歴代社長
創業者(初代社長)・七村守
※読み方:ななむら・まもる
プロフィール
年 | 出来事 |
---|---|
1955年1月21日 | 大阪府生まれ。 |
1965年 | 10歳のときに父を亡くす。 |
1979年 | 山口大学経済学部を卒業 |
1979年 | リクルート入社。 リクルートでは、採用コンサルタントなどを務めた。 |
1981年 | 26歳のときに母を亡くす。 |
1989年 | 34歳で北関東支社長となる。 |
1990年10月 | 35歳でセプテーニを設立(独立開業)。初代社長に就任。 |
2001年8月 | ジャスダック(現:東証グロース市場)上場 |
2004年 | 社長(代表取締役)を退任し、会長(代表取締役)に就任。ただし、CEOの肩書きは継続した。 |
2006年10月 | 社名をセプテーニ・ホールディングスに変更(持ち株会社制に移行) |
2014年 | ダイレクトメール(DM)事業をゼンリンに売却 |
2014年12月 | 会長(代表取締役)を退任し、名誉会長に就任。 |
2020年 | 名誉会長を退任 |
創業物語
リクルートで営業マン
七村守氏は新卒でリクルートに入社。採用コンサルタントや営業を務めた。
優れた実績を続け、34歳で北関東支社長となった。
リクルートは、日本で最も多数の起業家を輩出している会社であり、七村氏もそうなった。
35歳で独立・起業
1990年10月、35歳で独立。セプテーニを設立した。
設立当時は「サブ・アンド・リミナル」という会社名だった。
リクルート出身の7人で始動
仲間7人でのスタートだった。いずれもリクルート出身者だった。
大学のサークルのようなノリだったという。
また、7人のうち、七村氏を含めて3人はリクルートで営業を担当していた。
リクルート時代には、この3人で15億円近くを売り上げていたという。
東京・代々木の小さなマンション
新会社は、小さなマンションの一室から始めた。
このマンションは、東京・代々木にあった。
1964年に建てられた古いマンションだった。
採用面接に来た人の中には、看板らしい看板もない玄関を見て、面接を受けずに帰った人もいたようだ。
創業時の誓い
創業時に2つの誓いを立てたという。
1つは、「同族経営にしない」こと。
もう一つは「10年以内に上場する」ことだった。
バブル時代、企業向け採用サポート事業
事業内容としては、まずは企業に対して、採用をサポートする業務を手掛けた。具体的には、コンサルティングなどを行った。
当時は、バブル経済が崩壊する直前だった。雇用市場は「売り手市場」だった。
優秀・有望な人材を確保するのがたいへんな時代だったのだ。
このため、企業は、採用に多額の費用を費やしていた。
創業した年の年末に、貯金の残高が7万円に
創業した年の年末に、会社の貯金の残高が7万円になるという事件が起きた。
創業時(10月)は3000万円あった現金が、激減していたのだ。
お金が急激に減っているという意識がなく、経理担当者に指摘されて気づいたという。
契約は順調に増えていたものの、入金予定はいずれも3~4か月後だったのが響いた。
「前金」で倒産危機を逃れる
そこで、年明け早々に、大口顧客に「前金払い」をお願いして回った。
その際、会社の通帳のコピーを持参したという。
ある医療機器メーカーが、訪問の翌々日、前金を振り込んでくれた。
その結果、倒産を逃れることができた。
成長物語
ダイレクトメール(DM)事業で成功
その後、ダイレクトメール(DM)の代行事業を手掛けた。
ダイレクト・メール(DM)とは、カタログやハガキを顧客に郵送で送り付ける商売である。
かつては各企業が自前で行っていたが、セプテーニは一括で「発送」などの業務を請け負うようにした。
これが大成功した。会社も急成長を遂げた。
セプテーニに社名変更
名前の由来
2000年3月に「サブ・アンド・リミナル」から「セプテーニ」へと社名変更した。
セプテーニはラテン語で『7つずつ』の意味。
創業メンバーが7人だったことに由来する。
7人でスタートした後、人数が増え、「7課」「7部門」へと発展した。
常に「7」という数字にこだわりを持ち続けた。
社是は「ひねらんかい」
セプテーニの社是は「ひねらんかい」。
これは、「知恵を出そう、工夫しよう」という関西弁である。
創業当時、人材も資金もなかった。出せるものは知恵や工夫だけだった。
この言葉をもじった「ひねらん課」という部署を開設した。
これは、新規事業を立ち上げる専門部署だった。
ひねらん課が、インターネット広告の事業を始めた。
それが後に主力事業になった。
ジャスダック(東証グロース市場)上場(2001年8月)
2001年8月9日、ジャスダック(JASDAQ、現:東証グロース市場)に新規上場(IPO)した。
上場前、七村守社長は32%の株式を持っていた。筆頭株主だった。
上場前の2000年9月期(連結)の売上高は50億円、経常利益は2億円だった。
上場まで7期連続増収増益を続けていた。
創業以来赤字決算はなかったという。
上場時点の従業員は61人。
上場で得た資金で、ネット広告事業を伸ばすことを意図していた。
上場時点の事業構成
売上高の9割はDM事業
上場時点ではダイレクト・メール(DM)が圧倒的な主力事業であり、売上高の9割を占めていた。
後に主力事業となるネット広告は、売り上げのごく一部に過ぎなかった。
当時の主な事業は以下の通り。
- DM事業(アウトソーシング事業)
- インターネット事業
- ITに特化した人材紹介事業
DM事業
基幹事業のDMビジネスでは、ダイレクトメール(DM)など発送物の代行業務を手掛けた。
このほか、テレマーケティングなども行った。
取引先は1600社だった。
そのうち30%は学校(大学、高校、専門学校)だった。
インターネット事業
インターネット事業は、電子メールを媒体とした広告代理店として業績を伸ばしていた。
また、インターネット広告は粗利益率が高かった。
伸び率も高く、年「40~50%程度の利益成長が見込まれる」(七村社長)という状態だった。
上場で得た資金は、ネット分野での企業買収や出資に活用するとした。
上場時点の会社の状況
事業内容 | ダイレクトメールなど発送物の発送代行、インターネット広告代理、人材紹介・再就職支援 |
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従業員 | 61人 |
社長 | 七村守氏 |
資本金 | 4億1250万円(上場時) |
発行済み株式数 | 8710株(上場時) |
筆頭株主 | 七村守(上場前32%) |
額面・売買単位 | 無額面・1株 |
公募株式数 | 1000株 |
売出株式数 | 500株 |
仮条件価格 | 32万円~38万円 |
主幹事証券 | 新光証券 |
証券コード | 4293 |
本社 | 東京都新宿区西新宿2の6の1 |
上場後
ネットビジネスが主力に
上場後、セプテーニはネットビジネスが主力になった。
具体的には、以下の2点が柱となった。
- ネット広告代理店
- インターネットを活用した販売促進(マーケティング)
インターネット・マーケティング分野
インターネット・マーケティング分野では、以下の業務を行った。
- 広告の提案
- 広告の効果測定
効果をふまえて広告の再提案をするというサイクルを繰り返し行った。それによって、広告効果を高めていった。
技術開発
また、当初は、自社で技術力を高めようとしていた。
単なる広告営業ではなく、「広告効果測定ツール」「経路分析ツール」を開発していてた。
「アフィリエイト(成果報酬型広告)エンジン」も自社で開発した。
日本初のリスティング自動入札システム
さらに、日本で初めてリスティング広告(検索キーワード連動型広告)の「自動入札システム」を開発した。
リスティング広告は、キーワードのクリック単価と表示順位が入札で決まる。
セプテーニの入札システムは、広告主があらかじめ希望の広告順位とクリック単価の上限を設定できた。
単価変動に伴うコスト管理が効率的に行えるようになった。
安定的な広告掲載も可能となった。
中小企業向けにカスタマイズし、割安な価格で提供する「ビッドマスター」も提供した。
インシップ広告
また、セプテーニはインシップ広告も手掛けた。
社内にインシップ広告を専門に扱う「クロスメディア部」があった。
インシップ広告とは
インシップ広告とは、カタログ、チラシ、サンプルといった商品の広告を、別の商品やカタログに同封すること。
新規顧客や見込み顧客の開拓に適しているという。
新聞・雑誌などの「紙媒体」を利用したアフィリエイト
これに先立ち、セプテーニは2006年、新聞・雑誌などの「紙媒体」を利用したアフィリエイトサービス(成果報酬型広告)も開発した。
この技術をもとに、新しい広告サービス「X-Style(クロススタイル)」を販売していた。
アフィリエイトとは
アフィリエイトとは、成果報酬型広告である。
英語で「提携する」を意味する。
WEBサイト上に広告を表示し、そこから商品の販売に成功した場合に、広告主からサイト運営者に成果報酬が支払われる仕組みだ。
セプテーニのような広告代理店は、サイト運営者と広告主を仲介する。
その仲介業者のことを「アフィリエイト・サービス・プロバイダー(ASP)」という。
新聞・雑誌などの「紙媒体」と組み合わせる
セプテーニは当時、ASPとして自前の広告網を構築していた。
また、子会社セプテーニ・クロスゲート(当時:セプテーニ・コマース&テクノロジー)が、独自のアフィリエイトプログラム「ECMax」を提供していた。
これをふまえ、新聞・雑誌などの「紙媒体」とアフィリエイトを組み合わせた広告プランを、広告主に提案することになった。
料金は、初期設定費用が5万円で、毎月の管理費が3万円。新聞社や出版社は、専用の管理画面でいつでも広告の成果を簡単に確認できた。
七村氏の著書
『経営も人生も「ひねらんかい」~セプテーニ70のルール』
2代目社長:野村宗芳
(2004年就任)
野村宗芳(むねよし)は、創業者・七村守氏の後継者として、2004年に社長に就任した。46歳だった。宮崎県出身。
CEOは七村氏のまま
とはいえ、七村氏は会長に退いたとはいえ、依然としてCEOだった。代表権も維持した。
同時に、野村社長も代表権を得た。野村氏の肩書きは「CFO代表取締役社長」だった。
すなわち、代表取締役が2人となった。
1998年に転職
野村氏がセプテーニに入社したのは1998年だった。
勤務先のベンチャー企業が倒産
それ以前は別のベンチャー企業で役員をしていた。
しかし、そのベンチャー企業が倒産した。
その会社で付き合いのあった公認会計士の紹介で、セプテーニの入社面接を受けた。
入社面接で反感
面接で攻撃的な質問をする七村社長に反発を感じた。
当時のセプテーニの主力事業だったダイレクトメールにも、それほど魅力を感じているわけではなかった。
だが、再度話をしたとき、もうけを独り占めせずに一般社員にも報いようとする姿勢に好感を持った。
「まじめに経営を考える人だ」と考え直したという。
経理課長代理からスタート
入社後は、経理課長代理からのスタートだった。
入社から2年足らずで取締役となった。
口コミの新会社「バズマーケティング」を設立
野村社長時代の2007年、セプテーニは、口コミを利用したマーケティング支援会社「バズマーケティング」(東京都新宿区)を設立した。
口コミポータルサイトを手掛けるアライドアーキテクツ(東京都渋谷区)との共同出資による新会社だった。 2007年5月1日に営業を開始した。
当時、インターネットマーケティング業界では、口コミを利用したマーケティングへの注目度が高まっていた。
ブログやSNSを活用
その背景には、ブログやSNSの急速な普及があった。
新会社は、口コミの発信力・影響力の強い個人ブロガーのネットワーク化を推進することとなった。
提携相手のアライドアーキテクツとは
「バズマーケティング」を共同で設立したパートナーである「アライドアーキテクツ」はジャスダック上場企業だった。
集合知を利用した口コミポータルサイト作成ツール「edita(エディタ)」を個人向けに提供していた。
約1万2000の口コミメディア(2007年3月時点)を運営していた。
資本金3000万円。折半出資
新会社の資本金は3000万円だった。
出資比率はセプテーニが50.3%、アライドアーキテクツが49.0%だった。
社長には、アライドアーキテクツ取締役の瀧口和宏氏が就任した。
3代目社長:佐藤光紀(こうき)
(2009年就任)
佐藤光紀(こうき)は、セプテーニの3代目社長。2009年に就任した。
1996年、29歳で入社
佐藤氏は1996年にセプテーニに入社した。29歳だった。
すぐにトップ営業マンに
入社1年目に、DM(ダイレクト・メール)事業でいきなり約4億円を稼ぎ出し、トップ営業マンになった。
しかし、入社2年目には「DM事業だけでは成長に限界がある」と感じるようになった。
DM事業は、ニッチなビジネスにしか思えなかった。
「売上高100億円、1000億円の企業になるには、新規事業の立ち上げしかない」と考えた。
七村守社長に「DMは飽きた」と直訴
創業者で当時社長だった七村守さんに、その考えをぶつけた。
「今の仕事に飽きました。他の仕事をやらせてください」
七村さん自身もサラリーマン時代、同じ思いを抱いたことは1度や2度ではなかったという。
これまでにも優秀だった社員が「仕事に飽きた」と何人も去っていった苦い経験もあった。
「ひねらん課」の第一号社員に
1999年、当時の七村社長はセプテーニ社内に「ひねらん課」を設置した。
新規事業のアイデアをひねり出すための専門部署だった。
セプテーニの社是は、関西弁で「知恵やアイデアを出せ」を意味する「ひねらんかい」だ。それをもじった。
この部署に、佐藤氏を配属した。メンバーは1人だけだった。
入社3年目
佐藤氏は当時入社3年目。
トップ営業マンとして実績を出し続けていた。
そもそも、佐藤氏を念頭に置いてつくった部署でもあった。
七村さんにとって迷いがなかったわけではなかった。「トップ営業マンが欠ければ、その分の売り上げは減ってしまう」
しかし、自分自身に言い聞かせた。「佐藤氏に辞められてしまえば同じこと。優秀な人間を伸ばす環境をつくる方が先決だ」
半年で50のアイデア
佐藤氏に対して「遊ぼうが何をしようが構わない。半年後に新規事業案に関するプレゼンテーションをしてもらう」と伝えた。
佐藤氏は本や資料などを読みあさり、思いついたアイデアをA4の紙に書きなぐった。そんな日々を半年間続けた。
シロアリ駆除やコーヒースタンドチェーンなど、アイデアは約50にのぼった。
ネット広告参入へ
数々のアイデアの中から、新規事業はインターネット広告に絞り込まれた。
急成長が見込めるとともに、広告代理業は学生の人気業種だったことも理由だった。
専務兼COOに抜擢
新事業は立ち上げからわずか5年で全社売上高の約63%を占めるまでの中核事業になった。
この実績を買われ、佐藤さんは専務兼COO(最高執行責任者)に抜擢(ばってき)された。
電通のグループ会社に
佐藤社長時代の2018年、セプテーニは電通からの出資を受けた。電通が20%出資する筆頭株主となった。電通の連結子会社となった。
TOBで株買い集め
出資は、電通がTOB(株式公開買い付け)を行い、株を買い集める形で行われた。
1株260円
セプテーニは、TOBへの賛同を表明した。TOB価格は1株260円だった。
電通の出資により、競合他社と比べ出遅れたブランディング広告などの強化が期待された。
DACHDのような上場廃止にはならず
当時、ネット広告企業を巡っては、DACHDが博報堂DYHDによって完全子会社化された。DACHDは2018年10月26日付で上場廃止となった。
しかし、セプテーニは「上場廃止するつもりはない」と明言した。