『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』感想〜THRICE UPON A TIME

500ピース ジグソーパズル さらば、全てのエヴァンゲリオン ラージピース (50×75cm) 05-2014

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を観た

 もちろん総括的に観ることになると思うが、現時点で映画館に行くには密が過ぎるし二時間半の上映時間には憂鬱も混じってくる。自宅には快適なホームシアター環境があるし、他と同じように配信レンタルが出てからで充分程度の温度感だったのだけど、揺れる。

 客足が落ち着くまで待っているつもりもあったのだけど、周りからの圧力や感想戦への参加チケットを手にれるために久々の映画館。席の予約状況をみたら平日かつ既に公開4日目ということもあってか混雑してなかったという状況も後押しした。

 あとは膀胱の強羅絶対防衛線における攻防戦が始まらないように水分を控えたり、古の教えにしたがってポップコーンを買ってみたり。世間では10年前の3.11に想いを馳せており、奇しくも制御できない力の爆発によって崩壊した作品世界とのシンクロ率が高まっていた。ここからは完全にネタバレを含むので観てからにしていただきたい。

「やりなおし」を許さない決意

 初っ端の「これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版」でちょっと目頭が熱くなる。前作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の公開日は2012年11月17日。アニメを観なくなるには十分な年月だったし、Qな鑑賞でおさらいなしだったので少し不安だったが、これがあるだけで様々なシーンが蘇ってくる。

 序盤はQまでの話をちゃんと引き継いでL結界で赤化した世界やその解除作業や制御棒などで放射能除染をイメージさせつつ、浮遊する戦艦が有機的に動く戦闘シーンから引き込まれる。正直なところで、ヱがエに代わっているし、これまでの話をなかったことにする導入や『その後のEVANGELION』のような世界崩壊後のシンジたちのセカイ系から始まるんじゃないかと覚悟していたので、良い意味で面食らった。

 シンエヴァの副題は「THRICE UPON A TIME」であり、これは『未来からのホットライン』の原題である。その訳は「三度、一回」で、お伽噺の定型句にある「ONCE UPON A TIME」のもじりだ。『未来からのホットライン』では過去にメッセージを送れる機械によって三回の物語が繰り返される。逆にいえば物語を繰り返したのは三回だけ。

 ヱヴァンゲリヲン新劇場版は旧劇場版のやりなおしであり、旧劇場版はアニメ版のやりなおしであるから、今回が三回目。これはラスト近くの「時間を戻さない」「落とし前をつける」といったセリフにも繋がってくる。次の「やりなおし」を許さない決意だったのだろう。

震災リブート映画としての『シン・エヴァンゲリオン』

 わりとあっさりトウジやヒカリと第三村で再会してから震災その後のリブートを描いており、ある意味では『シン・ゴジラ』の続編のような雰囲気も感じた。敢えて「ニアサー」という略称が使われているのも、「フクシマ」「ゲンパツ」「新コロ」のような記号化に倣ったものだろう。

 リアリティの震災後世界では節電をヤシマ作戦と呼称したり、ボランティアや募金をしたり、家の中でも寝袋で過ごしてみたりと東京で無責任に過ごしていた日々が終わって新型コロナウィルスに侵食されている。トウジに「悪いことばかりではなかった」と評される密で原初的な災害ユートピアとも言える状況が羨ましくなってしまうような倒錯もある。

 それはそれで当事者にとっては本当に乱暴な話ではあるが、それでも人を成長させるのは現在の自分ではできない状況が生まれた時であり、自分よりも他者のことを考えられるようになった時だ。このタイミングでの公開がギリギリだったのだろうとも感じる。

 ニアサードインパクトから14年経って親であり、職業人となったトウジやヒカリは人間の成長を象徴しており、なんの成長をしていないシンジと僕自身は『劇画オバQ』である。「そうか…正ちゃんに子どもがね…ということは…正ちゃんはもう子供じゃないってことだな……な… 」。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の公開日が2007年9月1日なので約14年。奇しくもリアリティの世界でも14年間が過ぎていた。

ありがとう∞さようなら

 黒い綾波クローンが「そっくりさん」と呼ばれて、ヒカリや農業をする女性たちとの会話で新しい言葉を覚えていくが、そこで覚える「ありがとう」と「さようなら」が効果的に使われる。「ありがとう∞さようなら」はコミックス版の最終話のひとつ前に位置するSTAGE.95のサブタイトルだ。

ありがとう
約束を思い出してくれて
もう大丈夫
すべての生命には復元しようとする力がある
生きていこうとする力がある
夢は現実の中に
現実は夢の中に
そして真実は心の中に

 イマジナリー・エヴァであり、エヴァ・インフィニティであり、シンクロ率∞であり。マイナス宇宙において崩れゆくリアリティラインにおける真実は心の中にある。ゴルゴダオブジェクトの中では「自由な表現」が可能になる。チープなセットの中で闘ったり、庵野秀明本人が巨大化する『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』の逆転表現。または『ウルトラセブン』におけるメトロン星人との対話。

 別に意図していないだろうが、刃牙における史上最強の親子喧嘩さえ連想する。そして『喧嘩稼業』の表紙ような唐突にリアリティをもったCG造形。観客に対しては不気味の谷を感じさせつつも、物語世界におけるリアリティラインにおいてはまた異なる「変な」な造形に見えていることだろう。映像作品は意図的に描き分けることができ、個々人の記憶を刺激して異なる像を作り出すことができる。

 エヴァンゲリオン八号機がさまざまなエヴァンゲリオンを取り込んで性能をあげていくのも、さまざまなパロディやオマージュを「外部」から取り込む作品性を表しており、またマリそのものが庵野監督自身のパーソナリティの「外部」に位置して個々人から想起されるクオリアをつなぎ合わせるコミュニケーションのメタファーとなっているとも感じた。

ディスコミュニケーションの次段階にあるA.Tフィールドを超えて

 本作の特徴として、他者から自分を守るために使われてきた A.T フィールドがむしろ自分の行動を邪魔するように描かれることが挙げられる。これはSDATウォークマンで耳を塞いで聞こえないようにする段階から、自分から話しかける恐怖への変化だろう。近くの会話に聞き耳を立てて、自分もそこに参加したいのに、こちらから話しかける恐怖は揺るがないディスコミュニケーションの次段階。

 相手から話しかけてもらえれば饒舌になって友達になれることがあっても、こちらから話しかけるのが怖いのがオタクである。そのA.Tフィールドはむしろゲンドウの側に強く現れる。大人の象徴と描かれていたはずのゲンドウこそ一番のガキであったと庵野監督を含めた全員がこの14年間で学んでいるのだ。

 それをシンジから話しかけてもらうことで理解し、シンジのなかに生きるユイを見つけて電車を降りる。ゲンドウがユイに執着するのは一番最初に自分に好意を持って話しかけてくれたからだ。なのに自分がそれをできなかった。話しかけてきてくれないなら境界をなくするべきだと思ってしまった。

 恋がはじまるのはいつだって「あなたの事をもっと知りたい」という欲望からであり、恋がおわるのはいつだって「あなたの事はもう分かった」である。完璧な殺人事件は死体が発見されない事で達成できるが、死体が発見されなければ事件を解決するための欲望を維持できない。「まだ僕たちの間には伝達されることが残っている」という共同幻想を維持し続ける必要があるために完璧な文章は書かれないのだ

 好意とは「あなたのことがもっと知りたい」と思うことであり、コミュニケーションとはそれを他者に伝えることだ。「そう。好意に値するよ」 「好意?」 「好きってことさ」。胸の大きいイイ女は、シンジの状態が良い時にも、悪い時にも、どこにいても探しだしては話しかけてくれるぐらいにイイ女なのだけど、だからこそ逃がさないように今度こそシンジから話しかける必要がある。ヤマアラシのジレンマを超えて。

括弧が適度に中和された新世紀を対話で作る

 序のサブタイトルは「YOU ARE (NOT) ALONE」であり、NOTを囲う括弧は対話によって他者との境目があっても分かり合えるよう適度に中和されるべきA.Tフィールドを表しているのではないか。破のサブタイトルは「YOU CAN (NOT) ADVANCE」であり、Qのサブタイトルは「YOU CAN (NOT) REDO」である。

 他者との距離感に成熟し、A.Tフィールドが適度に中和された新世紀では人類補完計画もエヴァゲリオンという作品も「進める」必要がなくなり、歪に終わっては次の完璧を目指して繰り返していた「やりなおし」もできなくなる。「THRICE UPON A TIME」は三度目の正直。

 完璧でなくても、歪なところが残っていても、それを壊しての「やりなおし」を何度も繰り返さないのが「大人の落とし前」だ。さらば、全てのエヴァンゲリオン。ありがとう♾さようなら。