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特集:201301 2012-2013年の都市・建築・言葉 アンケート<戸田穣
2012年は『近代日本建築学発達史』
戦後において「近代建築」が現代の建築を生きるうえでの重要課題であったことは、これまでにも指摘されてきた 。1959年に稲垣栄三(1926-2001)の『日本の近代建築──その成立過程』と村松貞次郎(1924-1997)の『日本建築技術史』とが出版されたわけだが、両者はあらたに建築通史の筆を起こすにあたり技術と生産を軸に立てた。稲垣は日本建築の近代化を多様な相のもとにとらえたが、村松もその後の『日本科学技術史大系 第17巻 建築技術』(1964)で建築を成り立たせる要素として様式と技術(あるいは精神と物)の二元論を立て、両者の相克として日本近代建築史をとらえている。昨今、建築技術史の長きにわたる不在を指摘する声も時に耳にするが、幕末から明治期にかけての技術導入に比べて、戦後、建築に係る技術の発展は速度を増し、多様なものとなった。それをどうとらえるかは今後の大きな課題であろう。戦後建築史が、都市史とともに生産史の上に置かれるべきことは論を俟たないが、もうひとつ学問史にも可能性があるように思われる。『近代日本建築学発達史』は、村松の『日本科学技術史大系』をひとつのきっかけとして編まれたわけだが、実践としての技術に対して、工学が技術の認識の枠組みであるとすれば、その枠組みこそを歴史的に問う動きはすでにはじまっている。さしあたって都市計画学と建築計画学が先行しているような印象をもっているが、個人的な課題としては建築生産につながる建築構法の軌跡をいま考えているところである。
それにしても、村松貞次郎著作集が編まれないものだろうか。再刊もされているとはいえ、やはりまとまっていて欲しい。1959年に『日本建築技術史』、1964年に『日本科学技術史体系 建築技術』を上梓した村松は、翌年『日本近代建築史ノート』『日本建築家山脈』を出版した後、『近代日本建築学発達史』を経て、1976年『日本近代建築技術史』、1977年『日本近代建築の歴史』、同年の新建築増刊『日本近代建築史再考 虚構の崩壊』と、日本近代の成立・発展・崩壊の年代記作者を自任するかのようにであるが、さらに対象も地理も拡大して、『日本近代建築総覧』(1980)、やがてアジアに展開する布置を形成した。稲垣がアカデミックに身を持したのに対して、村松は時宜に応じてジャーナリスティックであり、運動においてアクティヴであり、ある種のアンチ・モダニストでもあった。書籍としてまとまっていない文章も多い。解説も読みたい。出版社がまたがるので難しいのかもしれない。学統に連なる方々に期待したい。
2012年アンケートに昔の話を持ち出したのは、わたくしなりのタイミングではあったのだが、改まって問われてみれば、2012年をうまく思いだせないということに思い至ったからで、いくぶんかは金沢と東京・関西とのあいだの距離と時間の隔たりのせいにしたいとはいえ、やはり感度が鈍いと言わざるをえない。なにか内面の問題とも思えるけれどいまは掘り返さないことにする。
仕事以外で上京する機会はめったにないが、今年の夏には濱口竜介レトロスペクティヴ に照準を合わせ上京した。濱口監督が東北を撮影した『なみのおと』の上映には間に合わなかったが、『親密さ』をオーディトリウム渋谷でみることができた。劇団を舞台に4時間を超える上映は、観客にとっては会場の空調能力の限界を皮膚に感じる持続であったが、それは中心にある二人の男女の心理に寄り添うに必要な時間であって、対向車が脇を走り過ぎていく歩道を二人が歩いて行く夜に始まり、やがて橋にかかり、渡るうちに明けていく未明から朝へのグラデーションのなかで気づけば二人が手をつないでいるワンシーン・ワンショット。この長回しを支える橋が、二人の歩く速度で背景を流れていく。まるで生きているようだった。
- 『親密さ』予告編