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タキ井上のF1日本GPデビュー大作戦!!(前編)なぜ周りから「お金でシートを買った」と言われたのか?【帰ってきたブラックフラッグ】

2022年9月30日 18時44分

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帰ってきたブラックフラッグ

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◇「タキ井上の帰ってきたブラックフラッグ」第7回

 2019年以来3年ぶりのF1日本GP開催(10月9日)まであと1週間。自動車レースメディアも鈴鹿サーキットも来(きた)る日に向けて、さまざまな話題提供でイベントを盛り上げようと汗をかいている。今回は僕もその流れに乗り、F1日本GPに関するタキ井上の思い出話を3回にわたりお届けしよう。
 ちなみに中日スポーツが送ってきた資料を見ると、F1の公式戦は日本で37回開催されている。鈴鹿サーキットで31回、富士スピードウェイで4回、TIサーキット英田(岡山国際サーキット)で2回という内訳である。また、日本人F1ドライバーは都合18人で、母国グランプリ経験者は16人とのこと。
 母国グランプリ経験者のトップは片山右京(敬称略、以下同様)の8回。以下、鈴木亜久里の6回、中嶋悟と佐藤琢磨の5回、小林可夢偉の4回と続く。そしてトップ6につけけたのは、なんと不肖・タキ井上の3回である(汗)。高原敬武、星野一義、中野信治、高木虎之介、中嶋一貴の2回よりも多い(汗)。現役F1ドライバー角田裕毅はまだ0回なので、少なくとも2025年まで活躍しないとタキ井上を超えられない(汗)
 閑話休題。僕は子供のころから“なんかカッコいい”という理由だけでレーシングドライバーを目指し、1985年に富士フレッシュマンという入門ドライバー向けツーリングカーレースデビューを飾った。86年には渡英してジム・ラッセル・レーシング・スクールを受講、87~88年の英国フォーミュラ・フォード(英国FF)参戦に漕ぎつけた。翌年は英国F3を戦うつもりだったが活動資金を集められず、89年は残念ながら空白の1年を過ごした。
 それでも何とか資金を集めて、90~93年には全日本F3選手権に参戦。91年は英国FF時代に知り合ったデービッド・シアーズ及び“駅前留学”をキャッチコピーとする英会話学校「NOVA」をスポンサーとして得て、スーパーノヴァレーシングを設立して全日本F3を戦い続けた。
 全日本F3の4年にわたる戦績で最高位は4位に留まり、ドライバーズランキング最高位は9位とかなりさえないものだった。しかし、参加台数が50台や60台もあり、スペアカーまで用意するという気の狂ったチームもあったバブル日本経済下という背景を考えれば、それなりの結果を残したのではないだろうか(汗)。
 しかし、そのまま国内トップフォーミュラである当時の全日本F3000選手権に参戦したところで、僕が最終目標としていたF1昇格は難しかったと思う。そこで、93年末に僕らは当時F1直下だった国際F3000選手権チーム、スーパーノヴァレーシングを英国でもつくった。94年には、のちに王座に就き97年にはローラF1からデューするはずだった幻のF1ドライバー、ヴィンツェンツォ・ソスピリをチームメートとして、国際F3000へタキ井上は参戦した。
 今でも思うけれど、スーパーノヴァレーシングはしっかりとしたチームだった。先に記したとおりソスピリは95年に国際F3000チャンピオンとなり、のちにF1昇格を果たすチームメートのリカルド・ロセットはランキング2位。さらに、97年はリカルド・ゾンタ、98年はファンパブロ・モントヤ、2002年はセバスチャン・ブルデーとやはりのちのF1デビューを果たすチャンピオンを次々に輩出した。
 このように強力な国際F3000チームで、タキ井上は94年に最高位9位という戦績しか残せなかった。しかし、同94年に僕は母国で開催されるF1日本GPにシムテックからなぜか無事にF1デビューを果たすのである(汗)。当時この件に関してタキ井上は「お金でシートを買った」とか「お金でF1参戦に必要なスーパーライセンスを買った」とか、無知蒙昧(もうまい)な日本のメディアにさんざんたたかれたと記憶している。
 しかし、現在のニコラス・ラティフィやランス・ストロールや少し前のニキータ・マゼピンもそうだけど、F1デビューにあたってお金でシートを買うのは当たり前。F1王者の、あのニキ・ラウダやミハエル・シューマッハーでさえ、当初はお金を払ってシート獲得に漕ぎつけていた。なぜ、僕だけがたたかれるのか当時はさっぱり分からなかった。
 それはともかく、1990年代半ばまでのF1ではシーズン終盤に差し掛かると、下位チームの懐具合は総じて寂しくなり、レギュラードライバーを外して活動資金を持ち込めるスポットドライバーを起用する例も多かった。僕はそこに賭けた。そもそも国際F3000にレギュラー参戦していれば、戦績はともかくスーパーライセンス発給条件はルールとして十分にクリアしていた。
 しかも、当該ドライバーの母国グランプリだったら、スーパーライセンスの発給条件がさらに緩和されていた。僕は国際自動車連盟(FIA)のそうした傾向を知っていたから、「これは行ける!」と思った。そして実際にスーパーライセンスを“買う”ことなく手数料だけで手にし、シムテックからF1日本GPデビューを果たしたのである。もちろん、シムテックにはそれなりの活動資金を持ち込んだが、それは東京都内の狭い中古マンションを買うよりも安い金額だった。
 さて次回の後編では実際にタキ井上が94年にシムテックからデビューを果たしたF1日本GP、翌95年にレギュラードライバーとしてフットワークから参戦したF1パシフィックGPとF1日本GPを振り返りたい。F1というやつは中日スポーツの記事を読んでいるだけでは理解できない出来事がある魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界であり、レースの上面をなぞるだけのフジテレビやDAZNだけでは分からない跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)の世界でもある。
  ◇  ◇  ◇
 ▼タキ井上 1963年9月5日生まれ、58歳。神戸市出身。本名は井上隆智穂。94年F1日本GPでシムテックからデビュー。95年はアロウズでフル参戦し、決勝最上位は8位。ただし、当時の入賞は6位までで、ポイントは得られなかった。96年はミナルディへの移籍発表後、開幕前にシートを喪失。F1の世界から追い出された。その後は、ヨーロッパで若手選手のマネジメントに心血を注ぐ。モナコ在住。
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