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第一章 おかしも (2)

2025年1月8日 11時00分 (1月8日 11時00分更新)
 後にえびす温泉郷と呼ばれるようになる、ここ鹿島浜(かじまはま)でも、いつの頃からか、海から流れ着いた水死体や海獣の死骸を、福の神として手厚く埋葬し、祠を建てて、信仰の対象とするようになった。
 平安時代に、旅の僧侶が、その祠の脇に水が湧いているのを見つけ、顔を洗おうと手を浸(ひた)すと、熱かった。
 その湧き湯を利用して湯治場(とうじば)を開いたのが、温泉郷の始まりだという。
 その祠は、温泉郷の西の端にある旅館「翁木屋(おうきや)」で、今も大切に守られている。
 「翁木屋」は、七尾(ななお)湾を一望する絶好の立地が自慢だ。
 露天風呂は、打ち寄せる波が間近に迫る場所にあり、他にはない豪快な入浴体験が人気だ。
 「大女将、旦那(だんな)さん、若女将、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」
 一同が玄関を出ようとした時、背後から若い男が近づいてきて、深々と頭を下げた。
 宅配便の配達員のようだ。
 「鈴田(すずた)君、あけましておめでとう。新年早々、ありがとう。今日ぐらい休めばいいのに」
 萌葱(もえぎ)が、彼に近づいて声をかけた。
 「いや、配達希望日時が、一月一日の午後指定でしたので。でも、これで今日の配達は、おしまいですから、帰ってゆっくりさせてもらいます」
 スーツケースが三つ、フロントのカウンターの前に置かれている。今日から宿泊する客のものだろうか。
 萌葱は、懐(ふところ)からポチ袋を取り出した。
 「今年もよろしくね。また、鎮(まもる)君と奥さんと一緒に泊まりに来てね」
 恐縮して何度も頭を下げ出ていく配達員を見送ると、一同は正面玄関を出た。
 老舗旅館の主人らにとって非常に大切な場所への初詣に同行するにあたり、小野寺は母に厳しく言われて紋付き袴(はかま)を着込んでいる。慣れない格好で、歩きにくいことこの上ない。それを見て、六歳の泰平がくすくす笑うのを、姉の朱音が小さな声でたしなめている。
 陽(ひ)が傾き始めて、海から吹き上げる風の冷たさが肌を刺し始めたところで、目的地に到着した。
 「さすが湯処のえべっさんやね。ええところにいてはるわ。えらい気持ち良さそうなお顔してはる」
 祠に安置されているえびす像は、上半身はふくよかな頬(ほお)に笑顔が弾(はじ)け、大きな耳たぶのおなじみの顔だ。だが、下半身は湯舟に浸(つ)かっているのだ。手には釣り竿を持ち、釣り糸の先には、大きな鯛(たい)がかかっている。しかも、湯舟には実際にお湯が湧いており、縁から溢れ出ていた。
 「気持ち良さそうやね」

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