ロシアで大勢が戦争を見て見ぬふりの1年、何が変わり何が変わっていないのか
アンドレイ・ゴリヤノフ、BBCロシア語

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ロシアの侵攻開始に至る数週間、私はモスクワ中心部のザモスクヴォレチイェを何時間も歩いた。ザモスクヴォレチイェには私の家とBBCのオフィスがあり、私がBBCで働くようになってから7年たっていた。
そこはモスクワ市内の閑静な地区で、私にとってはロシアの複雑な過去と現在が詰まっていた。
モスクワ市民はもう何世紀にもわたりザモスクヴォレチイェで家を建て、事業を始め、静かに生活してきた。支配者がもっと大きい舞台でもっと大きい野望を追求するのをよそに。そのような大きい舞台での大きい野望に、普通のロシア人がそもそも関われたためしがないからだ。
ザモスクヴォレチイェの片側にはモスクワ川が流れ、北側にはクレムリン宮殿が建つ。反対側には混雑するサドーヴォエ環状道路に沿ってスターリン時代の威圧的な集合住宅や、21世紀の高層ビルが居並ぶ。
細いまがりくねった道が迷路となって過去を呼び起こす。そこには教会や19世紀の貴族の邸宅が点在する。ボルシャヤ・オルディンカ通りの名前はさらに数百年さかのぼる、モンゴル=タタールに支配されていたころの名残だ。当時はモスクワの諸侯から年貢を集めに、使者がやってきていた。

昨年2月、ザモスクヴォレチイェにいた私のところへ、友人から電話があった。ウクライナ第二の都市ハルキウで生まれた彼は、モスクワで働いていた。
本当にプーチンはウクライナ相手に戦争を始めるつもりか。友人はそう尋ねた。お互いにそんなことは信じたくなかった。
しかし、ロシアの過去はしばしば容赦なく激しく暴力的で、その過去を連想させる遺物に囲まれた私は、戦争はもはや避けがたいと感じていた。私が近所を毎日散歩するのは、二度と元には戻れないひとつの世界、下手をすると決して元に戻れないひとつの国に、私なりに別れを告げていたからだ。

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これまでに数十万人のロシア人がロシアを離れた。私も、BBCロシア語の同僚たちもそうだ。しかし、ロシアにとどまる大多数にとって、表向きの生活はたいして変わっていない。
大都市では特にそうだ。
ザモスクヴォレチイェでは、店やカフェはまだほとんど開いている。会社や銀行も営業している。時代の先端を行っていたジャーナリストやITの専門家はもういないかもしれないが、その代わりをする人たちはいる。
買い物客は物価の上昇に文句を言うが、国産品が輸入品の代わりになったものもある。

書店にはまださまざまな本が並んでいる。ただし、不適切とみなされる本はビニールカバーがかかった状態で売られている。
かねて人気のカーシェア・サービスは今もあるが、車のほとんどは今では中国製だ。
世界的な経済制裁を科せられてはいるものの、ロシア経済はまだ1990年代のような破綻寸前の状態には至っていない。しかし、北アイルランド・ベルファストが拠点のロシア人研究者アレクサンドル・ティトフ氏が指摘するように、ロシアが危機の渦中にあることには違いない。

低温でくすぶり続ける危機だが、よくよく見れば、その兆候はあちこちに出ている。
ウクライナ国境に近く、攻撃で激しく破壊されたハルキウからわずか80キロにあるベルゴロドでは、軍用トラックが轟音(ごうおん)をたてて前線へと急ぐ様子に、住民はすっかり慣れてしまった。
ベルゴロドの住民の多くが、ハルキウに友人や親類がいた。その街をロシアが爆撃し続けるのが気がかりだとしても、ベルゴロドの人たちはそれを表に出さないようにしている。

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ベルゴロドでは、地元の知事が路上で開く楽しいお祭りに、大勢が集まったと友人が教えてくれた。
しかし、地元の医師たちはどんどんこの街を離れている。市内の病院に戦場から次々と送り込まれる負傷兵に、対応しきれないからだ。
国境に接する小さいシェベキノの町では、住民は見捨てられたと感じて怒っている。ここでは国境を越えた砲撃が、日常の現実となってしまったからだ。
シェベキノでは自分たちの暮らしがひっくり返ってしまったのに、サンクトペテルブルクに行ったら何も変わっていないことにショックを受けた家族もいる。
エストニアとラトヴィアの国境に近いプスコフでは、住民の表情は暗く、戦争など自分には関係ないことだと、誰もがそういうふりをしているのだと、現地の人に教わった。
プスコフは、第76親衛空挺師団の本拠地だ。キーウ郊外ブチャで戦争犯罪を繰り広げたとして悪名をはせた部隊だ。
ウクライナで戦死した兵士が埋葬される地元の墓地へと走る、バスの運行が始まっている。墓地では、戦死兵の墓が増え続けている。橋の下に誰かが大きい赤い文字で、「平和」と書いたのが見える。

フィンランド国境に近いペトロザフォドスクへ向かう電車に乗っていた友人は、10代の若者たちが「街の名前あて」ゲームで遊んでいるのを見た。
「ドネツク」と誰かが言う。それはロシアか、それともウクライナか。はっきりどちらだと言える若者はいない。自分たちの政府が占領し、違法に併合した街だ。
戦争のことはどう思う? 自分たちには関係ない。
ペトロザフォドスクは、厳しい過去の姿に戻ってしまったようだ。
戦争のことはどう思う? 自分たちには関係ない。棚は空っぽで、外国製品はなく、物の値段はとても払えないほど高い。

ロシア人は、自分の名のもとにウクライナで行われている残虐な行為を本当に支持しているのか。それとも、自分が生き延びるために、何も起きていないふりをしているのか。
断片的な印象や会話から、確かな結論を引き出すのは難しい。社会学者も世論調査の専門家も、ロシア国民の意見を推し量ろうとしてきたが、ロシアには言論の自由も情報の自由もないため、ロシアの人たちが正直に答えているか分かりようがない。
大多数のロシア人が戦争を支持しないまでも、反対していないのは確かだという結果が、複数の世論調査で示されている。
これについて、国外のロシア人たちは激しく議論している。私を含め、ロシアについて研究して報道する大勢は、積極的に戦争を支持する人が少数ながら一定数いると同様、積極的に戦争に反対する人も同じように少数だと考えている。
ほとんどの普通のロシア人は、どちらでもないようだ。自分が選んだわけではなく、理解できず、自分では変えられないと無力感に襲われるこの状況について、なんとか受け止めようとしている。
普通のロシア人がこの状況を食い止めることはできたのか? おそらく、できたのだろう。もっと大勢が自分の自由のために立ち上がっていたら。国営テレビが西側やウクライナの脅威を大げさにあおりたてるプロパガンダに、もっと大勢が反論していたら。
しかし、多くのロシア人は政治から距離を置き、決定権を政府にゆだねていた。
しかし、目立たないようにうつむいたままでいると、自分の倫理観と妥協することになりかねない。非常に不穏な形で。
この戦争が自分に直接関わってこないようにするには、ロシア人はこれは拡張主義の戦略戦争ではないと、そういう振りをしなくてはならない。ロシア政府が「特別軍事作戦」と呼ぶもので殺され負傷する何万人ものウクライナ人について、家を追われる何百万人ものウクライナ人について、ロシア人は目をつぶらなくてはならないのだ。

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兵士が学校を訪れ子供たちに、戦争は良いものだと教える。そのことを、ロシア人は受け入れなくてはならない。
聖職者が戦争を支持し、平和のために祈るのをやめるのは、普通のことだと受け入れなくてはならない。
自分たちがもはや旅行できないことや、広い世界の一部として活動できないことも、受け入れなくてはならない。
自分たちがそれまで読んでいた独立系メディアのサイトのほとんどを政府が閉ざしたのも、正しいことだと。
国会議員が処刑の映像をツイッターに投稿することや、その処刑の道具が大槌(つち)で、それが今ではロシアの威力を示すポジティブなシンボルになっていることも。
そして、地方議員だろうがジャーナリストだろうが、戦争をどう思うか発言したのを理由に何年も投獄されるのも、普通のことだと。

では、なぜロシア人は抗議しないのか。これは世論調査よりもロシアの歴史を見る方が説明がつく。
ウラジーミル・プーチン大統領は権力を握って以来、自分はロシアを再建し、再び世界に尊敬され重視される国に戻したいのだと、隠すことなく主張してきた。
演説や文章を通じて、ロシアは東洋と西洋をまたがる、世界でもユニークな立場にあるという考えをプーチン氏は示してきた。ロシアには独自の伝統と宗教と、やり方があると。ロシアには秩序と制御が必要で、ロシアは周囲から尊敬されなくてはならないと。

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この主張は何世紀にもわたって繰り返されてきたもので、異論は認めない。変化の余地もない。プーチン氏が好む柔道の用語を使うなら、この主張は締め技のようなものだ。
プーチン氏のこの世界観には代償が伴う。ロシア人は自由を失い、ウクライナ人はこのために命を落としている。
ロシアはこれまで、災難や大破局を経験した後に、自由の拡大を経験してきた。
1989年にアフガニスタンで敗退した後には、ゴルバチョフの時代が訪れた。1905年に日本相手に敗れた後には憲法が改正され、1856年にクリミア戦争で敗れた後には、農奴解放が実現した。
ほとんどの世論調査で繰り返される結果がある。それは、ほとんどのロシア人が戦争終結のための和平協議を支持するというものだ。ただし、独立国家・ウクライナにロシアがどういう保証を提供する用意があるのかは、はっきりしない。
しかし、遅かれ早かれ、はっきりさせる必要がある。そしてロシア人はいずれ、自分の国が何をしたのか、本当のことに直面しなくてはならない。