自分で全部やりたい

坂本慎太郎 #ミュージシャン

―一番はじめにギターを購入したきっかけは?

友達が弾いているのを見て、かっこいいなと思って買いました。
その前から音楽は聴いてましたけど。妹とお年玉を半分ずつ出し合って買いましたね。2万円のフォークギターだったんですけど。共有のっていう名目で買って、結局は自分が独り占め(笑)。
中学生の頃、バンドやってる友達はまだいなかったですね。学校の音楽室にクラシックギターがあって、休み時間に弾ける子が弾いて楽しむっていう環境でした。最初はコードを覚えました。Led Zeppelin「天国への階段」っていう曲の最初の部分が弾きたくて練習していました。それが弾けるようになった後、普段聴いているロックの曲にはフォークギターで弾ける曲がなくて、それでエレキギター買ったって感じです。

―その頃からギターをずっと続けた理由はなんだったのでしょうか?

モテたい気持ちもないとは言えないと思うんですけど、弾けたらかっこいいなって。それが地続きですね。エレキギターは中学を卒業するくらいのとき、お小遣いを貯めて安いのを買いました。親にねだって買ってもらったって記憶はないですね。その頃まで福岡にいて高校からは長野に住んでいました。

―美大を目指されたんですよね。

昔から絵を描くのが得意だったので、自然とそれを活かす方向に行ったらいいんじゃないかなっていうのだと思いますけどね。多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京藝術大学を受験して受かった多摩美術大学に行きました。1浪したんですが、高校を卒業して東京に出てきて美術予備校に入りました。池袋に予備校があって、その近くで下宿してましたね。風呂なし共同便所で家賃1万5千円。結構、真面目に通ってましたね。もちろん夜にライブに行くことはありましたけど、授業はサボらなかったですね。予備校の友達は同じ境遇のやつも多くて楽しかった。一人暮らしがすごく嬉しかったですね。東京でバンド組みたい、美大に入ったら変な人がいっぱいいて面白いバンド組めるんじゃないかなとも思ってました。それが大きな目的でもあったんですけど、意外と予備校の方が変な人はたくさんいて、自分が入ったグラフィックデザイン科には、そんなに話が合う人はいなかったですね。

―大学で勉強するにつれ、音楽に傾倒していったんですか?

絵は子どものときから習ったり練習したわけじゃないけど、自分なりにはうまく描けてたんですよね。音楽の才能はない絵の方が才能あると思ってたんですよね。だけど興味はどんどん音楽の比重がでかくなって。それで逆転っていうか。

―大学卒業時は就職活動などせず不安はなかったですか?

同じグラフグラフィックデザイン科の人たちは就職してましたけど、僕はしなかったですし焦りもなかったですね。フリーターでもなんとかなるみたいな、適当な雰囲気が蔓延していたと思います。まだ景気も良かったし呑気な時代って感じでしたよね。今の大学生と全然違うと思いますね。あと、当時の僕の周りには大学には行かないでバイトしながらバンドしてる人たちがいっぱいいましたし。

―卒業後はどのように生活されていたんですか?

毎日バイトして月に2〜4回ライブする感じです。ライブハウスは最初ノルマがあって。チケット20枚とか。売れないとその分はライブハウスに払わないといけない。それを超えたら自分たちのギャラになる、そういうライブをたくさんしてましたね。最初は友達にチケット売るんだけど、ファンがついてくるとそういうことしなくてもいい。
だんだん売れるとライブするたびにギャラが入るようになる。けれどもそれだけで食べられるようにはなかなかならないから、バイトしたりって感じですね。メジャーデビューしたあとも、バイトはしないといけない状況でしたね。バイトは一箇所、長くやっていたところがあって。工場だったんですけど展示場で使うものを設営・撤去するのを繰り返す仕事。塗装とかしてましたね。バイトなんでいつでも休めるので都合が良かったんですよね。

―音楽に対するモチベーションはどのように保たれていたんですか?

日本のインディーズシーンには僕がすごいと思うバンドが点在しているんですね。
そこに対してライバル視じゃないですけど、そのバンドよりすごいことしてやろうとか、こっちの方がかっこいいって思わせたい、そういう思いでやってましたね。音楽で儲けたいとか、お客さんの動員を増やしたいというよりは、そういう人たちにより勝つみたいな、そういう感じだったかもしれないですね。当時の高円寺20000V、渋谷La.mama、下北沢屋根裏。大阪にも面白いバンドはいましたね。世間の流行は意識してなかったですね。

―インディーズとメジャーの違いは?

昔は流通と宣伝力だったんですけど、今はそんな変わらなくなってきている。

―今までご両親にバンド活動について何か言われたことはありますか?

悲しんでいたと思うんです。浪人させてもらって美大入ったけど就職もせずにバイト生活。だからと言って細かいことは何も言われなかったですね。メジャーデビューするまでは僕がどんなことに夢中かも知らなかったと思いますね。信用してもらえていたんだと思うんですけど。メジャーデビューしてバイト辞めても食っていけるようになりましたけど、こんな生活は続くはずないと思ってるんで、最初から。今だけだろうっていうのは常に思ってましたよね。基本的にそのロックバンドで何十年もやるって不自然ですからね。僕の感覚だと5年とか10年とかで解散する。The Beatlesもそれくらい。10周年ですごいって感覚でしたけど今は解散しなくなってますね。

―なぜ解散が減ってきていると思いますか?

もう進歩してないんですよね、ロックが。昔はもう、すぐ古くなって辞めざるを得なかったんだと思います。通用しなくなるっていうか古くなる。でも今はずっと一緒でもやっていけちゃう。ロックミュージックの進化が終わって、現状維持の状態になっていると思いますね。昔は20代が50代の音楽を聴くってありえないと思ってたんですよね。でも今は、普通にいい曲を作れば若い人にも聴いてもらえる。自分を含めてですけど年齢重ねたミュージシャンにとってはいい時代だと思いますよ。

―バンドの味って何ですか?

バンド組んで最初の頃っていうのは、それまで聴いて影響を受けた音楽とかミュージシャンのモノマネとかで始める人が多いと思うから、そういうのが出るんだと思うんだけど。長くやってると表面的じゃない味わいみたいなところで他と差が出てくる。どういう感じで生きてきたか、何を考えているかがみえる気がするんです。

―バンドのフロントマンの面白さはどういったところにありますか。

僕は全部コントロールしたいっていうのがあるなと思いますね。勝手にやられたくないっていうのが強いんだと思います。もちろんジャケットのこともそうですが他のことも。手の届く範囲で全部、納得したものだけにしたいですね。メジャーデビューしたら有名なアートディレクターに頼んでジャケットを作ってもらう。それでダサい感じになったら嫌じゃないですか?だったら自分で全部やりたい。あんまり僕は自分の手の届かない部分が大きくなることを求めてない。もちろん、そうしたい人もいる。自分でやると、もうだいたいわかっちゃう。だから人とコラボして一人じゃできないことをしたいってタイプの人もいるけど、僕は違いますね。レーベルを自分でつくったのは自然な流れで。PVのアニメーションを手掛けたのも、なんとなくやってみたかったから。途中に別の人が入ると、絶対ちょっと薄まるじゃないですか?良くなる可能性もあるんですけど薄まる可能性もあって。今はipadでもアニメーションはできるし、世の中にも出せる。そしたら自分でやりたくなっちゃって。でも最近やりすぎだなっていうのを感じてて、もう少し人に頼ってもいいなとは思ってますね(笑)。楽しいのは楽しいんですけど、アニメーションだけやってても…他にもやらなきゃいけないことがいろいろあるから。描き始めるとそれしかしないので。今は趣味で絵を描くことはないです。何か必要に迫られた時だけ描きます。でも漫画は描けないですね。漫画はストーリもある。漫画家は子どもの時から憧れの職業でリスペクトしてますね。

―坂本さんのカラーやモノクロの絵の書き分けってどういう意識でなさっているんですか?

カラーがいいかなモノクロがいいかな、その程度ですね。

―サウンドエンジニアさんとの関係について。

僕ができない技術的なことを全部やってくれて、僕がこういうのを作りたいっていういう抽象的なところをわかってくれる人。同じような価値観というか、こういうのがいい音だっていうのを共有できる人じゃないと難しいですね。僕に技術的な知識がなくて、楽器の音を柔らかく、硬く、もうちょっと前にくるようにとか、そういう言い方しかできないんで。

―ソロとバンドは言葉にすると違いは何ですか?

バンドのときは自分以外のパートはお任せで、セッションしながら作っていた部分がソロは僕が考えたベースラインやドラムパターンをメンバーに伝えてやってもらう。その違いですかね。でも、ソロになって7年ぐらいはライブはせずレコーディングしかしてなかったんですけど、ライブ活動を重ねるとバンドっぽい要素も入ってきて、今はそれぞれに委ねている部分も大きいので、違いはどんどん無くなってきています。

―今のライブ活動について。

今のメンバーが凄く良いので、このままでやれるだけやりたいと思ってます。ライブは楽しいのですが、多すぎると新しい曲を作る時間がどんどんなくなって、作品を出す間隔が長くなるっていうジレンマもありますね。難しいとこです。ライブしていて、いろんな年代の人が見にきてくれるのは嬉しいですね。

―海外でのライブはどうですか?

楽しいです。行ったことないところに行けるので。
ソロになってライブ活動を再開して良かったのは、ライブやってなかったら行く機会のなかったところに呼んでもらえること。予想のつかないところに連れていかれる。流れに任せていく感覚は面白いですね。スケジュールと予算が赤字にならなければ、行ったことない場所にはなるべく行ってみたいです。

―フェスは好きですか?

普段僕を見たことない人に見てもらえる機会にはなると思うんですけど、約1時間という短い時間の中で凝縮したセットでやらざるをえないから、いつも同じようなセットリストになっちゃうと思うんですよね。そういうのをずっとやってると僕はすごい消耗するんで。適度に、やりすぎないようにしたいです。

―作った曲の評価は、ご自分と世間とでズレはありますか?

あんまりよくわかんないですね。レコードの場合は自分ですごいのできたなと思ったら評価されてる方だと思いますけどね。今まで、「なんでみんなこれがわかんないんだ」という感じにはなってないかもしれないです。リスナーにすごく恵まれてるんだと思います。ちゃんと届くべき人に伝わってる感じがしますね。もちろんトンチンカンなことを言う人はいますが、それはそれで全然いいですね。

―ライブがない日は何をしていますか?

演奏を間違えたくないので、自分の曲のギターを練習しますね。最近は練習しないと、間違えちゃう。
あとやっぱり今まで適当に弾いていた部分がわかるようになってくるので、ちゃんとやりたくなるんですよね。ノリで勢いでやっていた部分を、ちゃんとしたい。とはいえ長時間やるわけじゃないんですけど、なるべく練習するようにしてます。昔よりやってるかもしれない。技術がうまくなっているんじゃなくて、昔わからなかったところがわかるみたいな感覚なんですよね。わかるからこそ自分の粗が気になる。演奏を失敗したくない。ロックっぽくないですけどね(笑)。

―坂本さんのかっこいいの基準はどのように作られたと思いますか。

今まで周りにいた人や友達との関わりや、その中で勧められたりして聴いた音楽・観た本や映画ですかね。

―CDの値段を高くしていないですよね?

なるべく若い人たちにライブ来たり音楽を聴いて欲しいからです。

―今の若い子にアドバイスするなら?

年寄りの言うことは気にしなくていいと思いますね。人口分布の問題だと思います。今だと10~20代より、40~50代の世代が多いじゃないですか。昔に比べて若者の流行が社会現象にまでなりにくい気もするのですが、単に人数が少ないからでは?と思ったりします。

―「憧れ」と思われることについて。

自分はレコードを聴いていいなって感覚はありますけど、その人自身に憧れるってのはあんまりないですね。なのでよくわからないです。伝説のあの人が昔のヒット曲を生でやってくれてみたいな感じになるべくなりたくないです。今活動しているミュージシャンの中の一人として混じりたい。1枚1枚、その都度、いい作品作っていくのを続けていきたいですよね。新作を作り続けないと過去の人になる。

坂本慎太郎(サカモトシンタロウ)
1989年に結成したゆらゆら帝国でボーカルとギターを担当。バンドは10枚のスタジオアルバムや2枚組ベストアルバムなどを発売後2010年に解散。
翌2011年に自主レーベル・zelone recordsを設立しソロ名義での1stアルバム「幻とのつきあい方」をリリース。2013年にシングル「まともがわからない」、2014年に2ndアルバム「ナマで踊ろう」、2016年に3rdアルバム「できれば愛を」を発表した。
2017年にドイツ・ケルンで開催されたイベント「Week-End Festival #7」にてライブ活動を再開、2018年1月には東京・LIQUIDROOMで国内初となるソロでのワンマンライブを開催。2022年6月に約6年ぶりとなる最新アルバム「物語のように(Like A Fable)」を発表。
2024年には、2度目のUSツアー(6公演)、”JOY LAND in Bali (Indonesia)”、Maho Rasop Bangkok (Thailand)への出演や、台湾、韓国でのワンマン公演を行う。
また自身の制作のほかにも、さまざまなアーティストへの楽曲提供やアートワークの提供など、その活動は多岐に渡る。

自分で全部やりたい

坂本慎太郎 #ミュージシャン

―一番はじめにギターを購入したきっかけは?

友達が弾いているのを見て、かっこいいなと思って買いました。
その前から音楽は聴いてましたけど。妹とお年玉を半分ずつ出し合って買いましたね。2万円のフォークギターだったんですけど。共有のっていう名目で買って、結局は自分が独り占め(笑)。
中学生の頃、バンドやってる友達はまだいなかったですね。学校の音楽室にクラシックギターがあって、休み時間に弾ける子が弾いて楽しむっていう環境でした。最初はコードを覚えました。Led Zeppelin「天国への階段」っていう曲の最初の部分が弾きたくて練習していました。それが弾けるようになった後、普段聴いているロックの曲にはフォークギターで弾ける曲がなくて、それでエレキギター買ったって感じです。

―その頃からギターをずっと続けた理由はなんだったのでしょうか?

モテたい気持ちもないとは言えないと思うんですけど、弾けたらかっこいいなって。それが地続きですね。エレキギターは中学を卒業するくらいのとき、お小遣いを貯めて安いのを買いました。親にねだって買ってもらったって記憶はないですね。その頃まで福岡にいて高校からは長野に住んでいました。

―美大を目指されたんですよね。

昔から絵を描くのが得意だったので、自然とそれを活かす方向に行ったらいいんじゃないかなっていうのだと思いますけどね。多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京藝術大学を受験して受かった多摩美術大学に行きました。1浪したんですが、高校を卒業して東京に出てきて美術予備校に入りました。池袋に予備校があって、その近くで下宿してましたね。風呂なし共同便所で家賃1万5千円。結構、真面目に通ってましたね。もちろん夜にライブに行くことはありましたけど、授業はサボらなかったですね。予備校の友達は同じ境遇のやつも多くて楽しかった。一人暮らしがすごく嬉しかったですね。東京でバンド組みたい、美大に入ったら変な人がいっぱいいて面白いバンド組めるんじゃないかなとも思ってました。それが大きな目的でもあったんですけど、意外と予備校の方が変な人はたくさんいて、自分が入ったグラフィックデザイン科には、そんなに話が合う人はいなかったですね。

―大学で勉強するにつれ、音楽に傾倒していったんですか?

絵は子どものときから習ったり練習したわけじゃないけど、自分なりにはうまく描けてたんですよね。音楽の才能はない絵の方が才能あると思ってたんですよね。だけど興味はどんどん音楽の比重がでかくなって。それで逆転っていうか。

―大学卒業時は就職活動などせず不安はなかったですか?

同じグラフグラフィックデザイン科の人たちは就職してましたけど、僕はしなかったですし焦りもなかったですね。フリーターでもなんとかなるみたいな、適当な雰囲気が蔓延していたと思います。まだ景気も良かったし呑気な時代って感じでしたよね。今の大学生と全然違うと思いますね。あと、当時の僕の周りには大学には行かないでバイトしながらバンドしてる人たちがいっぱいいましたし。

―卒業後はどのように生活されていたんですか?

毎日バイトして月に2〜4回ライブする感じです。ライブハウスは最初ノルマがあって。チケット20枚とか。売れないとその分はライブハウスに払わないといけない。それを超えたら自分たちのギャラになる、そういうライブをたくさんしてましたね。最初は友達にチケット売るんだけど、ファンがついてくるとそういうことしなくてもいい。
だんだん売れるとライブするたびにギャラが入るようになる。けれどもそれだけで食べられるようにはなかなかならないから、バイトしたりって感じですね。メジャーデビューしたあとも、バイトはしないといけない状況でしたね。バイトは一箇所、長くやっていたところがあって。工場だったんですけど展示場で使うものを設営・撤去するのを繰り返す仕事。塗装とかしてましたね。バイトなんでいつでも休めるので都合が良かったんですよね。

―音楽に対するモチベーションはどのように保たれていたんですか?

日本のインディーズシーンには僕がすごいと思うバンドが点在しているんですね。
そこに対してライバル視じゃないですけど、そのバンドよりすごいことしてやろうとか、こっちの方がかっこいいって思わせたい、そういう思いでやってましたね。音楽で儲けたいとか、お客さんの動員を増やしたいというよりは、そういう人たちにより勝つみたいな、そういう感じだったかもしれないですね。当時の高円寺20000V、渋谷La.mama、下北沢屋根裏。大阪にも面白いバンドはいましたね。世間の流行は意識してなかったですね。

―インディーズとメジャーの違いは?

昔は流通と宣伝力だったんですけど、今はそんな変わらなくなってきている。

―今までご両親にバンド活動について何か言われたことはありますか?

悲しんでいたと思うんです。浪人させてもらって美大入ったけど就職もせずにバイト生活。だからと言って細かいことは何も言われなかったですね。メジャーデビューするまでは僕がどんなことに夢中かも知らなかったと思いますね。信用してもらえていたんだと思うんですけど。メジャーデビューしてバイト辞めても食っていけるようになりましたけど、こんな生活は続くはずないと思ってるんで、最初から。今だけだろうっていうのは常に思ってましたよね。基本的にそのロックバンドで何十年もやるって不自然ですからね。僕の感覚だと5年とか10年とかで解散する。The Beatlesもそれくらい。10周年ですごいって感覚でしたけど今は解散しなくなってますね。

―なぜ解散が減ってきていると思いますか?

もう進歩してないんですよね、ロックが。昔はもう、すぐ古くなって辞めざるを得なかったんだと思います。通用しなくなるっていうか古くなる。でも今はずっと一緒でもやっていけちゃう。ロックミュージックの進化が終わって、現状維持の状態になっていると思いますね。昔は20代が50代の音楽を聴くってありえないと思ってたんですよね。でも今は、普通にいい曲を作れば若い人にも聴いてもらえる。自分を含めてですけど年齢重ねたミュージシャンにとってはいい時代だと思いますよ。

―バンドの味って何ですか?

バンド組んで最初の頃っていうのは、それまで聴いて影響を受けた音楽とかミュージシャンのモノマネとかで始める人が多いと思うから、そういうのが出るんだと思うんだけど。長くやってると表面的じゃない味わいみたいなところで他と差が出てくる。どういう感じで生きてきたか、何を考えているかがみえる気がするんです。

―バンドのフロントマンの面白さはどういったところにありますか。

僕は全部コントロールしたいっていうのがあるなと思いますね。勝手にやられたくないっていうのが強いんだと思います。もちろんジャケットのこともそうですが他のことも。手の届く範囲で全部、納得したものだけにしたいですね。メジャーデビューしたら有名なアートディレクターに頼んでジャケットを作ってもらう。それでダサい感じになったら嫌じゃないですか?だったら自分で全部やりたい。あんまり僕は自分の手の届かない部分が大きくなることを求めてない。もちろん、そうしたい人もいる。自分でやると、もうだいたいわかっちゃう。だから人とコラボして一人じゃできないことをしたいってタイプの人もいるけど、僕は違いますね。レーベルを自分でつくったのは自然な流れで。PVのアニメーションを手掛けたのも、なんとなくやってみたかったから。途中に別の人が入ると、絶対ちょっと薄まるじゃないですか?良くなる可能性もあるんですけど薄まる可能性もあって。今はipadでもアニメーションはできるし、世の中にも出せる。そしたら自分でやりたくなっちゃって。でも最近やりすぎだなっていうのを感じてて、もう少し人に頼ってもいいなとは思ってますね(笑)。楽しいのは楽しいんですけど、アニメーションだけやってても…他にもやらなきゃいけないことがいろいろあるから。描き始めるとそれしかしないので。今は趣味で絵を描くことはないです。何か必要に迫られた時だけ描きます。でも漫画は描けないですね。漫画はストーリもある。漫画家は子どもの時から憧れの職業でリスペクトしてますね。

―坂本さんのカラーやモノクロの絵の書き分けってどういう意識でなさっているんですか?

カラーがいいかなモノクロがいいかな、その程度ですね。

―サウンドエンジニアさんとの関係について。

僕ができない技術的なことを全部やってくれて、僕がこういうのを作りたいっていういう抽象的なところをわかってくれる人。同じような価値観というか、こういうのがいい音だっていうのを共有できる人じゃないと難しいですね。僕に技術的な知識がなくて、楽器の音を柔らかく、硬く、もうちょっと前にくるようにとか、そういう言い方しかできないんで。

―ソロとバンドは言葉にすると違いは何ですか?

バンドのときは自分以外のパートはお任せで、セッションしながら作っていた部分がソロは僕が考えたベースラインやドラムパターンをメンバーに伝えてやってもらう。その違いですかね。でも、ソロになって7年ぐらいはライブはせずレコーディングしかしてなかったんですけど、ライブ活動を重ねるとバンドっぽい要素も入ってきて、今はそれぞれに委ねている部分も大きいので、違いはどんどん無くなってきています。

―今のライブ活動について。

今のメンバーが凄く良いので、このままでやれるだけやりたいと思ってます。ライブは楽しいのですが、多すぎると新しい曲を作る時間がどんどんなくなって、作品を出す間隔が長くなるっていうジレンマもありますね。難しいとこです。ライブしていて、いろんな年代の人が見にきてくれるのは嬉しいですね。

―海外でのライブはどうですか?

楽しいです。行ったことないところに行けるので。
ソロになってライブ活動を再開して良かったのは、ライブやってなかったら行く機会のなかったところに呼んでもらえること。予想のつかないところに連れていかれる。流れに任せていく感覚は面白いですね。スケジュールと予算が赤字にならなければ、行ったことない場所にはなるべく行ってみたいです。

―フェスは好きですか?

普段僕を見たことない人に見てもらえる機会にはなると思うんですけど、約1時間という短い時間の中で凝縮したセットでやらざるをえないから、いつも同じようなセットリストになっちゃうと思うんですよね。そういうのをずっとやってると僕はすごい消耗するんで。適度に、やりすぎないようにしたいです。

―作った曲の評価は、ご自分と世間とでズレはありますか?

あんまりよくわかんないですね。レコードの場合は自分ですごいのできたなと思ったら評価されてる方だと思いますけどね。今まで、「なんでみんなこれがわかんないんだ」という感じにはなってないかもしれないです。リスナーにすごく恵まれてるんだと思います。ちゃんと届くべき人に伝わってる感じがしますね。もちろんトンチンカンなことを言う人はいますが、それはそれで全然いいですね。

―ライブがない日は何をしていますか?

演奏を間違えたくないので、自分の曲のギターを練習しますね。最近は練習しないと、間違えちゃう。
あとやっぱり今まで適当に弾いていた部分がわかるようになってくるので、ちゃんとやりたくなるんですよね。ノリで勢いでやっていた部分を、ちゃんとしたい。とはいえ長時間やるわけじゃないんですけど、なるべく練習するようにしてます。昔よりやってるかもしれない。技術がうまくなっているんじゃなくて、昔わからなかったところがわかるみたいな感覚なんですよね。わかるからこそ自分の粗が気になる。演奏を失敗したくない。ロックっぽくないですけどね(笑)。

―坂本さんのかっこいいの基準はどのように作られたと思いますか。

今まで周りにいた人や友達との関わりや、その中で勧められたりして聴いた音楽・観た本や映画ですかね。

―CDの値段を高くしていないですよね?

なるべく若い人たちにライブ来たり音楽を聴いて欲しいからです。

―今の若い子にアドバイスするなら?

年寄りの言うことは気にしなくていいと思いますね。人口分布の問題だと思います。今だと10~20代より、40~50代の世代が多いじゃないですか。昔に比べて若者の流行が社会現象にまでなりにくい気もするのですが、単に人数が少ないからでは?と思ったりします。

―「憧れ」と思われることについて。

自分はレコードを聴いていいなって感覚はありますけど、その人自身に憧れるってのはあんまりないですね。なのでよくわからないです。伝説のあの人が昔のヒット曲を生でやってくれてみたいな感じになるべくなりたくないです。今活動しているミュージシャンの中の一人として混じりたい。1枚1枚、その都度、いい作品作っていくのを続けていきたいですよね。新作を作り続けないと過去の人になる。

坂本慎太郎(サカモトシンタロウ)
1989年に結成したゆらゆら帝国でボーカルとギターを担当。バンドは10枚のスタジオアルバムや2枚組ベストアルバムなどを発売後2010年に解散。
翌2011年に自主レーベル・zelone recordsを設立しソロ名義での1stアルバム「幻とのつきあい方」をリリース。2013年にシングル「まともがわからない」、2014年に2ndアルバム「ナマで踊ろう」、2016年に3rdアルバム「できれば愛を」を発表した。
2017年にドイツ・ケルンで開催されたイベント「Week-End Festival #7」にてライブ活動を再開、2018年1月には東京・LIQUIDROOMで国内初となるソロでのワンマンライブを開催。2022年6月に約6年ぶりとなる最新アルバム「物語のように(Like A Fable)」を発表。
2024年には、2度目のUSツアー(6公演)、”JOY LAND in Bali (Indonesia)”、Maho Rasop Bangkok (Thailand)への出演や、台湾、韓国でのワンマン公演を行う。
また自身の制作のほかにも、さまざまなアーティストへの楽曲提供やアートワークの提供など、その活動は多岐に渡る。