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次世代中国 一歩先の大市場を読む

中国版GPS「北斗」の完成で加速する「万物互聯」(IoE)
激変する「中国的統治」のしくみ

 すべてのモノやヒトがインターネットにつながる時代を見据え、精度の高い位置情報の重要性が高まっている。この面で昨今、中国の進化ぶりが著しい。

 中国版GPSとも称される「北斗」衛星測位システムの完成で、高度な位置情報を活用したさまざまなサービスが各地で続々と立ち上がり始めた。IoT(Internet of Things=モノのインターネット、中国語で「物聯網」)の時代から、IoE (Internet of Everything=すべてのインターネット、同「万物互聯」)へと向けた動きが加速している。

 この新たなインフラによって政府の社会管理をはじめ民間企業、個人の業務効率は飛躍的に上がるだろう。さらに言えば、国の統治の仕組みそのものの根幹が激変する可能性もある。今回はそういう話をしたい。

田中 信彦 氏

BHCC(Brighton Human Capital Consulting Co, Ltd. Beijing)パートナー。亜細亜大学大学院アジア・国際経営戦略研究科(MBA)講師(非常勤)。前リクルート ワークス研究所客員研究員

1983年早稲田大学政治経済学部卒。新聞社を経て、90年代初頭から中国での人事マネジメント領域で執筆、コンサルティング活動に従事。(株)リクルート中国プロジェクト、ファーストリテイリング中国事業などに参画。上海と東京を拠点に大手企業等のコンサルタント、アドバイザーとして活躍している。近著に「スッキリ中国論 スジの日本、量の中国」(日経BP社)。

iPhoneも「北斗」対応チップ搭載開始

 「すべてのインターネット」実現には精度の高い位置情報が不可欠である。そして、そこでは米国のGPSに代表される衛星測位システム(GNSS)が決定的に重要な役割を果す。中国は2020年6月、20年以上前から独自開発してきたGNSS「北斗(Beidou)」の最終の衛星となる55機目の打ち上げに成功。7月末、当初の計画より半年早く、世界に向けて正式サービスの開始を宣言した。グローバルな本格的GNSSという意味では、GPS、ロシアの GLONASS(グロナス)に次ぎ3番目になる。

 公式の発表では、定位精度は北米や欧州、アフリカなどでは5m、アジアでは2.5~3.0mで、「完全にGPSに匹敵し、部分的には超越している」という。同年10月には「北斗定位2.0版」へのバージョンアップで定位精度は1.2mに向上、車載用など専用アンテナを用いれば数十㎝単位まで高まったとされる。GPS同様、世界中で誰でも無料で利用可能で、「Beidou」の衛星信号を受信可能な端末があればそのまま使える。

 中国政府は以前から国内のスマートフォン(以下スマホ)メーカーには「北斗」の信号が受信可能なチップの搭載を要求してきたが、iPhoneは中国国内で販売されるモデルでも「北斗」の受信機能は搭載していなかった。しかし20年10月に発表されたiPhone 12からは対応チップの搭載に踏み切り、「北斗」は名実共に「世界標準」の一角を占めることになった。中国では「我々は勝った」「中国の実力を世界に知らしめた」などと若い世代を中心に世論は一時、大いに沸き立った。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

「すべてがインターネットにつながる時代」のインフラ

 そして、この「北斗」計画の進展と歩調を合わせ、「北斗」が発信する情報を、実際の社会で活用しやすい形に加工し、一種の社会インフラとして提供する企業が誕生し、着実に存在感を高めている。

 その代表的な存在が、アリババグループと巨大国有企業「中国兵器工業集団(CNIGC)」の合弁で2015年に設立された「千尋位置網絡(Qianxun Spatial Intelligence Inc.)」(以下「千尋」と表記)である。アリババと国有の軍需産業という異色の組み合わせが設立当時、大きな話題となった。先端技術であると同時に、国家的な戦略性が極めて高い衛星測位システムの性格を端的に表した組み合わせといえる。

 「千尋」が提供するのは、前述のように「利用しやすい形に加工された高精度の位置情報」である。いわば衛星測位システムと実際の用途(アプリケーション)の中間に存在する「中継ぎ役」、パソコンで言えばOS(基本ソフト)のようなものといえる。

 「北斗」やGPSなどの衛星による測位システムは、その精度は日々向上してはいるものの、実際の使用時には数m~数十m単位の誤差が頻繁に生じる。このことは私たちがスマホの地図アプリやカーナビなどの使用で日常的に経験することだ。それでも便利には違いないが、クルマの自動運転やドローンの操縦、農作業における農業機械の使用、さらに緻密な操作が必要な産業用の用途などでは、さらに精度の高い安定した情報が求められる。

 このような必要に応えて、衛星からの情報の精度を、さまざまな技術でセンチメートル単位に高め、位置情報を補正、増強して配信するのが「千尋」の役割である。すでに商業サービスとして1~2㎝の精度を実現している。

 そこには単に正確さを補正するだけでなく、エンドユーザーが高度な知識を持たなくても、同社と契約すればすぐに高精度の位置情報を低価格で使えるようにすることも含む。そのようなサービスを商品化し、全国規模で展開している。

 衛星からの位置情報の補正に使われているのはRTK(Real Time Kinematic)測位と呼ばれる方法で、地上にあらかじめ固定の基地局を設置しておき、そこと自身の持つ端末(移動局)の間で情報をリアルタイムにやりとりすることで高精度での測位を可能にする。つまり、自分のスマホやドローンなどの端末で直接、衛星からの信号を受信することもできるが、それでは精度が足りないので、まず地上に基地局をたくさんつくっておいて、端末は最寄りの基地局とやり取りしながら、より精度の高い位置情報を取得する――ということである。

 こうしたサービスは日本の大手携帯電話会社も2019年頃から提供を始めているが、その構想の壮大さや展開規模において「千尋」は大きく先行している。

「社会の心電図」を目指す「崑崙鏡(Mirror of Kunlun)」プロジェクト

 2020年11月、四川省成都市で開かれた第11回中国衛星導航年会で同社は「崑崙鏡(Mirror of Kunlun)」と呼ぶプロジェクトへの着手を発表し、注目を集めた。「崑崙鏡」プロジェクトとは、「北斗」からの位置情報を「すべてのインターネット」を通じて社会全体のインフラとして活用し、「社会の心電図になる」ことを目指すという野心的な構想だ。

 「崑崙鏡」とは、中国古代神話に登場する十大神器のひとつで、自由自在に時空を超えて行き来する魔力を持つ鏡のこと。急速に進化するデジタル社会の激流の中、デジタル空間と物理空間をひとつにし、すべてのモノやヒトをつなげる意味が込められている。

 その目指すところは、ひとつの都市空間において「いま、どこで、何が起こっているのか」が一枚の地図を見るように、手に取るように把握できるようにするところにある。「社会の心電図」とはそういう意味である。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

 同社自身の説明によれば「大規模な範囲で時空(時間と位置)を測定し、多くの参加者が広い地域で同期して作業できるような位置情報、高精度の地図情報を提供する」。同社はそれを「時空スマート操作システム」(「時空智能操作系統」)と呼んでいる。

「新基建」の基本となる位置情報

 道路や鉄道はもちろん、空港や港湾、上下水道、全国的な配電網、災害対策など、社会の基本的な機能を制御していくためには、このような「心電図」の存在は大いに役に立つ。例えば、がけ崩れが起きやすい地域で、地盤の細かな変化を高精度の位置情報によって感知し、「すべてのインターネット」を通じて行政が逐一その情報を把握していれば、災害を未然に防げるかもしれない。まさに心電図だ。こうした試みが各地で始まっている。

 民間のビジネスの市場はさらに大きい。すべての商品やヒトの動きをリアルタイムで正確に把握し、膨大な情報の蓄積で開発したアルゴリズムを用いれば、次の動きが高い精度で予測でき、さらに効率の高い方策が導き出される可能性が高まる。この点から見れば、Googleが目指しているものと共通性があるかもしれない。

 いま中国ではコロナ後の経済復興の意味も込めた「新基建(新型基礎設施建設)=新型インフラ建設」が流行語になっている。その中核をなす社会のデジタル化を進めるには、精度の高い「時空情報」提供のインフラが不可欠といえる。

 中国のメディアでは、こんな言い回しも登場した。

 ――ウィンドウズはパソコン時代を開き、アンドロイドとiOSはモバイルインターネット時代を開き、「崑崙鏡」はIoE時代を開く――

 これはいささか過大評価だろうが、今後、もし本当に世の中のすべてのモノやヒトがインターネットでつながる時代が来れば、正確な「時空情報」が致命的に重要であることは間違いない。

無人ドローンで洪水の被害状況を確認

 2020年7月、安徽省・廬江県で河川の堤防が決壊、大洪水が発生した際には、上海市消防局のドローン部隊が救援に駆けつけた。位置情報システムを搭載したドローンの編隊が被災地周辺のべ340㎞を飛行し、3034枚の写真を撮影。画像処理をほどこしたうえで決壊前の画像と照合し、決壊場所の長さや浸水地域の広さの測定、送電線の鉄塔の被害や倒壊した民家の特定など、被害の程度を確認、1時間ほどのうちに災害救助計画をつくりあげた。それに基づいて地元警察などの実施部隊が各所に投入され、効率的な救援を行うことができたと報告されている。

 広東省の電力会社「広東電網」とのプロジェクトでは、位置情報サービスを組み込んだ900機の無人ドローンが自動操縦で高圧送電線に沿って飛行し、送電線に異常がないかを24時間、チェックしている。累積飛行距離は20万㎞を超えるという。

高圧送電線を監視する自動操縦のドローン(千尋位置網絡Webサイトより)

 浙江省徳清市および上虞市、安徽省銅陵市など中規模の地方都市を舞台に、「千尋」はすでに地元政府と一体となってスマートシティ化の取り組みを始めている。

 例えば、徳清市内の18の区域では地域の生ゴミ集積場所を廃止、衛星測位システムを搭載したゴミ収集車43台を導入し、付近を巡回するゴミ収集車がいま何台あり、どこにいて、自宅付近にいつ来るのかが住民のスマホを通じて即座にわかるシステムを導入した。収集車が来るタイミングに合わせてゴミを出せばよいので、迷惑なゴミの放置もなくなり、美観も向上したという。

徳清市で行われている「崑崙鏡」プロジェクトの画面(千尋位置網絡Webサイトより)

 また同市の交通警察は「スマート三角パイロン」を導入した。「三角パイロン」は交通規制時などに道路に置く三角錐の警告器具。工事現場などでおなじみだ。事故が発生した際、「スマート三角パイロン」の設置情報がスマホの地図やナビアプリ上に表示され、運転者に注意をうながす仕組みである。

貨物輸送車両の96%が「北斗」を搭載

 昨今話題の自動運転に測位情報が不可欠なことは言うまでもない。「千尋」は2020年8月時点で全国に2900ヵ所の地上基地を設置、まず全国の高速道路ならびに都市内自動車専用道(東京の首都高のようなもの)を対象に高精度測位道路測定を終え、アルゴリズム検証を展開中と発表している。測定車の走行距離は30万㎞に達するという。

 発表によれば、テスト車両の測位精度は2㎝以内の誤差にとどまり、自動運転が十分に可能とされている。自動運転システムの実装を考える自動車メーカーは、「千尋」の提供するサービスを活用すれば、より低いコストで自動運転の機能を搭載できるメリットがある。

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 2020年10月の中国交通部(交通関係を主管する中央省庁)の発表によれば、全土の貨物輸送車両約730万台のうち698万台が「北斗」を搭載しており、比率は96%に達する。また郵便輸送車両約3万6000台のうち88%に相当する3万1400台が「北斗」を搭載している。これらの車両には遠からず一定レベルの自動運転機能を持つようになる見込みだ。

位置情報で牛を管理する「スマート放牧」

 位置情報は「スマート農業」の実現にも大きな役割を果す。内蒙古自治区・林西県の農業合作社では、インターネットでつながった自動運転の「種まき機」や苗を保護する「フィルム敷設機」などが稼働している。位置情報システムの指示にしたがって機械が正確に決められたルートを移動するので、農作業の効率は飛躍的に高まった。極論すれば、夜暗くなってからでも種まきなどの作業ができるという。

 同自治区の草原では衛星測位情報を活用した「スマート放牧」が実用化され、遊牧を生業とする人たちが牛について山野を歩く必要がなくなりつつある。牛の首に受信機をつけ、後はタブレットの画面で牛の位置をチェックしていればいい。自ら設定した「電子フェンス」を牛が超えようとすればアラームが稼働する。首輪の価格は日本円で数千円、年間の位置情報サービス料は数百円。広大な土地を人手で管理するよりはるかに安い。

※資料画像。本文の内容とは関係ありません

 位置情報サービスの利用が手軽になり、コストが劇的に下がったおかげで、こうした「スマート農業」は全国に広がっている。その背景に、中国のスマホ普及率の高さ、5Gなど高速移動通信の普及の速さなどがあることは言うまでもない。2020年11月末時点で北京市では第5環状線の内側(東京で言えば国道16号線の内側ぐらいか)の5Gカバー率は95%に達し、浙江省杭州市も92%に達している。農村部の5G普及はこれからだが、全国の5Gユーザーはすでに1億人近くに達していると伝えられ、普及のスピードは速い。

社会全体をトータルに管理する仕組み

 全土に張り巡らされた膨大な監視カメラ網や支払いアプリなどによる個人信用管理、顔認識システムなどよる「管理社会化」が進行している中国の状況が、昨今、日本でもよく知られるようになってきた。しかし、いくらたくさんの監視カメラを並べても、高精度の位置情報が「すべてのインターネット」でつながった社会のインパクトには及ばない。

 スマホの位置情報がセンチメートル単位で把握可能となれば、例えばコロナウイルス感染対策の追跡システムなど医療・健康面でも活用の仕方は大きく変わるだろう。もちろんそこにはプライバシー保護の視点が不可欠だが、為政者が政治的、行政的に活用しようとすれば、こんなに便利なシステムはない。

 これら先端技術の開発、社会での実験、実践において、政府の力が強く、政府と企業の関係が近い中国が有利な面があることは間違いない。「北斗」や「崑崙鏡」はその象徴だ。為政者主導で「社会全体を見渡せるしくみ」の構築に向けて突き進む中国の姿を見る時、今後、私たちの社会をどのように運営していくべきなのか、改めて考えずにはいられない。