流行りだとか話題のためにアニメを観ること~コミュニケーション基盤としてのオタクコンテンツ

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アニメを観るのは共通言語のため

アニメは誰かと話す時の共通言語として楽だから観ているだけであって、そういうモチベーションがなくなると全然観なくなるから自分はオタクではないのだと想う事が多い。

Twitter @bulldra

 id:p_shirokuma 先生とTwitterでこんな感じのやりとりがあった。元のつぶやき自体は『これからチェックするなら「覇権アニメ」がお勧め
』(元記事削除済)から連想したエアリプライ兼自嘲的表現ではあるが、自分自身としてもオタク界隈にあまり出入りをしなくなった時点からリアルタイムで追いかけるアニメが残らなくなったのも事実だ。

 過去には『新世紀エヴァンゲリオン』に大ハマりしたし、比較的新しいアニメだと『Tiger & Bunny』『まどか★マギカ』辺りも好き。ゲームで言えば『シュタインズゲート』について30時間ぐらい語り続けられる。その他、漫画やラノベなどいくつかのコンテンツを深く敬愛しているので十分にオタク寄りではあろう。

「コンテンツ消費」のみでの強度が足りない

 ただ、それから後に放映されたアニメについてはそこまで好きなものが見つからず、「当時に縁のあった人達が観ていたから、その話題のために観ていた」という側面が増えていったのも嘘ではない。それすら面倒になった現状というのが前述となる。漫画やラノベは読んでいるからこそ原作付きアニメは初回放送の再現度確認ぐらいしか観る必然性を感じないし、オリジナルアニメにしても毎週見続ける意志力を保つというのはなかなか難しい。

 それは単純に可処分時間が少ないという要素が大きく寄与しているだろうし、自分の嗜好の変化があったり、客観的にも最近のアニメはつまらなくなったのかもしれない。ともかく「無理をしたってアニメを観続けてしまうのが真のオタクである」と定義されるのならと少々の皮肉含みに限定すれば、自分はそこから外れてしまう。あたらしく「コンテンツ消費」をするには他に優先すべきアテンションが多々あり、あくまで「コミュニケーション消費」の期待があってこそ観るというところで自分の中では均衡していたのだと思う。

アニメ圏から外れて思うこと

 このことについては、『他人のパロディを元にしたレトリックが理解できなくなってきているのに、自分の文章にはパロディを入れ込んでしまう自分の気持ち至上主義の憂鬱 - 太陽がまぶしかったから』にも書いたとおり、「最近のアニメや声優のパロディが全く理解できない」と思う機会が増えたことからも実感している。マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』において本の内容を前提として会話が成立する「読書圏」の誕生を書いているが、その意味では「アニメ圏」の住人ではなくなってしまった疎外感を感じたりもしている。

 直近のブロゴスフィアには『風立ちぬ』の感想が並んでいるが、観にいく予定もないので透明スルーしているし、アニメ的に消費されてるらしい『あまちゃん』も寂聴がアイドルになる話だと思っていたぐらい。すみません嘘つきました。でも「じぇじぇ」って何?

 最近のアニメ評論系の文章や同人誌についても「評論対象の作品を観たことないから手がでない」という現状。『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)』をはじめとした90年代後半以降の「思想」にはカルチャルスタディーズの要素が多分に含まれていて、コンテンツを読み解くことで社会の風潮を探るみたいな、いわゆる「社会反映論」がひとつの勢力になっていた。

 その辺の話については長くなるし、自分の手に余るので省略するが、ともかく題材になるようなコンテンツについてはひと通り知っておかないと機会損失になるという感覚が一部の界隈では共有されていたようにも思う。SF研究会なんかでは見慣れた光景ですし、評論を第一義の目的としてアニメを観ている人は未だに多いものだろう。結果として好きになることはあったにせよ、それはそれで「流行りだとか話題のためにアニメを観ていた」と言えそうだ。

接待ゴルフとしての『まどか★マギカ』

 実のところ『ITインフラ業界にとっての深夜アニメは「接待ゴルフ」のようなものなのか? | P2P today ダブルスラッシュ』なんて話も出る通り、IT業界の一部では深夜アニメの知識が必須となっていたりもする。 

そのため、インフラ系の勉強会に行くと深夜アニメの(ごく一部)を見た事がないとわからないネタが多くなってしまいます。このような状況のため、せっかくITインフラ系の勉強会に行っても話題についていけない場合があるかもしれません。話題についていくにはどうしたら良いか?


これは接待ゴルフのようなものだと思って諦めて、深夜アニメを録画して見てみましょう。深夜アニメの全てを見るのは不可能なので、Twitterで話題になっていたり、AmazonのDVDランキングで上位になっている深夜アニメを見ればだいたい話についていけるのではないかと思われます。

 「僕の会社と契約して○○をしようよ!」なんて締めが使われるライトニング・トークはたくさんあったし、アイスブレイクと言えば「今期は何が注目ですか?」みたいな。仕事先で野球や政治や宗教の話などできないし、かといって比較的若い担当者の方はゴルフや麻雀やカラオケなんかも固辞されてしまう。なのでラポールを形成するのにあたっては、アニメや漫画やゲームの話が案外有効になることも多いのだろう。これはウェブ業界に近いほど顕著であると個人的には実感している。最近だと『艦これ』なのでしょうが、艦これおじさんになったらさらに時間がなくなるので自重して「教えてもらう型」のコミュニケーション戦略をとっとろうとしている。これも「流行りだとか話題のためにアニメを観ること」だろう。

「進研ゼミ」をして賭け金を作り出す

 ところで、昨今では「オタク婚活」と言われる結婚活動が隆盛になっているようだ。その名の通り、オタク同士でカップルになれるお見合いパーティに参加するような結婚活動のことだ。この「オタク婚活」について自分は「進研ゼミ」という戦術を提唱していた。

オタクや文化系女子をターゲットとした婚活において、異性が好む作品を予習してお くこと。プロフィールを見た瞬間に感じる「あ、これ進研ゼミでやったところだ!」 から。

(中略)

ネット婚活においては好みの作品がプロ フィールに書かれていることも多いた め、メールを出す前に進研ゼミをしておい て「好きな作品が似ているので、ご連絡させて頂きました」も可能である。オタクや文化系男女は「同様の作品を好む=感性が 近い=一緒にいて楽しい」という錯覚を抱きやすいため有効な戦術となっている。

 その後「進研ゼミ」は別の媒体などでも使われる言葉になっており、これは「流行りだとか話題のためにアニメを観ること」の極北だろう。自分としては「やっちゃダメな事」というオチにをつけていたつもりだけれども。

オタクコンテンツがコミュニケーション基盤を担うこと

 一部のオタク系の人々は人間的に親しくなるほどに、好きな作品トークをして互いにDVDや漫画を貸しあったり、家で読んだりしてジラールの欲望の三角形による模倣/被模倣関係を作るのが好きです。コミュニケーションの半分近くが色々なコンテンツについての会話になるような関係も多かったようにも思う。

 その時点ではすごく楽しいのだけど、そこから色々あって綺麗な別れ方が出来ないと、その時に密にやりとりされたコンテンツにまで余計な心的結合が残ってしまう場合もある。そういう事を明確に切り離せる人はよいのだろうが、紅茶に浸したマドレーヌのように色々な妄念が想起されてしまうので、そのコンテンツ自体を純粋に楽しめなくなってきてしまうリスクがある。

 それは映画や音楽や場所などの切ない思い出として、ありがちな事でもあるが、コンテンツを介したコミュケーションの割合が多いほど被害は深刻となる。それこそ5年単位で好きだった作品への想いが数ヶ月ぐらいしか一緒にいなかった女子に壊されてしまう事だって起こりえる。その前提において自分の大切にしているコンテンツを教えあうというのは、それをブルデューが『ディスタンクシオン』でいうところの「賭け金」として拠出させられる割の合わない賭博スキームに巻き込まれる気分になります。「私にとっては大切」であったとしても相手の価値観や市場価値としてはそうでもないのだから「ハイリスク・ローリターン」にしかならない。だからこそ、覇権アニメを観ておけば良いのだ。

幻想郷の構築

 その時がずっと続くとすぐに信じ込んでしまう僕と、どう考えても地雷だからやめとけという僕が葛藤します。その辺は id:hase0831 さんの『婚活女子のための生存戦略 - インターネットの備忘録』で挙げられた友達に紹介できるか問題みたいな感覚にも繋がってくるかもしれない。

で、3つ目はこれだけフワッとしてて恐縮なんですけど、付き合い始めてからそれなりの期間が過ぎてるのに相手の友達に紹介してもらえないとき、もしかして何かアレなのかなって心構えしといたほうがいいと思います。単に相手に友達がいないとかいうケースもあると思うんですけど、そういうのでも共通の視点としては「自分と出会う前から彼が作っていた世界に触れさせてもらえるか」です。私見ですが結婚って非常にソーシャルなもので、今までの人生とこれからの人生を二人で共有するもんなので、今までの人生がサッパリ分からない相手/教えてくれない相手っていうのは、その世界に自分を入れてくれていないという意味では結婚にはまだ遠いんじゃねえかなと思ってます。


 あるコンテンツが自分の中で大切なものに変化していくには石油のように長い期間が必要なのに、それを使い果たされるのは一瞬だ。その程度で壊される強度なのかという疑問もあるだろうが、その意味でも僕は「真のオタク」ではないのだろう。なので「話題としてのアニメ」を観ておくことは「賭け金の創出」のためにも必要であったのだとも考えられる。

 最初から流行りだとか話題のために観ているのであれば、人間関係もろとも切断しても最小限のダメージで済む。「進研ゼミ」はそのための手段としても合理的であり、壊されても大丈夫な「自分と出会う前から彼が作っていたと思える幻想郷」をゼロからオーダーメイドする愛と絶望。何者にもなれない私は、貴女のために何者かのフリをする事はできる。

コミュニケーション主体なのかコンテンツ主体なのか?

 コミュニケーション消費主体なのかコンテンツ消費主体なのかという話については食事の話が分かりやすい。

本当に美味しいものを食べるときは一人で食べたほうがいい。

(中略)

同席者のグラスの空き具合を気にする必要もない。会話の相槌を考えなくてもいい。
誰かと一緒に食事をしていると、料理も会話のネタの一つになってしまう。
会話よりメシを食うことのほうが楽しいに決まっているというのに。


 僕自身は本来のところ真剣にコンテンツ消費をしているときに、その作品をコミュニケーション消費の一手段として蔑ろにされるのに嫌悪感を抱く。ある作品について、オンライン上で散々やりとりをして、女子を含む複数人でOFF会の流れになった時に、一部の参加者が基礎知識レベルの事すら理解してなくて、本来話そうとしていた内容に踏み込めないまま、消化不良で解散するみたいな事件があったりして、コミュニケーション消費を優先する人々は敵だと認識している。出会い厨は氏ね。

 ただ、これも自分が大切に思っている作品だからこそ、そういうふうに感じただけであって、僕の方が本当の動機としてはコミュニケーション消費側に居ることが多。良くも悪くもコミュニケーション消費を意識しているからこそ徹底的な擬態……というよりもコンテンツ消費として本人を超えるべく読み込んだり、分からないなら分からないなりに「教えてください」というスタンスを明示するようにはしたいと思っている。

人やコンテンツの負荷分散

 「結合定量の法則」はコンテンツとの関係にも成立する。その意味では、メリハリを持ってコンテンツとの結合関係を結びつつ、流行りだとか話題のために観ているアニメは色々な要因で壊されてもよいデコイとして擬似結合させている状態なのでしょう。擬似結合であっても観ているうちに、本当に好きになって結合関係が強まる事もあるのかもしれません。

 それは「クールごとに嫁を切り替える」感覚も同じなのかもしれない。13週や26週でその作品世界が永遠に停止してしまう場合の方が多い。どんなに過剰に思い入れたって、そこには非対称性があります。だからといって「好き」が萎んだわけではなくて、好き過ぎるからこそ別の選択肢を入れて薄めていかないと狂ってしまう。そして、彼女たちが論理的に停止した事について一抹の悲しさだけで次に向かうことができる。

すべてはコミュニケーション消費のためである

 ことほどさようにコミュニケーション基盤としてオタクコンテンツが利用されている側面があって、それを見越して準備をしているというアレな人々もいるという事だ。だからといってその作品を愛さないと決めつけているわけではなくて、ちゃんと観ればむしろ好きになる事のが多い。それでも、コンテンツ消費のためだけに見続けるには少々時間が足りないという現実もあります。

好きな人が好きと言っているものを自分も好きになる可能性が高いというのは感性の一致幻想もあるけど、本質的に自身の閾値がかなり低いし、良かった探しをしてしまうので、それなりにオーソライズされた作品であればちゃんと鑑賞したか否かみたいな所が一番のパラメタになっているからだと思う。

Twitter @bulldra

 『女の子が急にマニアックなこと言い出したら - Togetter』なんて話があって、この感覚自体は偏見の塊なのだけど、こと自分に関してはそれなりに起こる。キッカケはなんであれ、本当に好きになるかどうかが重要だとは思うれども。それで、なんで最近になってブログ更新を頻繁にするようになったかといえば……言わせんな。恥ずかしい///