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「コロナで社会は大きくは変わらない」 「100年に一度の危機」が度々訪れる時代にどう備えるべきか

「ポストコロナという言葉は使わない」という医療経済学者、二木立さん。「100年に一度の危機」が度々訪れる時代に、私たちはどのように備えるべきか伺いました。

新型コロナウイルスの流行で、大きな影響を受けた医療現場。

「100年に一度の危機」「ポストコロナ」「新しい生活様式」「ニューノーマル」と、世界が一変したかのような不安を感じるが、その見方は正しいのだろうか?

医療経済学や医療政策が専門の日本福祉大学名誉教授の二木立さんに歴史を踏まえた分析を伺った。

※インタビューは6月29日午後、対面で行い、その時点での情報に基づいている。

「治し、支える医療」に転換できるか

ーーーー「キュアからケアへの転換」等と主張して急性期医療の重要性を軽視する研究者に対し、先生はかねてから批判的です。今回の新型コロナの対応で、「治し、支える医療」への転換が求められていると強調されていますが、詳しく教えてください。

「これから高齢社会だから、治すより支える医療が重要だ」、「キュアからケアへの転換が必要だ」という主張が多く聞かれてきました。

でも、コロナという「生きるか死ぬか」の問題を前にして、治すことも避けて通れないことがはっきりしました。ケア一辺倒の主張は一気に説得力を失ったのです。

「治し、支える医療」への転換は私の個人的な主張ではないのです。

もともとは、「社会保障制度改革国民会議報告書」(2013年)で提起され、現在は政府・厚生労働省の公式方針になっています。2016年度の診療報酬改定の基本方針等でも用いられているし、「地域医療構想」もそれに沿って立てられています。

地域医療構想というと必要病床数の推計に目がいきがちですが、それとワンセットで介護施策や高齢者住宅を含めた在宅医療で対応する患者数の推計もしています。

厚生労働白書の2016年版にもこの「治し、支える医療」が地域包括ケアの説明として入っています。

医療・福祉関係者や慢性期医療を担う人の中には、「急性期はキュア(治療)だ。慢性期医療や終末期の段階ではケア(支える医療)だ」と、二項対立的に理解している人もいます。

しかし、治す医療と支える医療は、程度の差はあるものの、急性期でも慢性期でも、常に両方必要とされているものです。

救急医療などでは「治す」ことが全面に出ますが、支える医療も必要です。

逆に終末期も、「支えるケア」だけでいいかと言えばそうではありません。スウェーデンなど北欧ではこの段階では支えるケアだけになると思いますが、日本の場合は、必要な時に治療もすることが国民合意となっています。

「地域包括ケア研究会2015年度報告書」も、「人生の最終段階におけるケアのあり方を模索する」という項目で、「超高齢社会においては、(中略)人生の最終段階の医療や介護のあり方を含め、『治し・支える医療』が求められている」と、社会保障制度改革国民会議報告書を肯定的に引用しています。

ーー新型コロナの医療で考えると、「治し、支える」とはどういう医療のイメージになりますか?

当然、治す医療が全面に出ますけれども、新型コロナでの死者は今のところ、約1000人に留まっています。今、年間100万人が死ぬ時代です。急性期医療でも慢性期でも末期でも両方が大事ですが、コロナで「治す医療」が復権したと思います。

地域医療構想でも「治す医療の比重が減って、支える医療だ。治す医療はトコトン医療。支える医療はまあまあ医療だ」なんて議論がありました。

スウェーデンではコロナの前から80歳以上の高齢者、80歳未満でも合併症のある高齢患者はICUに入れない方針があります。大事なのはそれが国民合意であることです(※1)。

しかし、日本ではそんなことはしない。年齢で受けられる医療を変えたら、高齢者差別になります。新型コロナでもそういうことにはならなかったですね。

命の選別の議論 新型コロナで行うべきか?

ーーしかし、人工呼吸器をつける対象をどこまでにするかという議論はありました。若い人に人工呼吸器を譲るという意思表示書を作った医師もいました。命の選別の議論はあったと思います。

朝日新聞の6月23日の朝刊と夕刊に、そのテーマで正反対の二つの記事が載っていました(※2「(新型コロナ)障害者は問う、「命の選別」起きはしないか」(新型コロナ)医療のルール、事前に議論を ベッド不足、誰を優先するか 児玉聡・京都大准教授に聞く」)。

田中記者の記事では、イギリス等で命の選別を試みて反対が起きてやめたと報じていますが、スウェーデンはそれがコロナ以前から行われていることには触れていない。

今まで北欧の福祉は素晴らしいと日本では報道されてきましたが、日本の基準で見れば北欧の高齢者医療は手薄なのです。この記事を含め、そのことはほとんど報道されていません。

医療資源が足りなくなれば、命の選別に賛成か反対か議論しなければならないと言う人もいますが、大事なことを見落としています。すでにそういうことをやっている国があることを見ていないのが一つ。もう一つは、長期的に見れば医療資源を増やす対策もあることを見落としていることです。

今の医療資源が将来も固定していることを前提に議論していますが、少なくとも物的な技術、薬や医療機器についてはイノベーションもありますから、それらを増やすことは可能だし、しかも増やしても費用はそれほど増えない。その典型例が人工透析です。

人工透析は1950年代にアメリカで開発されました。当初は透析機器が希望する患者に比べてはるかに少ないという深刻な状況がありました。

そこでアメリカのある病院では覆面委員会を作って透析患者の候補を議論したのです。年齢や家族構成、社会経済的条件等を考慮して、どの人に人工透析をすべきか選別していくのです。

しかし、その後、透析がどんどん普及し、1972年からは公的医療保険(メディケア)の給付対象になったために、透析を受けられる患者は急増しました。その結果、そんな命の選別の問題は消えました。

一般論で言えば、命の選別の議論は常に起き得ますが、医療政策的に考えれば医療資源を増やす選択肢もあるし、それにより物的な技術の制約の問題は解決できるのです。

ーー政府の専門家会議もそうした議論をしておくべきだと提案していました。

でも国民的な議論にはなっていないですね。医療が崩壊したら議論になっていたと思います。幸いなことにギリギリでしのぎましたね。

欧米から見れば日本は高齢患者の天国です。90歳近い高齢者がECMO(体外式膜型人工肺)が足りないので、遠くの病院に搬送したという報道もありました。スウェーデンではあり得ない。それはいい悪いではありません。日本でも、スウェーデンでも国民がそれについて合意しているのです。

経産省主導内閣であることが明らかに

ーー第二次補正予算の問題点として、予備費支出の巨額さや積算根拠が不透明なこと、議論不足であることをまず指摘されています。電通丸投げ問題や「Go Toキャンペーン」の運営事務委託費が高額との批判を受けて委託延期された問題などを指摘され、経済産業省の関与を推測されています。これは政治のどのような思惑が働いたと考えられるでしょうか?

前回のインタビューで安倍内閣の「予防偏重」の政策が、経済産業省主導であることを指摘しました。

今回の補正予算の中身を見ても、安倍内閣が経産省主導内閣であることがますます明らかになったと言えます。

従来と異なり、財務省が土地払い下げの「森友問題」で権威を失墜し、予算の膨張にまったく歯止めをかけられなかったことが大きい。

経産省が他省の予算まで大幅に経産省の予算に組み込んだこともあります。「Go Toキャンペーン」は観光政策で、本来なら国土交通省の所管です。経産省が主導する官邸がアイディアを出したからといって、それを経産省の所管にしてしまったのです。

しかし、経産省は、国土交通省や厚生労働省などのように現業の事業役務を行う現業官庁ではないですから、都道府県に「手足」がほとんどない。そのために、その予算を自省だけで処理できないために、経産省と関係が深い企業「電通」や団体に丸投げせざるを得なかったことは、多くの新聞が報道しています。

ーー企業に対する利益誘導の可能性がありますね。感染対策の視点で見ると、どんどん旅行に行けという「Go Toキャンペーン」はメッセージが矛盾します。わかりにくいメッセージで戸惑うのですが、先生はそのバランスをどう見ますか?

どう見ても金額が多すぎますし、今やる話ではないですよね。ただし、観光業がものすごいダメージを受けているのは事実ですから、彼らの正当な要望で実現したことはわかります。

医療機関の経営が厳しいと言っていますが、医療機関の減収は10〜20%、多いところで30%の次元です。それに比べて観光業は壊滅状態ですね。医療の場合は受診抑制ですが、観光業や夜の街は需要蒸発です。

「Go To キャンペーン」を今の段階でやるべきか医学的判断はわかりません。でも、それがおかしいとも断定はできません。

ーーそこは政治的な判断ということですね。
下請けに丸投げする、委託費が高いという手続き上の問題や不透明さは確かにあります。

でも予算自体は100%無駄とは言えません。私を含めて医療関係者はどうしても医療のことだけに目が向きがちだけれども、生活困窮という面からするとずっと大きい話だと思います。

介護・障害・子供の3分野にも予算 なぜこれまで顧みられなかった?

ーー他方、第二次補正予算の「緊急包括支援交付金」では新たに介護・障害・子供の3分野も対象になり、6091億円が計上されたことを画期的だと評価されています。高齢者施設では集団感染も発生し、重症化リスクの高い人たちのため、感染防止に力を入れる必要性が高いですが、マスクなどの支援は医療現場よりも遅れていました。逆になぜ、こうした分野はこれまで顧みられてこなかったとお考えですか?

根本的理由は、介護・福祉労働者に対する国民の、あるいは医療従事者にもある過小評価と偏見・差別意識と思います。

この点については、大阪健康福祉短大教授の川口啓子さんが朝日新聞のインタビュー記事などで詳しく述べています(※3)。

もう一つは、医師会や病院団体などの医療団体に比べた、介護・福祉の業界・専門職団体や研究者の発信力のなさが影響していると思います。

ーーなぜなのでしょうね。

介護・福祉業界は「私たちはつらい」という発信は盛んにしていますが、具体的で理論的なエビデンスに基づく要求が苦手です。自分たちの主張を政治に結びつけることも弱いですね。

研究者が論文を書く雑誌も少ないのです。医学・医療系の雑誌はほとんどが月刊ですが、福祉系の雑誌は季刊か年報がほとんどです。

それにもかかわらず今回は、福祉3分野にもお金が出た。医師会や自民党も要求したのです。私はこれを高く評価しています。

コロナで社会は大きくは変わらない 「100年に一度」が度々訪れる時代

ーー医療従事者への感謝や評価の声が聞かれる一方、医療従事者や感染者への差別・偏見が横行し、「自粛警察」が跋扈しています。社会の分断が進んだと言われていますが、こうした問題は医療経済や医療政策にどのような影響を与えると考えられますか?

その問題には、医療経済や医療政策は何の関係もありません。

私が使わない言葉に、「ポストコロナ(コロナ以後)」があります。「ポストコロナ」ということは「ビフォアコロナ(コロナ以前)」もあるということですよね。

しかし、私はコロナ以前も以後も、社会はそんなに大きくは変わらないと思います。

この点で私が非常に共感したのが、毎日新聞に掲載されたオックスフォード大学のピーター・フランコパン教授のインタビューでした(※4)。

彼は、コロナをペストと比較するのは無理だと言っているのです。よく今回のコロナの被害をペストと比較する人がいますね。だから、コロナでも世の中や世界が変わるのだと言う人たちです。

しかし、死亡者の桁数がまったく違うじゃないですか。特に日本ではコロナの死亡者は1000人いくかいかないかです。しかもこの病気は8割は短期間で完全に治ります。後遺症が残る方はごく一部です。それで世の中は変わるのですか?

ーー社会生活には結構なインパクトをもたらしていますが。

「100年に一度」の被害と言われていますね。しかし、この十数年間に「100年に一度」は3回あったんですよ。

2008年のリーマンショックも100年に一度と言われました。それから2011年の東日本大震災は1000年に一度と言われました。その度に世の中が変わると言われてきたのです。

リーマンショックの時も、新自由主義的政策は見直され、「世界は変わるんだ」と言われました。私も、当時、「新自由主義的医療改革の復活はない」とうっかり書いちゃったんですよ(笑)(※5)。その反省があります。

東日本大震災でも今残っているのは反原発意識だけですよ。政府は原発を推進したくても、国民に意識が残っているから推進できないでしょう。

経営共創基盤代表取締役CEOの冨山和彦氏もこう述べています。

約10年おきに『100年に一度の危機』が起きる時代 …私たちはこの30年間、ほぼ10年おきに『100年に一度の危機』に遭遇している。原因はそれぞれに100年に一度くらいのレアな現象かもしれないが、それぞれが10年に一度くらいの頻度で大きな危機を招来し、その衝撃は時代が進むほど、即時的かつ世界的スケールになる傾向がある。(『コロナショック・サバイバル-日本経済復興計画』文藝春秋)

私は、今回のコロナ危機以前から、「100年に一度の危機」という、私から見ると逃げ口上に思える定番表現に強い疑問を感じています。

だから、将来生じる可能性がある様々な大災害(新たな感染症の発生、南海トラフ地震や首都直下型地震等の大地震、さらには富士山噴火等)にも迅速に対応する「医療安全保障」という視点を提起しています。

そのため、冨山氏の指摘に大いに共感しました。

それに対して、御厨貴さんという高名な政治学者は『中央公論』2011年5月号の「『戦後』が終わり、『災後』が始まる」で、こんなことを書いています。

(3・11は)「人智を超えたところで、人類とその文明に対する警告の意味があったととらえることができる」「戦後復興をも超える」「長かった『戦後』の時代がようやく終わり、『災後』とも呼ぶべき時代が始まる」「『3・11』からの復興はいわば神から与えられた課題であり、これに真剣に取り組まねばこの国は本当に滅んでしまうだろう。戦後社会は『最期』社会にもなりかねないことを認識し…」(中央公論「『戦後』が終わり、『災後』が始まる」)

私には、最近の「ポストコロナ」論はこの「災後」論のリバイバルに思えます。

100年に一度と言っても、そんな危機は10年単位で起こっているのです。これからもそうでしょう。

私も、希望・願望としては、コロナを機に今まの利潤優先の資本主義は変わるべきだと思いますが、今までの歴史を見ても「100年に一度」が頻繁に来ても、社会・物事は大きくは変わらないのだから、コロナ後も大きくは変わらないと経験則で思います。

「民度が高い」は不正確 平等を望む意識を弱い追い風に

ーー常々、公衆衛生はリベラルな価値観と相性が悪いと思ってきたのですが、行動制限や隔離、自粛要請など、まさに自由を制限する施策が強く打ち出され、窮屈な思いをしている人が多いと思います。社会防衛としてのこうした対策の必要性と、自由や人権とのバランスについて、先生はどのようにお考えですか?

「公衆衛生帝国主義」ですね。

私も、元リハビリテーション医として個々の患者を対象とする臨床医だったので、個々の患者を診ずに「集団」のみを論じるタイプの公衆衛生研究者は昔から嫌いです。

もちろん、岩永さんのインタビューにも登場した、橋本英樹さん(東京大学)のように、臨床経験もあり、臨床医学と公衆衛生の「二本立て」の優れた研究者は別です。

私は、「社会連帯(政策的には社会保障の機能強化)を重視する個人(自由)主義者」なので、今回の「外出を8割減らす」等の、根拠を示すことのない過度の自粛要請には強い疑問を持っています。

そのため、緊急事態宣言中も、外出は自粛せず、三密の予防とソーシャルディスタンシングを守った上で、日課の「速歩」(1日35分以上)と行きつけの喫茶店での新聞・雑誌読みを、毎日励行し、その喫茶店主に感謝されました。がら空きでしたからね。

その店の近くには大企業の事業所があり、コロナ以前は、昼休みのランチタイムにはそこの従業員であふれていたのです。その人たちがみんな自宅勤務になっちゃったので、潰れるのではないかと心配しました。しかし、今は、3か月ぶりでお客さんがたくさん来ています。

日本は欧米諸国と異なり、法律的な強制力や罰則を伴うロックダウンや自由の抑制は実施しませんでした。これは憲法に抵触するからだと思います。憲法の意味は大きかったと思います。

日本のコロナ対策について、安倍首相や麻生財務相は「日本モデル」がうまくいったとか「民度が高い」と誇っていますが、欧米と比べるからそう見えるだけです。

アジアの中で見ると、死亡率は日本はむしろ高めです。何が奏功したのかはわかりませんが、少なくとも「民度が高い」ことが理由ではないし言い過ぎです。

今の段階では「不思議だよね」という評価に留めるべきです。

ーー感染症対策をしている医師たちは日本の「同調圧力」が予防策の徹底に貢献したのではないかという見方を示しています。

少なくともアメリカの一部の州やヨーロッパの強制力からすれば緩いです。同調圧力かどうか。BCG説などもありますが、今の段階では「まだよくわからない」というのが一番誠実でしょう。

少なくとも「日本モデル」「民度が高い」と傲慢な国粋主義的な言い方はやめたほうがいいと思います。何が影響したかは今後検証する必要があるでしょう。

ーー日本は新型コロナでは健康格差が明らかになっていません。生活が苦しくて体を壊している人はいるかと思いますが、アメリカのように黒人層など医療にかかれない、肥満が多いなどの目に見えた健康格差は出ていないですね。

局所的にしか出ていないですね。民医連などが調べていますが、以前から、保険証がないなどで手遅れになったという事例のレベルではある。でもマスの統計では出てきません。

ただ、今回のコロナの問題でみんなが医療を受けられる体制が大事だということは国民全体に染み付いたでしょう。

そのために、今後は、貧富の差で受けられる医療を変える、国民皆保険前のようにお金持ちだけが高水準の医療を受けられるようにするなどということは誰も提起できないですよ。貧しい人も高齢者も高度な医療が受けられる。それを国民が支持したということです。

恐怖は一方で差別意識を生むけれども、逆に医療を平等に受けられる社会がいいという意識も強めたと思います。そういう意味でも「弱い追い風」は医療に吹き続けると思います。

【引用文献】

1.宮川絢子「スウェーデン新型コロナ『ソフト対策』の実態。現地の医師はこう例証する

2.「障害者は問う 『命の選別』おきはしないか」(田中陽子記者)、同日夕刊「ICUのベッドが不足 誰を優先するか-医療のルール 事前に準備を」(大内悟史記者)「朝日新聞」6月23日朝刊

3.川口啓子「介護者にリスペクトを 無意識の見下し 人手不足の背景に」(聞き手・浜田陽太郎記者)「朝日新聞」6月3日朝刊

4.ピーター・フランコパン「歴史的な大局観を ペストと比較無理」「毎日新聞」5月26日朝刊

5.二木立『医療改革と財源選択』勁草書房,2009,4頁。

【二木立(にき・りゅう)】日本福祉大学名誉教授

1947年生まれ。1972年、東京医科歯科大学医学部卒業。代々木病院リハビリテーション科科長、病棟医療部長、日本福祉大学社会福祉学部教授を経て、2013年日本福祉大学学長に。

2018年3月末、定年退職。『文化連情報』と『日本医事新報』に連載を続けており、毎月メールで配信する「二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター」は医療政策を論じる多くの官僚、学者、医療関係者が参考にしている。


著書は、『地域包括ケアと福祉改革』、『医療経済・政策学の探究』、『地域包括ケアと医療・ソーシャルワーク』(いずれも勁草書房)等、多数。近著に『コロナ危機後の医療改革』(勁草書房。9月刊行予定)。