を興すと、廃墟のなかに「大東京帝国 万歳」の落書きが散見されるようになる。その字体は、1960年代末の学園紛争で見られた立て看板の文字(ゲバ文字)にどことなく似ている。ついでにいえば、大友克洋自ら監督した劇場版アニメ「AKIRA」では、終戦直後に暁テル子が歌い流行した「東京シューシャイン・ボーイ」がBGMとして使われていた。

大友克洋は1954年生まれだから、1964年=昭和39年の東京オリンピック開催時、ちょうど10歳(ちなみに現首相の安倍晋三も同い年)。当時宮城県に住んでいたとはいえ、東京が、ひいては日本がオリンピックを境に変わっていくのを実感した世代だといえる。

ほぼ同世代、1953年生まれの評論家・米沢嘉博も、『AKIRA』に描かれたネオ東京の“懐かしい”風景が、アキラの覚醒によって破壊されてゆくさまを、東京オリンピック前後の東京や日本の変化と重ね合わせ、次のように書いている。

《昭和39年を境に変わっていった日本。大友が小学生の時代に感じた変化は、過去から未来へ、戦後から新時代へといったものだったろう。気のおけない日常が周囲から失われていく様、それは『AKIRA』の隠されたモチーフの一つである》(「ユリイカ臨時増刊 大友克洋」

ただ、前出の大友の発言から察するに、彼は東京から失われたものを惜しむというよりは、むしろオリンピックのあとなおも変化し続ける、混沌した東京こそ愛しているように思われる。それは同時期に、リドリー・スコット監督が映画「ブレードランナー」(1982年)で、最先端のテクノロジーと日本的・アジア的な風景がチャンポンになった都市を描いたことなどと、志向的に通じるものがあるだろう。

なお大友は『AKIRA』の連載中、ずばり、1964年の東京オリンピック前夜を舞台にした短編を発表している。
「上を向いて歩こう」(1985年。『SOS大東京探検隊/大友克洋短編集2』所収)がそれだ。坂本九の1960年代のヒット曲からとったタイトルどおり、物語の主人公は、坂本に似たニキビ面の少年工員・久(キュウと読むらしい)であり、その父親は、オリンピック関連の建設現場で働く日雇い労働者である。

作中、久は先輩の労働組合員にそそのかされて、社長に待遇改善を直訴し会社をクビになったり、父も工事現場で大けがをして仕事ができなくなったりと、あらすじだけ書くと何ともわびしい話だが、大友は話がくさくなりそうなところでギャグをからめるなどして、あくまで西岸良平の『三丁目の夕日』のような60年代物のパロディとして描いている(このあたりはいかにも80年代のノリだが)。それゆえ、この短編もまた『AKIRA』同様、ノスタルジーで描かれたのではなく、やはり作者はオリンピック前夜の東京のめまぐるしい変化と、それにともなう混乱を楽しんでいるように読める。

足かけ9年におよぶ長期連載となった『AKIRA』は(単行本最終巻が出るまでにはさらに3年を要した)、終盤へ来てアキラが再度覚醒し、東京はまたしても壊滅する。それでも廃墟のなかで金田は、鉄雄やアキラの魂を継ぎ、新たに「大東京帝国」の建国を宣言、再生を予感させたところで物語は締めくくられる。

『AKIRA』において、第三次世界大戦のあとも、アキラの2度にわたる覚醒により破壊と再生を繰り返した東京は、第二次大戦後に、東京オリンピック、そしてバブル期と、2度にわたる大きなスクラップ&ビルドを体験した現実の東京を忠実に反映したものともとれる。同作の雑誌連載が終了したのが1990年と、ちょうどバブルがはじけた年だと考えるとなおさらだ。

しかし現実の東京では、その後21世紀に入ってからも各所で大規模な再開発が進められている。もはや再開発が常態化しているといってもいいだろう。本当に開催されることになった2020年の東京オリンピックは、その到達点となるのか、はたして通過点にすぎないのか……。
いずれにせよ、こんな機会だからこそ、都市の破壊と再生の物語である『AKIRA』をふたたび読み返してみたい。(近藤正高)
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