それまでに乗ったミウラとは全く別のクルマだった
ヴィンテージスポーツカーの総合ディーラーとして知られる「キャステルオート」代表の鞍 和彦さん。鞍さんは、1974年にシーサイドモーター(かつて横浜市に存在したランボルギーニやマセラティの日本総代理店)に入社したレジェンドだ。
痛快な逸話をたくさん持っていることでも知られているが、今回は数あるエピソードの中から第三京浜の往復を12分でやってのけたランボルギーニ・イオタレプリカ(※正確にはミウラ改だが、今回はイオタレプリカで統一)の話を語ってもらった。
入庫して初め知った“イオタ”の存在
「1976年、イオタ仕様になったネイビーブルーのミウラSVがシーサイドモーターに入ってきたころ、そもそもミウラの入庫数自体が少なかったですね。そういったこともあり、あのクルマはシーサイドモーターとして取り扱う初めてのイオタレプリカでした。当時は情報が少なかったので、ミウラならではのポップアップ式ヘッドライトが外され、固定式アクリルカバーの中に前照灯がある仕様をイオタと呼ぶということも入庫してきてから初めて知りました」
鞍さんに当時の印象を振り返っていただくと、ネイビーブルーのイオタレプリカよりも、それ以前に4~5台乗る機会があったミウラのデザインのほうがいいと思っていたようだ。カウンタック LP400を初めて見たときにも“変なカッコだな”というのが率直な感想だったという。
「当時、西ドイツにハーバート・ハーン(=フーベルト・ハーネ)という人が経営するランボルギーニの販売店があって、そこからイオタレプリカになったミウラSVを買わないか? という連絡がシーサイドモーターにあったのです。つまり、ネイビーブルーのイオタ仕様はランボルギーニが造ったのではなく、ハーンさんが自社で造ったクルマでした」
「イオタを熱望する裕福な顧客たちから自分もイオタが欲しいというオーダーが寄せられ、6台ぐらい製作されたといわれるミウラSVJではなく、ミウラのP400SVだったのです。ちなみに、いまミウラSVJは日本に2台ぐらいあるといわれていますね」
「オリジナルのイオタを造ったボブ・ウォレスさんは、晩年、アリゾナのフェニックスというところでワークショップをやっていましたが、たまたま近くでオークションがあったので訪ねて行って、会う機会がありました。時間が無かったので、残念ながらネイビーブルーのイオタレプリカについて話すことはできませんでしたが、もともとのボディカラーは青ではなく赤だったらしく、ハーンさんが改造したときにネイビーブルーになったそうです」
これまで乗ってきたミウラとはぜんぜん違う!
「私はシーサイドモーターで営業を担当し、トップセールスだったので、在庫車を自由に動かすことを許されていました。そこで、日本に来たネイビーブルーのイオタレプリカも走らせてみました。どのような走り方をするのか? 普通のミウラと比べて、どのぐらいの差があるのか?? といったことを走って確かめたいと思ったからです」
「高速の試運転は近くの第三京浜と決めていたので、ネイビーブルーのイオタレプリカで向かいました。横浜から港北インターにかけては緩い下り坂なのですが、あっという間に新幹線ぐらいのスピードが出ました」
「それ以前に乗っていたミウラは挙動が不安定で安心できず、100km/h以上のスピードを出す気にならなかったのですが、ネイビーブルーのイオタレプリカでは、なんのストレスもなくミウラの倍以上の速度で走ることができました。とにかく、足まわりが安定していましたね。走行後にサスペンションを確認したら特別なチューンが施された様子はなく、エンジンにも手を入れた感じはなくてノーマルでしたが、マフラーが直管で排気音がスゴかったです。1977年ごろの話です」
「スーパーカーブームのとき、徳間音工がスーパーカー・サウンド・シリーズというレコードを出していました。フェラーリ 365BB、ランボルギーニ カウンタック LP400、ミウラSV、ポルシェ 930ターボとともにランボルギーニ イオタの排気音もシングルレコード用として収録することになって、ネイビーブルーのイオタレプリカでふたたび第三京浜を走りました。交通量が多い昼間は走らせることができないので、夜中の2時か3時ぐらいに録音技師を助手席に乗せて第三京浜を走って、往復で12分。いまだに破れない記録です」