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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-12-14

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・「磨かぬ鏡(みがかぬかがみ)」は回文である。
 鏡のように、向こう側の文字が写ってると思うと、
 回文のお手本のようなものだったなぁと感心する。

 昨日、ジムでトレーニングしているときね、
 やっぱり鏡が目の前にあったほうがやりやすいと思った。
 じぶんの身体がこんなかたちになっているのかとか、
 どこの部分を刺激する運動なのかとか、
 目で見ることでわかるものがある。
 で、ふと思ったわけですよ。
 「トレーニングルームの壁いっぱいの大きな鏡、
 いつもきれいに磨かれているものだなぁ」ということを。
 このジムのだれかが、いつもきれいにしているわけだ。
 トレーナーの教える技術はもちろん大事なのだけれど、
 いま見ている、この鏡が汚れているというだけのことで、
 ぼくらのやる気はそうとうに下がってしまうだろう。
 じぶんが片足立ちでゆっくり前屈して…とかやってるのが、
 曇って汚れた鏡の向こうに写っていたとしたら、
 その動きも、姿も、すっかり汚れたものに見えるだろう。
 じぶんに誇りが持てない、安っぽく思えるにちがいない。
 これ、読んでいる人は「まさか、そんなには」と
 感じるかもしれないけれど、いやいや、そんなになのだ。
 こう言ってはなんだけど「汚ねぇ鏡にぼやっと俺が見える」
 という状況は、きっとトレーニングをいい加減にさせる。
 ジムの運営にとって「鏡をいつもきれいに」というのは、
 基礎であり絶対の条件なのだと思った。
 鏡が汚く汚れていたら、ジムも安っぽくなるし、
 トレーナーもゲストも誇りある人たちには見えないだろう。

 鏡のなかにあるのは、わたしから見える現実そのものだ。
 そして、その現実のなかにわたしがいる。
 鏡のなかこそが、現実以上にわたしにとっての現実なのだ。
 わぁお、すっげぇなぁ。
 鏡を見ている「わたし」は、鏡のなかのじぶんにとっての
 プロデューサーであり共同経営者だ。
 どれだけ鏡が役に立つか、たぶん、
 ダンスをやっている人とか、スポーツをやっている人は、
 よく知っているのではないだろうか。
 来週になったら、「ほぼ日」にもっと鏡をつけようと、
 社内会議で提案しよう、ここにも書いちゃったけど。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あ、昨日の「自分を愛せ」の続きにもなるような話題でした。


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