「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源 (1) & (2)

執筆者:山口智美

くらしと教育をつなぐWe 2004年11月号&2005年1月号掲載


昨今の日本で、「ジェンダー・フリー」攻撃派は、ジェンダー・フリーを「性差を完全になくそうとする過激な思想」などと触れ回っている。一方、日本の女性学関係者には、ジェンダ?・フリーはジェンダーの呪縛から自由になることだとし、それはアメリカの教育学者が使い始めた言葉であると主張する人がいる。

だが、私は10年以上、アメリカの大学院でフェミニズムを専門としてきたが、「ジェンダー・フリー」という言葉は聞いたことがなかった。「ジェンダー・フリー」の「フリー」は、日本で一般に理解されているような「–からの自由」という意味より、英語では「?がない」という意味合いが強い。アルコールフリービール、オイルフリーファンデーションなどを例にとるとお分かりいただけるだろう。

アメリカ人のフェミニスト学者数名に、「ジェンダー・フリー」について聞いてみたところ、「何それ?ジェンダー・ブラインドって意味なの?」という反応が返ってきた。彼女たちは、「ジェンダーを見ようとしない。ジェンダーが見えていない」という意味にとった。つまり、ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な意味合いを持つ用語と解釈したのである。この落差は、いったいどこから来たのか?

日本の学者たちのいう、ジェンダー・フリー概念を提唱したアメリカの教育学者とは誰なのか、すぐには思い当たらなかった。

そこで、日本語文献をあたってみたところ、その学者は、バーバラ・ヒューストンというニューハンプシャー大学の教育学の教授で、彼女の論文「公教育はジェンダー・フリーであるべきか?」(1985)が引用されていた。

「ジェンダー・フリー」が、日本で最初に使われたのは、3名の学者(深谷和子、田中統治、田村毅)が担当した東京女性財団パンフ「Gender Free」(1995)だったと言われる。同パンフ作成プロジェクトの報告集「ジェンダー・フリーな教育のために」は、バーバラ・ヒューストンの記述として次のように書いている。

ジェンダー・フリーは、人々の意識や態度的側面を指す用語である。この用語に関する論文が、最近刊行された論集に収められている。・・この論文では、ジェンダー・フリーの意味を強いものから弱いものまで、三つに区分している。我々が用いる意味は、第三のジェンダー・バイアスからの自由に近いだろう。論文の筆者は、ジェンダー・センシティブという用語のほうにコミットしているが、それはジェンダー・フリーの戦略上の観点からである。(p.24, 1995)

その後、ヒューストンを引用して「ジェンダー・フリー」を解説する論文が目につく。例をあげよう。

バーバラ・ヒューストンはジェンダー・フリーをジェンダー・バイアスから自由であることとする見解を示した人物である。・・ヒューストンの『ジェンダー』から『ジェンダー・バイアス』そして『ジェンダー・フリー』に展開する説明をみても・・(亀田温子「教育装置のつくりかえ」女性学Vol 11, p.22, 2003)

ヒューストンの立場は、当然、第三の見地(註:ジェンダー・バイアスからの自由)であるし、日本社会におけるジェンダー・フリー教育についての実践も、このジェンダー・バイアスからの自由という立場が主流だろう。(伊藤公雄「バックラッシュの構図」女性学 Vol 11, p.12, 2003)

私は、ヒューストンの原典を読んでみた。そして天地がひっくり返るほど驚いた。彼女は、ジェンダー・フリーは平等教育の達成には不適切なアプローチだと批判し、ジェンダーに敏感になることを意味する「ジェンダー・センシティブ」を薦めていた。これを正しく素直に読む限り、日本語文献によく出てくる「ヒューストン提唱のジェンダー・フリー」は、誤読に基づいていたとしか思えない。

仰天した私は、ヒューストンさんご本人に確認した。彼女は、やはり「ジェンダー・フリー」ではなく「ジェンダー・センシティブ」を提唱していた。さらに、日本の学者たちがヒューストンの「ジェンダー・フリー」解釈の一つとする「ジェンダー・バイアスからの自由」については、具体的効果がなく弱すぎる解釈だとして関心を示さなかった。ヒューストンは、男女平等の達成には、具体性を欠いたかけ声だけの「ジェンダー・フリ?」は意味がない、ジェンダーに敏感な具体策をたてることが必須である、こう主張しているのだ。

日本の学者たちは、ヒューストンが個人の意識レベルでの「ジェンダー・バイアスからの自由」という意味でジェンダー・フリーを提唱していると誤読した。そしてジェンダー・フリーの意識啓発こそが目的なのだと解釈した。さらに、原典にしっかり当たらなかったであろう他の学者たちも、この誤読に基づいた解釈をし続けてきたのではないか。

なぜこの明らかな間違いが日本で放置され続けてきたのだろう?

東京女性財団版ジェンダーフリー:「心のありよう」

「ジェンダー・フリー」という言葉は、行政主導で生み出され広められた。まず、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが論文で「ジェンダー・フリー」を批判した。それを誤読して、東京女性財団の刊行物が、「ジェンダー・フリー」を積極的に擁護する意味で紹介した。後、他の学者たちも意図的か誤読かはわからないが、その誤解をそのまま引いて、「ジェンダー・フリー」について解説した論文を出版し続けてきた。

事の発端となった、東京女性財団ハンドブック『Gender Free』(1995)からさわりを引用しよう。

「男女平等という用語は、これまでおもに制度や待遇面での、男女間の不平等の撤廃をテーマにして使われてきましたが、最近ではそうした不平等問題の背景にある、人々の『心』のありかたに関心が払われるようになりました。・・・性別に関して人々が持っているこうした『心や文化の問題』をテーマにするために、このハンドブックでは「ジェンダー・フリー」というコトバを使っていくことにしたのです。」(p.6)

ここでいう「ジェンダー・フリー」とは、性差別撤廃のために制度を変えていくことより、むしろ個人の心の持ちように還元させ、変革の志に背を向ける言葉だった。

そして、東京女性財団「ジェンダーチェック」シリーズパンフや、自治体のパンフ、女性センターの講座やチラシ、NWEC(国立女性教育会館)でのセミナー、行政の助成事業としての市民団体のプロジェクトやその報告書・出版物などを通じて、この概念は日本全国にまたたく間に広まっていった。

このような「心のありよう」を意味する「ジェンダーフリー」を、アメリカに住んで長い私は聞いたことも見たこともない。そしてヒューストンは実は「ジェンダー・フリー」ではなく、「ジェンダーに敏感な」方策こそ必須であるという立場をとる。教育現場で男女平等を達成するためには、私たちが無関心だったために見えなかった性差別に関する情報を獲得することが重要だと考えたからだ。そうして初めて、学校などで男女平等の具体的プログラムを導入することが可能になるとする。つまり「ジェンダーフリー」は、変革のための具体的な実践に結びつかないからダメなのだとヒューストンは指摘する。『心や文化の問題』などとは程遠いのだ。

ジェンダー・フリーとジェンダー・センシティブの違い

一方、日本でヒューストンの「ジェンダー・フリー」は、「ジェンダーを無視するのではなく、ジェンダー・センシティブになりジェンダー・バイアスを除去し、性の平等の実現をはかること」(亀田温子・館かおる『学校をジェンダーフリーに』p.4)などと解説されている。「ジェンダー・センシティブ」は「ジェンダー・フリー」の一過程である、という解釈である。

そもそもヒューストンの「ジェンダー・センシティブな教育」という概念は、アメリカのフェミニスト教育哲学の草分け、ジェーン・R・マーティンに依拠している。11月21日、マーティン邸での私の取材に対し、彼女は「ジェンダー・センシティブな教育」は、「ジェンダー・フリー」の一過程ではないと強調した。教育環境はどんどん変化し新しくなるもので(例:コンピューターの登場)、その都度性差別的環境や方法が新たに現れる可能性があり「ジェンダー・フリー」な教育現場などは到底ありえない。だから、どこでも、いつでもその性差別的側面に関して、調査し続けなければならず、ジェンダーに敏感であり続けなければいけないとする。さらに、差別を解消するために、被差別者側に特別に優遇措置を与えるなどの実践が重要だと述べた。このため、マーティンやヒューストンは、「ジェンダー・フリー」というスローガンを掲げて「ジェンダーにとらわれない」ことを目指す方向性は、男女平等教育の達成には有効ではないと主張しているのである。

日本で引用されてきたヒューストン論文は、マーティンが「ジェンダー・センシティブな教育」という概念を提起したスピーチに影響を受け、ジェンダーに敏感な教育に関して議論をするシンポジウムで発表されたものだった。この論文において「ジェンダー・フリー」は、「ジェンダーに敏感な教育」の重要性を訴えるため、批判概念として使われたにすぎなかった。

その後、アメリカ教育学での議論が「ジェンダー・フリー」の方向に行くことはなかった。私が今のところ唯一発見できた「ジェンダー・フリー」という言葉を使う教育学系英語文献はこのシンポジウムを記録した論文集のみなのだ。同じヒューストン論文は、教育学のリーダー(大学の授業などで使う読本)にも収録されており、日本の学者はこちらを引用している。教育学内での全体の議論の流れも見ず、学生向けの読本からヒューストン論文だけを抜き出し、しかもその論文を誤読して紹介したことになる。

大沢真理版「ジェンダー・フリー」:「ジェンダーからの解放」

日本では、行政主導で「ジェンダー・フリー」概念が広められていくにつれ、政策においても、この言葉が目につくようになった。例えば男女共同参画ビジョン、プランでは「ジェンダーに敏感」という表現が使われていたが、いつの間にか「ジェンダー・フリー」という言葉で説明されるようになった。

大沢真理は、ビジョンとプランの目的は「ジェンダー・フリー」の実現であり、ジェンダーそのものの解消、すなわち「ジェンダーからの解放」を意味すると解説している(「21世紀の女性政策と男女共同参画社会基本法」ぎょうせい 1998)。だが、この「ジェンダーからの解放」という意味での「ジェンダー・フリー」も、英語にはない。通常は「ジェンダーに基づく差別(役割)からの解放」という表現になる。「レース(人種)フリー」などという概念がありえないのと同じだ。このような言葉を使ったら「現実に存在する人種差別を見えなくするのか」という批判が当然出てくることだろう。

加えて、「ジェンダー」には「社会文化的に与えられた役割」としての意味の他に、「アイデンティティ」としての意味もある。この意味からいえば、「ジェンダーからの解放」という表現は確かに変だ。私が自ら選んで、「女」として「女性解放運動」に関わることもできなくなるかもしれない。

また、「ジェンダーからの解放」という概念は、「ジェンダーにとらわれない」という意味での「ジェンダー・フリー」と同様、性差別を積極的に解消するために女性を優先的に採用するなど、ジェンダーに着目した政策であるアファーマティブ・アクションやクオータ制などにつながりにくい。こうした暫定的特別措置が未だにほとんど実行されていない日本の現実を考えると、事態は深刻だ。

この大沢真理が使う「ジェンダー・フリー」と、東京女性財団版の「心や文化の問題」としての「ジェンダー・フリー」とは明らかにズレがある。大沢が「ジェンダーからの解放」を実質上は政策・制度面で「ジェンダー・バイアスをなくす」という視点で捉えているのに対し、東京女性財団版では人々の意識の問題が強調され、制度・実践面に応用される場合に関しても男女の区別(例えば持ち物の色分け、男女のグループ分け、学校での活動における男女のちがいなど)の解消という点に重点が置かれている。ところが、このズレについての議論が学者間で行われているとも聞いたことがない。

アメリカの学者の権威を借りて、「ジェンダー・フリー」という概念を誤読に基づき曲げて紹介し、誰も原典を確認せず、意味のズレが生じても批判も議論もないままに広めた学者の責任は重大ではないか。今こそ、この概念について、しっかり議論や批判をしていく必要があるのではないか。学者の権威を利用しつつ、「ジェンダー・フリー」を推進してきた行政の責任も、問われるべきだろう。「ジェンダー・フリー」は何となくおかしいと思いつつ、専門家が言うのだからと、確認作業を怠ってきた私自身への反省もこめて・・・

意味のあいまいさにつけ込む保守派と、とばっちりを受ける混合名簿運動

昨今のバックラッシュの中で、右翼や保守派は「ジェンダー・フリー」という言葉を攻撃の格好の的にしていることを考えると、この概念をめぐる混乱の影響は看過できない。

11月号の三井マリ子論文中で紹介されている、日本会議の機関誌「日本の息吹」や、山口県に本部を置く「日本時事評論」でも、ここ2年ほどの間、「ジェンダー・フリー」への批判記事が急速に増えたのが目につく。そこでは、「ジェンダー・フリー」の様々な「起源」がねつ造されている。

例えば、スウェーデンのフェミニストが提唱したという説(総山孝雄「日本の息吹」2001年10月号 pp.12~13)。「ジェンダー・フリー」は「犯罪大国スウェーデンがお手本」であり、「フリーセックスの別称」などとなる。あるいは、マルクス主義起源説。大沢真理がフランスの学者デルフィの論に依拠していることから出てきたようで、これに基づき「過激な文化破壊思想」「共産主義的カルト思想」などと述べられている(八木秀次 「日本時事評論」 2003年5月3日号 p.3)。そして「ジェンダー・フリー」造語説。和製英語であることを強調し、サッチャー政権下のイギリス、ブッシュ政権下のアメリカなどを例に挙げ、男女平等推進の動きは、あたかも「世界的な流れ」のようにいわれているが、まやかしにすぎないとこじつける(新田均「日本の息吹」2003年12月号 pp.20-21) 。

これら右翼勢力は、「ジェンダー」も「ジェンダー・フリー」の考えに基づく「過激な思想用語」であるなどと批判する(「日本時事評論」2003年10月24日号 p.4)。そして「男女共同参画」の目的は性別の解消であり、「カルト思想」などとも言う(「日本時事評論」 2002年5月3日号 p.3) 。攻撃の対象となっているのは、何も「ジェンダー・フリー」だけではない。「ジェンダー」や「男女共同参画」も猛攻を受けている。

しかし、保守派がカタカナ語や日常使われない用語(例「男女共同参画」)を叩く一方、表立って「男女平等」や「性差別撤廃」という言葉を批判しないのは、特筆すべきだろう。「ジェンダー・フリー」を「男女平等」とは異なるものだという妙な理屈をこねて、「ジェンダー・フリー」攻撃をしているのだ(新田均「日本の息吹」2002年10月号)。おそらく行政や学者は、「よくわからない言葉」を新しく使うことで男女平等への反発を軽減しようとして「ジェンダー・フリー」を使い出したと思われるが、それは失敗だったのではないか。

例えば、最近の東京都教育委員会によるジェンダー・フリーに基づく「男女混合名簿」禁止/廃止への動きである。これは、「ジェンダー・フリー」概念の混乱を悪用した保守派の動きに行政が屈したものといえる。

男女混合名簿は、女性解放運動や教職員組合などで行われてきた性差別撤廃と男女平等実現のための息の長い運動だ。この運動の先駆者「行動する女たちの会」が1990年に発行した冊子『さよならボーイファーストー男女別出席簿を考える』は、名簿など「ささいなこと」であるという考え方を切り崩すことは、社会に満ちた性差別と闘うひとつのとっかかりであると述べる。男女混合名簿はとるに足りないことでも上野千鶴子の言う象徴闘争でもない。教育現場や日々の生活に満ちあふれる性差別を変革する具体的かつ重要な手だてなのだ。

教育関係者や女性解放運動家たちは、長い年月をかけて性による不平等の少ない教育現場を一歩一歩築き上げてきた。しかるに、それがいつの間にか、行政主導の「ジェンダー・フリー」概念の広がりにより、「ジェンダー・フリー教育」の一環としてくくられるようになった。

一方、右翼や保守派は、「ジェンダー・フリー」の曖昧さに乗じて、それを自分たちに都合のいいように故意に曲解・誇張・ねつ造し、「男女混合名簿」廃止を煽っている。

そして、ここに来て、「ジェンダー・フリー」を提唱してきた東京都は、手の平を返したように「ジェンダー・フリー」禁止に踏み切ったのである。