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第一章 おかしも (3)

2025年1月9日 11時00分 (1月9日 11時00分更新)
 「えびすを祀(まつ)った場所からお湯が湧いたという由来にちなんだ、創業者の曾祖父(そうそふ)のアイデアです」
 主の泰一は、そう言うと持参した供え物を、えびす像の前に並べた。
 そして両手を合わせると、大女将以下、皆も揃(そろ)って手を合わせた。
 小野寺も慌てて、彼らに倣(なら)った。
 えびす信仰と言えば、大阪市浪速(なにわ)区の今宮戎(いまみやえびす)神社と兵庫県西宮(にしのみや)市の西宮神社が有名だ。
 子どもの頃から「商売繁盛」を祈念する「十日戎」に親しんできた浪速区生まれの母も、神妙に頭を下げている。
 その時、足下(あしもと)が揺れた気がした。
 「えっ! 地震?」
 萌葱(もえぎ)がうろたえ、泰平が彼女にしがみついた。
 それは、小野寺には忘れようもない、あの感覚だった。
 一九九五年に阪神淡路(はんしんあわじ)大震災を経験し、東日本(ひがしにほん)大震災が起きた二〇一一年には、余震が続いていた五月から、応援教師として東北の被災地に赴任した小野寺だったが、いまだ地震に慣れない。
 「うわっ!」と声を上げると、何かつかまるものはないかと周りを見回した。
 それに引き換え、母加寿子は堂々としたものだ。「大丈夫。じっとしてたら、収まる」と言い、ふらついた大女将を支えた。
 すぐに泰一のスマホが鳴った。
 「今、えびすさまのところにいる」
 電話を切ると、彼は小野寺に言った。
 「震度五弱だそうです。旅館にも目立った被害はなさそうですが、戻りましょう」
 そう言うと泰一は、泣きそうな息子の泰平を抱きかかえ、本館の方に向かった。
 「大女将と朱音ちゃんは、私たちと一緒にゆっくり行きましょう。萌葱さんは、遠慮なく先に戻って」
 加寿子に言われて、萌葱も夫を追うように駆け出した。
 「お母さん、『おかしも』だよ」
 萌葱の背中に向かって朱音が言った。
   2
 おかしも──。小野寺は、その標語を久しぶりに聞いた。
 押さない、駆けない、しゃべらない、もどらない──は、阪神淡路大震災を教訓に生まれた災害避難の合言葉だった。
 小学校教諭として勤務している間中、小野寺も口が酸っぱくなるぐらい繰り返した。
 「翁木屋(おうきや)」には、この標語を活かしたポスターが、至るところに貼られていた。

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