独立行政法人 産業技術総合研究所【理事長 野間口 有】(以下「産総研」という)脳神経情報研究部門【研究部門長 久保 泰】ニューロテクノロジー研究グループ 長谷川 良平 研究グループ長は、重度運動障害者の自立支援に向けて、頭皮上の脳波を測定して脳内意思を解読し、意思伝達を行う装置「ニューロコミュニケーター」を開発した。
筋萎縮性側索硬化症などの疾患によって発話や書字が難しくなると、他者とのコミュニケーション機能が低下し、社会生活が困難になるケースがある。今回開発した装置は、超小型モバイル脳波計と、高速・高精度の脳内意思解読アルゴリズム、さらに効率的な意思伝達アプリケーションを統合した、実用的ブレイン-マシン インターフェース(BMI)システムである。本システムによって、重度運動障害者の自立支援、さらには脳情報を活用する新産業創出に貢献できるものと期待される。
本技術の詳細は、2010年4月16日に秋葉原コンベンションホール(東京都千代田区)で開催される産総研ライフサイエンス分野シンポジウム「第3期の新展開と幹細胞工学新研究センターの発足」で発表される。
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図1 今回開発したブレイン-マシンインターフェース(BMI)システムの概要 |
高齢化と核家族化の進む日本では、疾病構造やライフスタイルの変化に伴うさまざまな問題が深刻化している。高齢化による身体機能の全般的低下に加えて、脳卒中などにより脳機能に障害が発生する場合や、脳自体に問題はなくとも、交通事故等による脊髄(せきずい)や末梢(まっしょう)神経、身体各部へのダメージによって、結果的に脳機能が十分働かないといった症例もある。その中でも特に、発話や書字などが困難な状態となった場合、自らの意思を発する手段がないため社会的に孤立する傾向があるだけでなく、時に生命に危険が及ぶ状況に陥る可能性もある。しかしながら、従来の意思伝達支援技術は主に軽度な患者が対象であり、重度の患者が対象であっても非常に高価で大掛かりな装置が必要な場合が多かった。このようなことから患者の「生活の質」そのものを向上させる新技術が切望されている。
近年、「脳を理解する」ための脳科学研究(ニューロサイエンス)の成果に基づき、「脳を活用する」ためのさまざまな技術である、ニューロテクノロジーの開発が盛んに行われている。特に注目されているのは、脳と外部機器との直接入出力を行う「ブレイン-マシン インターフェース(BMI)」技術である。このBMI技術を用い、脳から直接読み取った信号をもとにロボットアームやコンピューターカーソルを動かす技術に関する研究が10年ほど前から欧米先進国を中心として始まり、国内でも類似の研究が盛んになりつつある。このBMI技術は、脳機能や身体機能に障害のある患者の治療や、ハンディキャップをもつ人の生活の質を向上させる技術として期待されている。しかし、BMI技術の多くはいまだ研究開発段階にあり、装置も使用法も複雑であり、実用的なアプリケーションの開発も遅れている。産総研では意思決定などの認知的情報を解読し、外部機器を制御する認知型BMI技術を実用化するための研究開発を行っている。なお、本研究開発は、厚生労働省の平成21年度障害者保健福祉推進事業「障害者自立支援機器等研究開発プロジェクト」による支援を受けて行ったものである。
今回開発したニューロコミュニケーターは、意思伝達機能に重度の障害をもつ人が他者と円滑なコミュニケーションをとれるように、頭皮上の脳波を測定し、脳内意思を解読して意思伝達を行うシステムであり、認知形BMI技術を駆使して開発された。このシステムは、具体的には以下の3つのコア技術を組み合わせたものである。
コア技術の1つ目に「モバイル脳波計の開発」がある(図2)。意思伝達支援が必要な障害者が快適に装置を使ったり、外出先にも装置を持ち出したりするためには、モバイル性の高い脳波計が必要である。今回、携帯電話の半分以下の大きさで、8チャンネルの頭皮上脳波を計測できる超小型無線脳波計を開発した。BMIに組み込み、実用化を目指す装置としては世界最小レベルであり、かつ将来の量産化を見込んで設計している。ただし、ケーブルが長いと、視野を遮ったり首に絡まったりする危険があるほか、ノイズが乗りやすく脳波計の性能が十分発揮されないことも指摘されていた。われわれが開発した脳波計は小型かつ無線方式なので、ヘッドキャップに直接取り付けることができ、ユーザーの動きを制約せず、ノイズも乗りにくい。また、既存の脳波計は大型で家庭用電源が必要だが、本装置はコイン電池で長時間稼働するため、外出先でも使用可能である。
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図2 モバイル脳波計 |
コア技術の2つ目は、「高速・高精度の脳内意思解読アルゴリズム」である。脳波で文字や図形を1つずつ入力する従来のシステムでは、PC画面上に並べて提示されている選択肢の属性(明るさや形など)を一瞬だけ変化させることを、擬似ランダムに何度か繰り返す。そして、視覚刺激の変化によるP300誘発脳波の反応の強さの違いによってユーザーの選択を予測・推測するという手法をしばしば用いている。その際、提示回数を増やすと予測精度が高くなるが、時間がかかる。逆に提示回数を少なくすると予測に要する時間が短くなるが、精度が悪くなるという問題があった。今回、脳内意思決定の時間的変化を定量化するために独自に開発していた「仮想意思決定関数」を活用し、高速かつ高精度で予測を行うことに成功した。これまでのところ、1回の選択に2~3秒という早さで90 %以上の予測精度を実現している。
コア技術の3つ目は、「効率的な意思伝達支援メニュー」である。脳活動に着目した従来の意思伝達装置はメッセージの種類が少ないことや、メッセージを作るまでの時間が長いなどの問題があった。われわれはこの問題を解決するために、少ない操作回数で多様なメッセージを作成することができる「階層的メッセージ生成システム(図3)」を開発した。このシステムではユーザーは、タッチパネル画面に提示された8種類のピクトグラム(非常口や車イスなどさまざまな事象を単純な絵にした絵文字)の中から伝えたいメッセージと関連のあるものを1つ選ぶ、という作業を3回連続で行う。それら3つのピクトグラムの組み合わせ(8の3乗)で最大512種類のメッセージを作成することができる。このシステムにおいて、選択肢のピクトグラムを擬似ランダムにフラッシュしてP300脳波を誘発する機能を付加することによって、タッチパネル操作だけでなく脳波によっても入力できるように改変した。
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図3 階層的メッセージ生成システムの例 |
これらの3つのコア技術を統合することで実用的なBMIシステムである「ニューロコミュニケーター」を実現した。
現在、進行している厚生労働省のプロジェクトでは、学校法人 日本大学医学部(研究分担者:深谷 親 准教授)と共同で在宅の障害者や入院患者への臨床応用も検討している。また、判別しやすい脳波を誘発する視覚刺激の提示方法に関しても、国立大学法人 豊橋技術科学大学エレクトロニクス先端融合研究センター(研究分担者:南 哲人 特任准教授)と共同で研究を行っている。
今後、パーツの選択や製造工程などを見直して最終的には10万円以下(パソコンを除く)の製品として、2~3年後をめどに実用化を目指す予定である。本課題で開発予定の脳波計および解析システムは、脳波に着目した家庭での健康管理や、教育やスポーツ分野におけるニューロフィードバックシステムの導入、ニューロマーケティング分野におけるフィールド調査の促進など、さまざまな経済効果や新規市場開拓効果が見込まれる。