「マシュマロ」という質問系サービスを作った

マシュマロ作った

https://marshmallow-qa.com/

マシュマロとは

  • 匿名の質問/メッセージを受け付けるサービス
  • ネガティブな内容の質問/メッセージはAIがこっそり削除するので、ポジティブなものだけがユーザーに届く
  • 「世界はもっとマシュマロを投げ合うような安全さで満たされるべき」という思想を軸にして作られているサービス

なぜ作ったのか

  • 質問系サービスがもともと好き
  • 質問系サービスでは、匿名でネガティブなコメントが寄せられるという問題が発生するので、それを防ぐのが最大の課題だと思っていた
  • 質問を画像化し、回答は外部のSNSで答えるというSarahah式の仕様の拡散力の強さを知る
    • Sarahahというスマホアプリが急に流行り始めたので、その仕様を調べたのがきっかけ
    • フォロワーのせせりさんがSarahahインスパイアであるpeingをたった7時間で作り上げ、またそれが結構拡散していたので、このSarahah式の拡散力の強さを確信する
  • サービスが拡散する上での課題はSarahah式で解決できそうだが、ネガティブなコメントが寄せられるという問題は依然として存在しており、その解決に特化したものを作ったら、既存のものとは全く違うユーザー体験を提供できるのでは?
  • そもそもポジティブなコメントだけ届くようにしたらいいかも?
  • そういえば知り合いがポジティブなコメントとネガティブなコメントを判定するAI作ってたし、MITもそれを実現する論文を発表しているらしいから、自動的にネガティブなコメントを削除するの可能じゃん
  • とりあえず当たっても怪我をしないようなものだけが飛んでくる機能だけを実装した質問系サービスを作って、ユーザー体験にどういう変化をもたらすのか検証してみよう

という感じ。

リリース後

  • そこそこトラフィックのあるアプリ☆メーカーのお知らせ欄に貼っといたので、そこそこ人は流入し続けている
  • 拡散性もまぁまぁ
  • 大きくヒットしているわけではないが、リリースしてまだ3日しか経っていない割にはPV増加ペースが速い気がする
  • ポジティブなものだけを投げ合おうという思想は評価されてそう
  • iPadで適当に作ったアイコンだが、想定以上に評価されてる

今後の課題

課題はたくさんあるが、リリースしてみてわかった重大な課題は以下の2つ。

  • 通知メールが迷惑メールフォルダに入ってしまう問題が発生しており、通知が機能がしていない
  • 質問を募集する人の数に対して、質問の数が少ない

通知に関しては、メールは間に合わせとして実装してる機能にすぎないので、もっといい通知手段を確保したいと思っている。

質問不足に関しては、質問系サービス全般を悩ませている課題かもしれない。質問が増える施策と、質問が少ない場合でも困りにくくする施策を考えているので、低コストなものを実装してみて解決の糸口を探りたい。アプリ☆メーカーの知見があるので、いろいろ手の打ちようはあると思う。

運営にはマシュマロじゃなくマサカリを投げて

まだリリースしたばかりなので、そこまでフィードバックが多いとは言えない。なのでマシュマロを使ってみて問題点を挙げてくれると嬉しい。

https://marshmallow-qa.com/

「LIPS」というコスメ系サービスがすごい

2017年にリリースされたサービスで「LIPS」というのがあるのだが、これがなかなかすごい。でもまだあまり知られていないし、ネット界隈の物知りおじさん達も全然話題に上げない。11月1日の時点では、はてブ3。それだってつい先日3になったばかりで、1月のリリースから半年近くはずっと0。

しかしまぁそれも当然である。「LIPS」はコスメ特化のサービスなのだ。 lipscosme.com 人間のオスは30歳を超えてくると、「コスメ」と聞いてもそれが化粧品関連のことだと理解するまでに2秒かかるようになる。そういう習性だ。だからコスメ系サービスへの感度なんてすこぶる悪く、間違いでも起こらない限りスルーしてしまう。

しかし僕はネット界隈の物知りおじさん達とは違い、スルーしなかった。間違いを起こしたからだ。

ある時、僕はこんな感じの情報を目にした(気がした)。

「いま若い女子達に LISP コニュニティが大人気!」

いやいや、ちょっと待て。自分の知っている LISP はちょっとコア向けのプログラミング言語だぞ。一体何が起こってるんだよ。狼狽せずにはいられなかった。

Google先生に聞いてみたところ、やはり LISP女子 とかが流行っているなんてことはなかった。そして先生は僕を傷つけないように、 LISP の検索結果にさりげなく LIPS を混ぜてくれた。そうして僕はLIPSを知ることになった。

LIPSのここがすごい

イケてるCGMならば研究してみよう!と軽い気持ちでLIPSをチェックしてみることにした。僕はただの男性なので、コスメサイトに関する知見はまるでないのだが、どうやらLIPSはすごそうだった。

普通にすごいところ

まずぱっと見て思ったのは、比較的新しいサービスなのに、普通にやるべきことをやっているのがすごい。1つ1つは特別なことじゃなくても、寄り道せずにそういうものをちゃんとやるのは簡単ではない。開発者の頭の良さを感じる。

挙げたらキリがないのだが、たとえばユーザーの流入と継続に関してなら、以下の点がしっかり作られているのを感じる。

  • 主な情報はWebでも見られるようにして、検索流入のルートを確保
  • いたるところでスマホアプリへ誘導して、継続率を上げる

別に大した要素ではないのだけど、この流れを強く意識してデザインされているように見えるし、実際それがちゃんと実現されていると思われる。わかっちゃいるけど難しいんだよね、そういうの。

尋常じゃなくすごいところ

  • ユーザーの欲求が見えている

これに尽きる。「頭がいい」とかそういうのを超えた能力を感じる。

閲覧ユーザーの欲求

まずは投稿をしていない、閲覧しているだけのユーザーの欲求について考える。

  1. 本当に参考になる人のレビューだけ見たい
  2. 実際の写真によって具体的なイメージを掴みたい
  3. コスメの使い方の解説を見たい

などが挙げられそうだ。これらの3つの欲求に対し、LIPSの仕様はまっすぐと応えている。

  1. 自分にとって本当に参考になる人のレビューだけ見たい
    • レビューが画像とセットなので、参考になりそうかを画像で判断できる
    • 人ごとにレビューがまとまっているので、自分にとって参考になる人のページでは、全てのレビューが参考になる
  2. 実際の写真によって具体的なイメージを掴みたい
    • レビューが画像とセットなので、ファンデーション等では実際に肌に合わせてみた写真などが添付される
  3. コスメの使い方の解説を見たい
    • レビューが画像とセットなので、肌との相性でなく使い方が重要なものでは、使い方を示した画像などが添付される

3つの欲求に対し、判断が必要になる場面は1回。「誰が参考になるか」の判断だけだ。それ以降はいちいち物事を判断しなくていい。しかもその判断は画像で出来るので、いちいち文章を読まなくていい。

ではその欲求を最大手の@cosmeに対応させてみるとどうか。

  1. 本当に参考になる人のレビューだけ見たい
    • レビューが参考になるかどうかは、文章をしっかり読んで判断する必要がある
    • 商品ごとにレビューがまとまっているので、レビューごとに参考にしていいかを判断する必要がある
  2. 実際の写真によって具体的なイメージを掴みたい
    • 肌に合わせてみた写真も多いが、大量の商品の写真から探し出し、自分にとって参考になるか判断する必要がある
  3. コスメの使い方の解説を見たい
    • 解説した画像も多いが、大量の商品の写真から探し出し、自分にとって参考になるか判断する必要がある

とまぁこんな感じである。欲求に対して判断の場面が多すぎる。だから、

  1. 本当に参考になる人のレビューだけ見たい
  2. 実際の写真によって具体的なイメージを掴みたい
  3. コスメの使い方の解説を見たい

という欲求を持っている人にとっては、@cosmeよりLIPSのほうが断然いいのだ。

となるとその欲求を持っている人がどれくらいいるのかが問題になるわけだが、実際のニーズを元に開発を始めたらしいし、結構いるのだろう。急成長していることもその裏付けになりそうだ。だからあとは潜在ユーザーにリーチさせれば勝ちみちたいなところがあるので、これからがっつり広告打って一気に認知度が上がってスターダムを駆け上がるかもしれない。

投稿ユーザーの欲求

LIPSはCGMであるため、コンテンツを投稿するユーザーがいないといけない。ではそのユーザーはどういう欲求を持っているのか考えてみる。

  • 良いコスメを広めたい
  • 承認欲求を満たしたい
  • コミュニケーションしたい

などが挙げられる。投稿者のこういう欲求はどこのサービスでもたいていちゃんと応えているものだが、LIPSは承認欲求の満たし方が優れている。

コスメという名目

投稿者は、コスメのレビューという名目で投稿する。もちろんそれは間違っていないのだが、他のレビューサイトとは承認のされ方が少し違う。

他のレビューサイトでは、レビューへの承認というのは、「いかに参考になるか」である。要するにテキストの価値への承認であり、その奥にいる人間を褒めているという感じが薄い。

一方でLIPSは、ユーザーごとにレビューがまとまっているので、レビューの奥にいる人間を強く感じる。だからレビューへの承認が、投稿したユーザーのセンス・知識・ルックス等に向く。投稿者にとってみれば、投稿はコスメレビューという名目だが、承認は自己へ向けられるのだ。これは非常に強力なインセンティブとして働くだろう。LIPSにレビューを投稿して承認されるのと、@cosmeにレビューを投稿して承認されるのでは、快楽のレベルがまるで違ってくるはずだ。

女性からの承認

レビューをした個人への承認が強いというのが優れた点だが、その承認の質もまたいい。

LIPSはコスメ特化のため、基本的には承認を与えるのは女性ばかりで、男性はほとんどいない。これがいい。それよって 男性から性的な対象で見られる ということがないからだ。多くの女性が、求めていないのに 男性から性的な対象で見られる ことにストレスを感じるのは想像に難くない。かといって自分のことは認めて欲しいと思っている。しかし現実には、若い女性が性的な目で見られないまま大きな承認を得るのは難しい。大きな承認を受けている若い女性は多くの場合、性的な目に気付かないか、開き直っているか、悩んでいる。

それはコスメ分野でも同様で、YouTubeでメイク動画を上げようと、インスタで新作コスメを試してみた写真を上げようと、承認されて注目されてしまったら、必ず性的な目で見る人間が現れる。ただ可愛いモノ・使い方・振る舞いなんかを認めてもらいたいだけなのに、それが「性的な情報」として消費されてしまう。それがどれだけ哀しいことか。そして気に入っていたサービスでも、そのせいでいつの間にか居心地が悪くなってしまう。

LIPSではコスメ特化という男性避けがあるため、たとえ大きな承認を受けて注目されても、性的な目で見られることはほぼないと思われる。注目される立場にいる若い女性に、居心地の良さを提供し続けられるのだ。コスメという分野に限られてしまうものの、現代社会が抱える問題を解決していて素晴らしい。

今後の成長

以下の点からLIPSはこれからどんどん成長していくと思う。

インスタ女子が大量流入

投稿者の承認欲求の満たし方が優れていることにより、インスタで似たようなことをやっている人達がどんどん流入してくることが予想される。そうなるとフォロワーもどんどん流入してくれて、LIPSのユーザーはますます拡大するだろう。現時点でも流入しているだろうが、LIPSのポテンシャル的には今の比じゃないレベルで流入するはずだ。

しかし問題は、そのインスタ女子を性的な目で見ていた人をいかに排除するかだ。LIPS開発陣はきっとうまい具合に排除できる方法を考えているに違いない。

メイク動画YouTuberの流入

メイク動画YouTuberも、インスタ女子と同様に大量に流入し、LIPSを盛り上げるだろう。性的な目で見ていた人をうまく排除しないといけないのも同様だ。

しかしこちらは、YouTubeでメイクの一連の流れを説明し、LIPSで各コスメの詳細を説明するという使い方になってくるのではないだろうか。そうなると、YouTubeとの親和性を高める仕様になっているとより使われそうである。

たとえば、指定したYouTube動画の指定した秒数とレビューを対応させることが出来たらいいかもしれない。しかしそれはそれで様々な問題が想定されるのでそのまま実装するのはまずそうだ。ちょっとここらへんのニーズに関しては、僕自身が普通の男性なのであまり把握できていないのでなんとも言えないがw

ともかく、現在メイク動画YouTuberが各コスメを説明する際に、説明文等で何か面倒くさいことをやっているはずだ。それを楽にしてあげる機能をLIPS側で実現できれば、メイク動画YouTuberにLIPSが普及していくんじゃないだろうか。

それが可能なら、メイク動画探しもまずLIPS内から行うのが当たり前になるかもしれない。まぁこれもLIPS開発陣はいろいろ考えているだろうが。

資金調達

LIPSは既に約8000万円もの資金調達をしている。一般的にはまだそこまで知られていないが、これから一気に若い女性にとっての「当たり前のアプリ」にまで駆け上がっていくことが予想される。

中の人がすごい

僕がここまで成長を確信しているのは、何よりも中の人のすごさを感じるからだ。中にいる誰がすごいのか全く知らないのだが、こんなにしっかりと人間の欲求にフォーカスできる人間は滅多にいない。事業には不測の事態が付きもので、成功する保証なんてないのだが、ここまで人の欲求が見えている人間がやっているのなら、絶対に成功するんじゃないかという気になる。

それほどまでに、欲求にフォーカスする能力というのは強い。僕はLIPSの痕跡を見て、LIPSが見ているユーザーの欲求を推測しただけだ。直接見たわけじゃない。

ここで改めてLIPSと@cosmeを見てほしい。

LIPS[リップス] - コスメ・メイク・化粧品の口コミ検索アプリ

http://www.cosme.net/

この2つは求められるものが違うだろうが、LIPSのほうが一歩先を見ているように感じてしまう。

5年後のLIPSは一体どうなっているのだろうか。期待せずにはいられない。

おわりに

イケてるCGMを研究してみよう!と思ったものの、これは意外と骨が折れる。そもそもコスメに対する知見も何もないのにLIPSを選んだのは無謀だったかもしれない。

勉強になるので続けたいが、次回からはもうちょっと軽めにやってみたい。

行動分析学のススメ

考え方をアップデートしてくれるもの

何かと出会い、考え方がアップデートされるという経験はよくある。僕はこの本を読んだ時、今まで靄がかかっていた領域の一つが晴れた気がした。

この本はタイトルの通り、行動分析学 を解説した書籍だ。行動分析学的な考え方を身につけることで、僕は大きな成長を得られたと感じている。

有名な実験

行動分析学はスキナーという人が提唱して始まった学問であるが、彼が行った実験は スキナー箱 と呼ばれている。

その実験では、キーを押すと餌が出るようになっている箱の中に、ハト等の動物を入れる。そこで餌が出る条件を操作して、行動の法則を探っていくというものだ。

特に有名なのは、キーが押された時に餌がランダムに出るように設定するパターンだ。キーを押したら必ず餌が出る設定だと、キーを押しても餌が出ない設定に変えると、キーを押すのをやめる。しかし、出るか出ないかがランダムだと、キーを押しても出ない設定に変えても、ハトは延々とキーを叩き続けてしまう。

よくこの実験のハトが猿に置き換えられたり、パチンコ等のギャンブルに例えられたりする。「行動分析学」という言葉を知らなくても、この実験なら聞いたことがあるという人はいるのではないだろうか。僕もその一人だった。

この実験についての例え話は、なんとなく頷ける、いわゆる「あるあるネタ」でしかない。しかし実際の実験で得られたものは、なんとなく頷ける程度のちっぽけなものではなかった。体系的に整理された人間の行動の法則という、とんでもなく大きなものだった。あるとき僕はその事実を知り、行動分析学というものに興味を持った。

以下に行動分析学の概要を、上記の本を参考にしながらまとめてみた。

行動分析学の基本

行動分析学とは心理学の一分野であるが、心という曖昧なものを扱うふんわりとした学問ではない。行動分析学は読んで字のごとく 行動 を 分析 するものであり、行動に関する法則を見出す科学である。

行動分析が行わない説明

行動の原因を追求するために、行動分析学では 行わない 説明として以下の3つが提唱されている。

神経生理的な説明

これは要するに脳科学的な説明だ。例えば行動の原因として「アドレナリンが大量に出たから」と説明されても、それは正しいのだが「行動がどのようにして発現するか」でしかなく、十分な説明になっていない。そういった脳内の現象を起こした原因を追求しないといけない。

心的な説明

これは「優しい」だとか「そう思った」などの説明である。心が科学的に定義されていないならば、心を説明したら原因はそれ以上追求できない。

概念的説明

これは「文才があったから」だとか、「闘争本能があるから」といった類の説明である。これも心的な説明と同様で、そういう説明はほとんど意味をなさない。

行動分析学が受け入れる説明

行動分析学が受け入れる説明は以下の3つである。

  • 遺伝的な説明
  • 過去の環境要因による説明
  • 現在の環境要因による説明

このうち 現在の環境要因による説明 を最も重視する。なぜかと言えば行動分析学は分析だけではなく、その先の 改善 まで含めた科学だからである。改善するからには、なんらかの操作を行えないといけない。そのために、操作可能である 現在の環境要因による説明 が重視される。

行動分析学的な考え方

冒頭で挙げた書籍には例が書いてあった。その大まかな内容は以下だ。

女子学生の弟

ある家庭に、姉と弟がいた。弟はいつもこたつに左手を突っ込んだまま右手だけで食事をしており、親に見つかる度に叱責されていた。この弟が右手だけで食事をしているのを、親は「行儀が悪い」「だらしがない」という理由によると考えた。確かにそれはごく一般的な考え方だ。しかし行動分析学的ではない。

姉は行動分析学的に考え、現在の環境要因による説明 を試みた。そうして観察すると、あることに気付いた。弟の定位置の左側には扉があり、朝の慌ただしい時間帯だと、頻繁に開閉する。するとその度に冷気が流れ込んで来ているのだ。姉はそれから部屋の各所の気温を測定し、弟の左側が他より2度低いことを特定した。そこで推定する。「弟の左側の気温が低い」という環境要因によって、弟は左手をこたつにいれたまま食事するのではないか、と。

行動分析学的には、弟の性格も心情も、まったく関係ない。このように現在の環境要因に行動の原因を見出す。

書籍の説明ではさらに行動分析学的な実験も行うのだがそこは割愛する。

医学モデル

例にあった親のように、「行儀が悪い」や「だらしがない」を原因として考えるのはごく一般的だ。しかし、それは単に行動に対して貼られたラベルにすぎない。行動を表現した言葉であり、原因としての説明にはなっていない。

ラベリングは行動した本人の心的な要因によって問題が引き起こされていると考えてしまっているが、そのように問題の内部に原因があるとする考え方を行動分析学では 医学モデル と呼んでいる。医学では症状を引き起こしている体の内部に原因、つまり患部があると考えるからだ。

その医学モデルで考えてしまうと、行動の外部である、現在の環境要因から原因を見出すのを放棄することになる。それはすなわち操作による 改善 も放棄していることに他ならない。

行動随伴性

行動分析学的はこのように 行動 と 現在の環境要因 に徹底的にフォーカスする科学であるが、そのために 行動随伴性 という概念が用いられる。行動随伴性とは、行動とそれがもたらす効果のことであり、それによって行動をとらえる見方こそ、行動分析学である。

しかしこれだけでは何を言っているかよくわからないだろう。行動随伴性の説明の前に、まずそもそも 行動 とは何なのかを定義しなければならない。

行動の定義

行動分析学にもいくつか定義があるが、書籍で採用されているものこの説明でも挙げたい。

行動とは、 死人には出来ない活動 のことである。

だから

  • 車にひかれる
  • おこらない
  • 崖から落ちる
  • 静かにしている

などは行動とみなさない。受け身や、行動の否定や、状態を表現したものは、だいたい死人でも出来てしまう。

行動の種類

死人には出来ないことが行動だが、行動にも2種類がある。

レスポンデント行動

こちらはいわゆる刺激に対する反応を指す。目にホコリが入って涙を流すとか、口の中に食べ物が入って唾液が出るとかだ。この場合、時系列的には行動の前に原因が発生する。

オペラント行動

こちらは行動がもたらす効果が原因となって引き起こされる行動である。

たとえば「メガネをかける」という行動ならば、「よく見える」という効果がある。ではなぜ「メガネをかける」のかというと、「よく見える」からである。「よく見える」という効果の存在が、「メガネをかける」という行動を生み出しているのだ。

あるいは「電気のスイッチを押す」という行動ならば、「明るくなる」というのが行動のもたらす効果であり、それが原因となっている。心的な要素は考慮しない。少しややこしいが、あくまで行動と環境要因にフォーカスして考える。そうして医学モデルを排除するならば、たしかに効果として現れるものが存在していることが、原因となっている。もしその効果がなければ、原因となることはない。

このオペラント行動の場合はレスポンデント行動、時系列的には行動の後に原因が発生する。

オペラント行動は、このように行動とそれによる状況の変化によって成り立っている。そして、行動による状況変化が行動の原因となってるという関係性が、 行動随伴性 である。

行動の原理

直後とは

行動分析学では、行動の直後における状況の変化に注目する。ではそもそもの前提として、直後とは具体的にはどれくらいの時間を言うのか。

それは 60秒以内 である。状況の変化というのは、行動してから60秒以内に起こることを指す。

好子出現の強化

特定の状況下において、行動の直後に状況が変化するという経験をしたとする。すると再びその特定の状況下に置かれた際には、同じ行動が起こる可能性が高い。

例に挙げた弟だと、 左手が冷たい という状況下で、こたつに手を入れる という行動をし、直後に 左手が暖かい という状況の変化が起こっている。

このように行動の直後の状況変化によって行動の回数が増えることを、行動分析学では 強化 と呼んでいる。弟の例だと、こたつに手を入れる頻度の増加が、強化にあたる。

また、状況が変化する際に出現した要因を 好子(こうし) と言う。弟の例だと、左手が暖かいということが好子にあたる。ちなみに「好」という字を使っているが、行動した本人が好むものであるかどうかは関係ない。

これが人間の行動の法則の1つであり、 好子出現の強化 と言う。

好子出現の強化:行動の直後に好子が出現すると、その行動は将来繰り返される

トイレの例

電気をつける

トイレの電気をつけるという行動に関する行動と状況を時系列的に並べると、このようになる。

  1. トイレが暗い
  2. 電気をつける
  3. トイレが明るい

3の存在があるから2の行動が行われる。つまり3は好子である。1の状況下で2が行動されて3になる度に、2が強化され、2の行動が発生する頻度が上がる。文明開化のころならまだしも、現代では皆、1の状況下での2の発生率はほぼ100%にまで強化されている。

電気を消す

一方でトイレの電気を消すという行動ではこうである。

  1. トイレが明るい
  2. 電気を消す
  3. トイレが暗い

3の存在があるから2の行動が行われる、とは到底言えない。「トイレが暗い」「じゃあ電気を消そう」とはならないのだ。つまり、2の行動で状況は変化するものの、3は好子ではないのだ。そのため、2の行動は強化されず、頻度は自然には上がらない。

このような理由により、電気をつけるという行動よりも、消すという行動のほうが発生率が低くなるのは行動分析学的には必然である。だから「なんで電気消さないの!」という非難は的はずれである。「好子が随伴しない行動だから持ち前の意志力で電気消してね」といった行動分析学的皮肉でも飛ばしておけばいい。

嫌子消失の強化

行動が繰り返される原因はもう1つある。

たとえば「傘をさす」という行動だと、行動と状況の変化は以下のようになる。

  1. 雨に濡れる
  2. 傘をさす
  3. 雨に濡れない

状況変化よって2が強化されているが、これは1から3に状況が変化する際に、1の要素が消失している。先程の電気をつける例だと、1から3の変化で好子となる要素が出現しているのと対象である。

このように、行動が強化される際に、行動の直後に消失するものは、嫌子(けんし) という。「嫌」という字を使っているが、こちらも行動した本人が嫌っているかどうかは関係がない。

これが人間の行動の2番目の法則である 嫌子消失の強化 である。

嫌子消失の強化:行動の直後に嫌子が消失すると、その行動は将来繰り返される

嫌子出現の弱化

行動は強化されるばかりではない。状況の変化によって行動の頻度が落ちていくこともある。そちらは 弱化 と呼ばれる。

たとえば「ストーブにさわる」だと、1度経験すると、その行動の頻度が下がる。「熱さで手を引っ込める」というのは反射なのでレスポンデント行動だが、「ストーブにさわる」というのはオペラント行動だ。その行動と状況の変化はこうなっている。

  1. 手が熱くない
  2. ストーブにさわる
  3. 手が熱い

3の存在があることによって、2の行動をする頻度は下がる。行動を強化しないので、3は嫌子ということになる。その嫌子が出現することで、行動が弱化している。

これが人間の行動の3番目の法則である 嫌子出現の弱化 である。

嫌子出現の弱化:行動の直後に嫌子が出現すると、その行動は将来しなくなる

好子消失の弱化

強化の随伴性が2種類あるように、弱化の随伴性も2種類ある。

たとえば「崖から身を乗り出す」の行動と状況の変化だとこうなる。

  1. サングラスがある
  2. 崖から身を乗り出す
  3. サングラスがない

この経験をすると、むやみに崖には近寄らないようになるだろう。なので状況変化が行動の頻度に影響を与えている。ここでは1から3への変化で、1の要素が消失している。消失することで行動を強化する嫌子とは逆に弱化させており、これは好子である。その好子が消失することで行動が弱化している。

これが4番目の法則である 好子消失の弱化 である。

好子消失の弱化:行動の直後に好子が出現すると、その行動は将来しなくなる

消去と復帰

行動は随伴性によって変化する。ある行動が現在なされているのは、そこに強化の随伴性が働いているからである。

とはいえ、その行動が生涯続くとは限らない。たとえば行動しても何も起こらなければ、次第に行動はしなくなる。強化の働きをする随伴性がなくなれば、行動もなくなっていくのである。それを行動分析学では 消去 と言う。

それとは反対に、行動しても何も起こらないことが、行動の頻度を上げることもある。弱化の働きをする随伴性があることで、行動が抑えられていた場合だ。その場合、その弱化随伴性がなくなると、再び行動し始める。それを行動分析学では 復帰 という。

まだ入門ではない

上記が行動分析学の基本中の基本である。こんなに本の内容を説明しちゃっていいのかと自分でも一瞬不安になったが、実際は問題ないだろう。実はこれでも、5章あるうちの2章までの内容をさらっと触れただけにすぎない。

本にはさらに、 行動的翻訳、シェイピング、チェイニング、刺激性制御、般化、系統的再現、消去抵抗、バースト、スキャロップ、部分強化、連続強化 などの滅茶苦茶面白いトピックスがある。気になった人は是非この本を読んでほしい。僕のざっくりとした解説でも行動分析学を面白いと思ったのなら、読むとこんな風に思うかもしれない。

——今まで気づかなかったが、自分はずっとこの本を求めていた。

行動分析学の使い方

上記で行動分析学の解説をしたが、行動分析学は使ってナンボの学問だ。どう使うかを、例を挙げて説明したい。

紹介した本での例

紹介した本では、「夫が妻に暴言を吐く」というという事例が挙げられていた。

あるとき夫は脳卒中になり、それに起因して妻に暴言を吐くようになった。妻は必ずガツンと言い返して黙らせるのだが、しばらくすると夫はまた暴言を吐き始め、日に日にひどくなるという。

そこで分析医はどういう随伴性が生まれているか考えた。行動が強化されているので、好子が出現しているか、嫌子が消失しているかのどちらかであり、以下のように推測した。

  1. 妻が対応していない
  2. 夫が暴言を吐く
  3. 妻が対応する

3が好子となっているために、2が強化されてしまっている。「ガツンと言い返す」という嫌子を与えたつもりでも、それは好子となってしまっているので、余計に行動を強化しているのだ。

そう指摘され、妻は暴言を吐かれても聞こえない振り等で反応しないようにしてみた。そうして

  1. 妻が対応していない
  2. 夫が暴言を吐く
  3. 妻が対応していない

となったら、夫は暴言を吐かなくなったという。行動を強化する随伴性をなくしたことで行動の 消去 に成功した例である。

セクハラで考えみる

今度は自分で考えてみる。

たとえばいつも「若い女子社員のお尻を触る」という行動をする上司がいたとする。その際の随伴性は何か。行動が強化されているのだから、好子出現か嫌子消失である。

随伴性を探る

この行動ならば、普通は好子出現だろう。行動によって要素が消失するとは考えにくい。となると、出現した好子はなんだろうか。

単純に状況の変化を見れば、「指がお尻の柔らかさを感じる」というのが挙げられるが、おそらくそれは好子じゃない。もしそれが純粋な好子ならば、誰のお尻を触ってもいいはずで、自他のお尻を触りまくる人間になっていくはずだ。若い女子社員であるのには理由がある。

「女子社員の反応がある」というのも違うだろう。気づかない振りをしても、受け入れても、きっとセクハラ上司の行動は止まらない。

「性欲が満たされる」も少し違うだろう。それで性欲が満たされるのが一般的ならば、風俗街にはお尻を触るだけのお店が立ち並ぶことだろう。実際にはそういうお店もあるのかもしれないが、流石にマニアックすぎる。

おそらく好子は、「征服感がある」とかそこらへんだと思う。その場合の行動と状況変化はこうだ。

  1. 征服感がない
  2. 女子社員のお尻を触る
  3. 征服感がある

3の好子によって2が強化されているのだから、3を1と同じにして、状況変化をなくせばいい。つまり行動随伴性をなくして 消去 を狙うのだ。

3を1にして行動随伴性をなくす

では征服感をなくすリアクションとはなんだろうか。ざっと考えられるのは、

  • マウンティング
  • イジり

あたりだろう。会話しながらのセクハラならば、その上司より優れていることを主張するマウンティングを行う。もしくはその上司のコンプレックスをイジる。要するに、女子社員側が征服感を味わえるような行為をするのだ。

または、ごく自然に出来るならば「急にどうしたんですか? 何かストレスでも抱えているのでしょうか?」といったような優しい言葉をかけるのもいいだろう。優しさを投げかけるが、あくまで上司を「弱者」として扱う。

とはいえ、セクハラを我慢できないほど器の小さい人間にとっては、下に見ている人間にそのような行為をされるのはたまったもんじゃない。だから女子社員側から操作してやめさせるのは容易ではない。古い体質の会社でセクハラが起こりやすいのは、そういった構造的問題もあるだろう。この線では外部の力を借りるしかない。

1を3にして行動随伴性をなくす

しかしまだ随伴性をなくす方法はある。「征服感がない」→「征服感がある」という変化をなくせばいいのだから、「征服感がある」→「征服感がある」でも随伴性がなくなり、行動を消失させられる。

そもそも「征服感がない」というのが状況として成立するレベルなのだから、セクハラ上司は人に認められる機会が少なすぎる状態で過ごしている可能性がある。だから普段から征服感を味わえるくらい褒めてあげると、随伴性がなくなり、行動は消去されるかもしれない。

しかしまぁ、これはなかなか難しい問題である。随伴性をなくそうと試みるより、強烈な嫌子を出現させる荒業のほうが手っ取り早いかもしれない。

Webサービスで考えてみる

基本的にWebサービスの機能において「優れていること」と「使われること」は別の問題である。ただ機能だけあっても、ユーザーはそれを使ってくれないのだ。

だから使わせたい機能の周辺の細かい仕様を、行動を強化する構造にしていって初めて、「ユーザーに使われる機能」になっていく。

行動を定める

まずはユーザーにしてもらいたい行動は何なのかを決める必要がある。ここではよくある機能における行動である、「投稿ボタンを押す」で考えてみる。

随伴性を考える

行動分析学的には行動を強化するものとして、

  • 好子出現の強化
  • 嫌子消失の強化

が挙げられる。なのでいかに好子を強くして嫌子を弱くするかを考える。

行動の直後にポジティブな要素を出現させ、ネガティブな要素を消失させるというのが常套手段である。随伴性において好き嫌いは関係ないのだが、ポジティブな感情を想起する要素ほど好子になりやすく、ネガティブな感情を想起する要素ほど嫌子になりやすいので、要素を生み出す際には考慮すべき点だ。何か役立つ情報を提示するというのもいい。

たとえば「投稿ボタンを押す」だと、

  • 投稿が完了した旨を伝える文言を、より達成感が感じられるようなものにする
  • 投稿後に表示するページのファーストビューに、投稿内容を編集できるボタンが入るようにして、ミスがあったらどうしようという不安を軽減する
  • 投稿後に表示するページで、自分の活動に関するデータを表示する

などが考えられる。

また、現状の好子と嫌子のパワーバランスも考えたほうがいい。強すぎる嫌子があるならば、どんなに好子を増やしても無駄かもしれない。また、好子が弱すぎると、どんなに嫌子を減らしても無駄かもしれない。

たとえば

  • 投稿後に、過去の投稿に寄せられたネガティブなコメント等が目に入る
  • 投稿後に、ちゃんと投稿できたのかがよくわからない

などの要素があるなら、細かい随伴性の前にまずはここを直さないといけない。

小説で考えてみる

行動が関わるものならば、たいだい行動分析学が使える。それは小説でも同じだ。

たとえば女性の主人公が、とある男性に会いたくなったとする。しかしそこで「会いたい」という気持ちとともに、その理由をくどくどと説いても面白くはない。あまり説明せず、なるべく短い時間で読者に「だよねー!」と納得してもらえるようにすると面白い。

行動分析学的なやり方でいくと、「会いたい」と恋心を自覚するまでに、好子が出現する小さなイベントと、嫌子が消失する小さなイベントを積み重ねて置くのがいいだろう。そうした上で、主人公がつらい時に「なぜだか彼に会いたくてたまらない!」とガッツリ恋心を自覚させると、説明なんかしなくてもその恋心に対して「だよねー!」と納得してもらいやすい。

これはストーリーのある創作なら、小説に限らないことである。こんな風に学術的な法則に従って進めるが、その法則を読者に知らせないようするのは創作者の常套手段だ。うまくいけば、センスがなくても魂がこもってなくても、読者にとっては「センスがある」だとか「魂が伝わる」だとか感じられる作品になり得る。

インセンティブと行動分析学

よく「インセンティブ で行動を促すといい」だとか言われている。しかし行動分析学を知ってしまうと、それでは片手落ちだと感じる。

少しズレてはいるものの、インセンティブは概ね好子にあたる要素だ。したがって嫌子も考慮しないと、大きなインセンティブを与えているのに行動が強化されないなんてこともあり得るし、その状況を把握するもの難しい。行動分析学で補完することで、インセンティブによる思考の一歩先が見えてくるはずだ。

ゲーミフィケーションと行動分析学

ゲーミフィケーションに関しても、行動分析学的な知識がないと片手落ちに感じる。

ゲーミフィケーションというのは言ってみれば行動を強化する手法なのだが、ゲーミフィケーション自体は「ゲーミフィケーションがなぜ有効なのか?」という問いに答えられない。行動分析学で明らかになっている法則あってのゲーミフィケーションだ。その法則を知ることで、より強力なゲーミフィケーションを行えるようにもなると思う。

おわりに

行動分析学をどうやって使っていくかについては、いくらでも書けそうに思える。それくらい行動分析学は汎用性が高い。

しかしその割にはあまり普及していない。マネジメントの分野では少し使われたりもするが、もっといろんな分野で使われるべきものではないだろうか。

特に日本では、論理的に考えるべきところでも、物事に何かと人格的理由をつける。「あの人は◯◯だから駄目だ」「あの人は◯◯だからできた」なんて具合に。しかしそれは行動や結果を個人の感想で言い換えただけで、まったく理由になっていない。実に馬鹿げている。

とはいえ日本で育った以上、僕だってその思考モデルに洗脳されている。深く考えないと、「あの人はすごいからなー」なんて結論を下してしまう。後から「『すごい』って何だよ」と思う。

でもだからこそ、その思考モデルを排除して考えられるモデルが必要なのだ。それが医学モデルを排除して考える、行動分析学という思考モデルだ。行動分析学はおそらく、我々日本人に染み付いた悪い意味での「日本人的思考」をいくらか薄めてくれるはずだ。

そういうわけで、僕は多くの人に行動分析学をススメたい。

面白さ=文脈変化×納得感

面白さ とはなんだろうか。そんなことを昔から考えている。とりあえず分析してブログに書いたこともある。

web-ken.hatenablog.com

しかしこれはまだ考え抜かれていない。他人の作ったものの分析はできても、自分が何かを作る際にはちょっと使いづらい。だから何かを作る際に意識し続けられるような、シンプルで具体的な形に落とし込まなければならない。僕はそういった作業を 取っ手を付ける作業 と呼んでいる。

web-ken.hatenablog.com

で、 面白さ という馬鹿でかくて掴みづらい代物を、なんとか手で持って扱えるようにする取っ手を考えた。その結果が、 面白さ=文脈変化×納得感 という考えであり、せっかくだし簡単にまとめることにした。

僕はこの考えを試験に出したいくらいの強さで主張したいので、今回はとにかくそれだけでもいいから覚えてもらいたい。 面白さ、文脈変化と納得感 とすれば七五調だし覚えやすいかもしれない。

面白さを構成する要素

面白さ=文脈変化×納得感 という文字列だけで理解するのは難しい。あくまでこれは頭にしまうためのインデックスであり、正確な把握には各要素の説明が必要だろう。

文脈変化

文脈変化 だけだとざっくりしすぎているので説明したい。ここでいう 文脈 というのは、受け手の頭の中に形成された意味や予想 である。

たとえば「窓の外を見たら、地面が濡れていた」という文章があるとする。この情報を受け取った者は、「文章の主は建物の中にいて、気付かないうちに通り雨でも降ったのかな」というような、文章の意味と文章に含まれていない推測を頭の中に構築する。それが文脈であり、それをいかに変えていくか、どれだけ大きく変えるかが肝となる。

前提となる文脈

文脈変化 と言うからには、変化する前の文脈がはっきりしていないと、変化したのかどうかがよくわからなくなってしまう。

たとえば「右のやつを見たら、この前のやつが左だった」なんていう文章が与えられても、受け手の頭の中にはほとんど文脈が形成されない。こうなると変化させる文脈がないので、次に繋げた文章で面白くするのは難しい。強いて言えば「意味不明」という文脈が作られるので、それを活かすしかない。

前提となる文脈が明確かつ情報量の多いものならば、文脈が変化した際、より変化を強く感じられるので良い。だから一般常識として自明であるものや、偏見を抱きがちなものや、より推測を促すものであるほど、前提となる文脈としては良い。

新しい文脈

前提となる文脈を変化させたら、受け手の頭の中には新しい文脈が形成される。その文脈は前提となる文脈と違えば違うほど面白い。

前述の「窓の外を見たら、地面が濡れていた」で考えてみる。この場合、受け手の頭の中には「文章の主は建物の中にいて、気付かないうちに通り雨が降ったのかな」という文脈が形成されている。したがって次に続く一文を考えるとしたら、新しい情報でこの文脈と全く違う文脈が形成されるように試みると面白くしやすい。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。

で考えてみる。この場合、受け手の頭の中には「文章の主は建物の中にいて、気付かないうちに通り雨が降ったのかな」という文脈が形成されている。したがって次に続く一文を考えるとしたら、新しい情報でこの文脈と全く違う文脈が形成されるように試みると面白くしやすい。

したがって、

窓の外を見たら、地面が濡れていた。私は建物の中にいたので、気付かないうちに通り雨が降ったようだ。

としたらあまり面白くない。面白さの要素は文脈変化だけではないので、面白さ皆無というわけではないが、微妙である。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。ダムが爆破されたせいでこの街は濁流に飲まれつつある。

としたら、ちょっとした日常の文脈が、一気に危機感で上書きされ、先程の微妙な例よりは面白くなる。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。この火星に雨が降ったという事実は通信ラグを超えたのち、地球で大ニュースになるだろう。

としたら、今度はセンス・オブ・ワンダーで文脈が上書きされる。これも最初の例よりは面白いはずだ。

こうして作られた新しい文脈が受け手の中に定着すると、それは新しい前提となる。つまり、その文脈からまた大きく変化させて……というのを繰り返していくことで面白さが維持される。

納得感

面白さの要素は文脈変化だけではない。 文脈変化×納得感 なので、 納得感 も極めて重要である。いくら文脈が変化しても、そこに納得感がなければ面白くならない。

整合性

論理的であるかどうかを問わず、とにかく受け手に整合性を感じさせるかが、納得感を構成する主な要素だ。

たとえば「窓の外を見たら、地面が濡れていた」という文章で再度考えてみる。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。きっと今日の朝食は美味しい。

これだと文脈が変わっているものの、あまり面白くない。「地面が濡れていた」と「今日の朝食は美味しい」の整合性が弱く、納得感がないからだ。

整合性の弱さによる納得感の欠如が問題なのだから、納得感を足してみたらどうなるか。ここに文章を足してみて、強引に納得感を加えてみる。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。きっと今日の朝食は美味しい。雨の日はあの人が朝食を作ってくれるから、僕は目が覚めるといつも真っ先にカーテンを開ける。そして今日みたいな雨の日には、地面が濡れているのを見ただけで幸せな気持ちになってしまう。

こうすると文脈の変化に一応の納得感が加わり、その分だけ面白みが出てきているように感じる。

最初に挙げた面白くない例を再度見てみる。

窓の外を見たら、地面が濡れていた。私は建物の中にいたので、気付かないうちに通り雨が降ったようだ。

この文章はあまり面白いものではない。しかし面白さというのは度合いであり、なおかつ面白くなくても「面白さ0」というのは存在しないと考えるべきだ。ではこの文章に残されている、砂粒のように小さな面白さは何か。ここに文脈変化はほとんどないが、ある程度の納得感はある。だからこの文章のほんの少しの面白さは、その納得感に由来するものであるように思える。

リアリティ

何かを作る上で、リアリティ が重要になることは多々ある。リアリティも厳密には整合性の一部であるが、分けてしまったほうが考えやすい。

よく「コンテンツにはリアリティが必要だ」と言われるが、物事をリアルに表現してリアルっぽさ(リアリティ)を持たせることがなぜ必要なのか、どの程度必要なのかという問題も、納得感で考えるとわかりやすい。

現実に起これば納得するしかないわけで、その現実に近づけることで納得感も強くなる。だからリアルな表現が必要であり、リアルな表現でもたらされた、肯定的に表現される「リアリティ」というのは、納得感のことである。だから納得感を強化するために、リアリティは出来る限り持たせたほうがいい。

とはいえ、リアルな表現が多いほど面白いのかというと、そういうわけでもない。リアルな表現をダラダラと連ねてしまって文脈変化が緩慢になってしまったら、受け手に変化を変化と感じてもらえなくなってしまう。納得感が強くても、文脈変化が弱すぎたらあまり面白くはない。文脈変化を損なわない範囲に限定しつつ最大化させるのが良い。

文脈変化と納得感のバランス

文脈変化と納得感の両方が大きければ、大きな面白さとなる。しかし、常に両立させるのは難しいし、受け手によっても文脈変化と納得感に対する感じ方は異なる。

コンテンツにおける偏り

受け手が「面白い」と感じるコンテンツでも、大抵は文脈変化か納得感のどちからか一方に偏っている。いわゆる「王道」だとか「ベタ」と言われるコンテンツだと、納得感偏重型だ。一方で前衛的なコンテンツだと、文脈変化偏重型だ。

受け手の属性における偏り

受け手の属性によってもどちらをより面白く感じるかが変わってくる。子供だとかその分野の「ライト層」と表現されるような人達や、ある種のこだわりが強い人達は、納得感を重視する傾向がある。予定調和の展開だとしても、自身が強く納得出来ることであれば満足を得られる。一方で玄人寄りになってくると、とにかく大きな文脈変化を求める傾向がある。もちろん、個人や分野による差のほうが大きいので一概には言えないが、属性によってある程度の傾向はありそうだ。

受け手との関連性

厳密に言えば、面白さ=文脈変化×納得感 は正確ではない。実際には、 受け手との関連性 が高い情報だとさらに面白く感じられる。だから本当は 面白さ=文脈変化×納得感×受け手との関連性 と言ったほうが正確だろう。

たとえば文脈変化も納得感も弱いネタでも、内輪ネタならそこそこ面白くなる。それは 受け手との関連性 によって面白さが何倍にも膨れ上がっているからである。

ただ、面白さ=文脈変化×納得感 手を動かす際に意識することだが、 受け手との関連性 は手を動かす前に意識することだ。どういうターゲットにどういう情報を提示するかということなので、使うタイミングが少しずれる。これも意識すべき重要なことであるが、自分が手を動かす際のツールとしての 面白さ=文脈変化×納得感 からは省いた。

しかし他人が作ったものや、自分が作り終わったものについて考える時ならば、 面白さ=文脈変化×納得感×受け手との関連性 のほうが正確な分析が出来ていいかもしれない。

汎用性

面白さ=文脈変化×納得感 という考え方は、そこそこ汎用性が高いように思える。ここまでの例はちょっとした文章だったが、きっとそれ以外でも十分に使える。

ストーリー

ストーリー においては、そもそも文脈が変わっていく様がストーリー性とも言える。受け手に納得感を与えつつ話を変えてくのがストーリーだ。序盤や中盤で強固に形成された文脈を、ラストで一気に変えて見せるといわゆる どんでん返し というやつになる。

物語の設定

よく 異質なものを同士を掛け合わせた設定が面白い なんて言われるが、それは 文脈変化を引き起こす設定が面白い と考えることが出来る。

文脈変化を引き起こす設定というのは端的に言えば、「魔女なのに宅急便やってる」とか「もののけなのに姫」とか「お城なのに天空に浮いてる」とかそういうものだ。だから主人公の設定を練る際に、安易に「女子高生だから好きな音楽は流行りのJ-POP」なんていう設定の付け方をしてはならない。「清楚な女子高生なのにデスメタルしか聴かない」とかそういうほうが面白い。

ただ、異質な者同士を掛け合わせても、それをうまく成立させないと意味不明で終わってしまう。ではそうならないようにする要素は何かというと、納得感だろう。「清楚な女子高生なのにデスメタルしか聴かない」という設定でも、そこに何の納得感もなかったら、大した面白に繋がっていかない。「敬虔なクリスチャンだったが、母親が命の危機に晒された時に助けてくれたのは神でも仏でもなく、ライブ帰りのデスメタラー」とかそういう納得感が加えられると、面白さを人物造形にまで有機的に絡めやすくなる。

こういう感じでキャラクターの取りそうにない行動や、言いそうにない言動を、納得感のある経緯で積み重ねて設定を練っていくと、より魅力的になると思われる。また、そうやって納得感を持たせる経緯自体がストーリーとなっていく。

エロス

面白さ を エロさ に置き換えて考える必要があり、なおかつ変化の後に作られる文脈が「エロい」でなければいけないという制約があるが、基本的な考え方は同じだろう。性的なもの離れた文脈から開始し、十分な納得感を持って「エロい」と感じさせることが出来るほど エロさ が大きくなる。

大喜利

面白さ=文脈変化×納得感 は、大喜利のようなシンプルに 面白さ を狙うものでは非常に使いやすい。

画像大喜利サイトなんかを見るとわかりやすい。大喜利は 与えられた文脈を、いかに納得感のある範囲で変えるか を競うものとも言える。

bokete.jp

Webサービス

面白さ=文脈変化×納得感 は、Webサービスを作る際にも使える。実際、アプリ☆メーカー というサービスを作る際には多いに役立った。アプリ☆メーカーは使用者のツイート文を形態素解析し、それを利用した文章を自動生成するWebアプリを作れるサービスである。

たとえばこういうものを簡単に作れる。

appli-maker.jp

このサービスが成り立つと考え、実際に制作したのは、面白いものを生み出す機能が備わっていると確信していたからだ。

予め用意されている文章に、全く関係のない単語が埋め込まれるので、予期せぬ単語が文章に使われることになる。これは文脈変化を生み出す。

また、使用者のツイートを形態素解析し、そこから持ってきた単語を主に使う。ということは、使用者の語彙に適合した文章が作られ、「その人っぽい」ニュアンスの文章になる。それはつまり納得感が生まれるということであり、その人に関連のあるネタになるということでもある。

このように文脈変化と納得感を生み出せるので、面白いコンテンツが生まれるサービスになると確信していた。もちろん、ランダム性が強いために、文脈変化が不十分だったり、納得感が弱かったりしてつまらない結果になることも多い。使用者の語彙や、ベースの文章を考えた人の力量にも左右される。しかし運が良ければ文脈変化と納得感の両方が大きくなり、とんでもないネタが生まれたりする。たとえるなら、打率の低いホームランバッターだ。

こんな風に何らかのコンテンツを自動生成するタイプのWebサービスなら、面白さ=文脈変化×納得感 というのは役に立つはずだ。ぜひ「この機能は文脈変化を生み出すか?」「この機能は納得感を生み出すか?」と考えてみてほしい。

人生

人生においても、変化や納得感が大きいと面白く感じられるのではないだろうか。変化のない生活はつまらないし、納得できないまま翻弄される人生もつらい。納得感がありつつ変化のある人生こそ、面白そうだ。

面白くならないパターン

面白さ=文脈変化×納得感 であるならば、文脈変化や納得感が小さくなってしまう場合には面白くなりにくい。それを招くパターンとしては、以下が挙げられる。

  • 前提となる文脈がちゃんと形成されていない
  • 変化後の文脈がちゃんと形成されていない
  • 文脈の変化が小さい
  • 納得感が弱い

この中で顕著なものが1つでもあると、たとえ自分では面白いと思っていても、他人にその面白さが伝わることは稀だ。「もしかしてこれ面白くないかも」とか「これをどうやったら面白く出来るか」とか思った際には、上記の中で顕著なものを解消するといいだろう。

面白さの本質

面白さ=文脈変化×納得感 は、あくまで何かを作るために扱いやすい形に整えた考え方であり、面白さの本質 かというと、違うように思える。

面白さの本質は 学習の快楽 だと考えている。人間は何らかのパターンを記憶し、それをもとにして 類比・対比・因果 を思考する生物である。学習とは新しいパターンを知ることであり、新しいパターンとは既知のパターンの例外にあたるものだ。

文脈変化とはつまり、既知のパターンの 類比・対比・因果 を考えても導けなかった例外に出会うことである。そして納得感とは、例外と既知のパターンとの整合性を理解することである。

さらに言えば、記憶したパターンというのは脳に形成された神経回路であり、新しいパターンというのは新しい回路の繋がりを獲得することだ。それはつまり脳の発達である。だから 面白さ の根源的な姿は脳の発達であり、人が面白いものを渇望するのは、人類が脳を発達させることを生存戦略とした結果なのかもしれない。

おわりに

簡単にまとめようと思っていたのだが、全然簡単にはまとまらなかった。しかもまとめようと思ってから数年も経ってる。大いに反省すべき点である。

でも大事なのは 面白さ=文脈変化×納得感 だけだ。細かいところはどうでもいいから、今回はそれだけでも覚えてほしい。

面白さ=文脈変化×納得感 という考え方が使えるかどうかは人それぞれだろうが、僕自身の思考が整理されたように、誰かの思考を整理する一助となってくれると嬉しい。

今後も 面白さ について考え続け、さらに洗練された考え方を見つけたいと思っている。

「過去を責める」なんては生産性の低い人がやること

過ぎた事に対し、「なんでそうしたのか」「あれは良くなかった」と責めることはよくある。しかしそれをなるべくやめてみようと思う。

そうした「過去を責める」という行為自体が、責められるべき行為であるかもしれないからだ。

Googleが明らかにした生産性の鍵

生産性の高いチームと低いチームの違いは何か。かつてGoogle社がそれを調査し、発表した。

gendai.ismedia.jp

端的に言えば、Google内では個人の能力やチームのルールは生産性に関係なく、「心理的安全性」の有無が生産性の鍵を握るということらしい。つまり、「こんなことを言ったら馬鹿にされないだろうか」「これをやったら怒られるかもしれない」という不安を抱かせないことが重要なのだ。そういった雰囲気を育んでいるチームほど、生産性が高いという。

自分のためにも心理的安全性の高い環境を作る

心理的安全性が鍵を握るのはチーム単位の話であるが、個人が自らの生産性を高める場合にも無視できない。心理的安全性の高い環境に自らを置くことで、能力に変化がなくとも、結果に違いが出ることが予想される。だから個人的に生産性を上げたいと思う場合でも、自分のいる環境の心理的安全性を高める努力は有効であると思われる。

では心理的安全性の高い環境を作るにはどうしたらいいか。そこが問題である。既にあるものを理解するだけでは力にならない。理解したことを咀嚼し、これから起こることをコントロールする力に変えないと、すべての知識は雑学に成り下がる。

たとえば前述の

  • 「こんなことを言ったら馬鹿にされないだろうか」
  • 「これをやったら怒られるかもしれない」

で考えてみる。どちらも不安視しているのは、自分の行為の後の他人のアクションである。だからこの場合だと、行為の主が「馬鹿にされる」「怒られる」というのを想定しない環境が望ましいということになる。

不安視される他人のアクションをさらに抽象化すると、「責められる」あたりではないだろうか。つまり、行為の後に「責められる」というのを想像させないようにするのが良い。

さらに行為の主を他人にしてみると、自分が取るべき行動が見えてくる。他人の行為を後から自分が「責める」だろうと思われてはいけないのだ。そう思わせないためには、そういうことをしないのが手っ取り早い。この行動指針をひとことでまとめると、「過去を責めない」 である。

仮説として設定してみる

「過去を責めない」 以外にも生産性の高い環境を作るための方法は他にもいろいろあるだろうが、これはなかなか汎用性が高そうだ。職場や家庭だけでなく、自分を取り巻くすべての環境が自分に影響している。そのため、汎用性の高さはかなり重要である。

ただ、 「過去を責めない」 は行動指針としてシンプルでいいが、もっと脳にこびりつく表現にしないと徹底するのは難しそうだ。言うのは簡単だが、実践するチャンスに気付いて実行していくのは簡単に出来ることじゃないのだ。

そういうわけでもうちょっと表現を強くして、 「『過去を責める』なんては生産性の低い人がやること」 という仮説を自分の中に設定してみることにした。それが生産性の高い環境作りに役立ち、自分や周囲の生産性を向上させると信じて。

優れたCGMの条件

 以前ツイートした内容をまとめて残しておく。

 

 

 

 この3つの要素は、もともとレヴィ=ストロースだかリチャード・ドーキンスだかが言っていたもので、 文化人類学的な観点から導かれたものだ。

 

 

 もっと詳細に分析して考えを整理し直そうかとも思ったけど、ある程度まとまった言葉にしてしまったらかなりその気が削がれてしまった。こういうのよくある。

欲求にフォーカスしているか?

 最近こんなツイートを見かけた。

 

 

 はっとさせられた文章だった。

 これは言葉の選択の問題ではないのだ。自分に何らかの欲求が生じた際に、ちゃんとそれを自覚し、適切なプロセスでその欲求を満たせるかという問題なのだ。

 そもそも我々人間の性質として、それを行うのが得意ではない。欲求が満たされない状態が不快感として意識できるようなった際にはもう、その原因を他人の性質に求めているものだ。しかしそれはあくまで後から発見された「原因」であり、本当の原因ではない。不快に感じる他人の性質をいくら攻めたところで、原因ではないので心に影は居座り続ける。

 そういった構造を意識していないと、大人でもなかなかこの問題に対処できない。人間の習性というレベルなので、完璧に意識できる人間なんていないだろうし、そこそこ意識できる人間もまずいないだろう。しかし全くできないとなるとまずい。常に心が影に支配され、まるでいつだって環境に蹂躙されているかのように感じてしまう生き辛さに苛まれるだろう。本当は現状を変えられるのに、原因を他人に求めているから簡単には変えられず、きっと何もできずにすべてが終わる。

 これは極端な例だが、他人事ではない。例えばツイートの件だと、おそらく「羨ましい」を「ずるい」と表現したことについて説教したのだろう。しかしだ、それはあくまで言葉の選択の問題だ。親自身が、説教するほどの不快感の原因を他人に求めている。

 親を説教へと駆り立てるのは何か。欲求にフォーカスして考えてみる。そうやって考えてみると、おそらく「不快感を他人のせいにする人間になってほしくない」という欲求が説教の奥に見えてくる。

 そこで考えてみる。その欲求を満たすには、言葉の選択を注意することが適切なプロセスと言えるのかどうか。駄目というわけでもないだろうが、「羨ましい」という感情以外には通用しない。これは、親自身が「『羨ましい』を『ずるい』と表現する人間になってほしくない」というところまでしか自分の欲求を認識していないせいもあるかもしれない。そもそも「ずるい」の奥にある「羨ましい」を見つけ出した時点で素晴らしい功績なのでもはや重箱の隅をつつくようなものだが、もっともっと奥に行けるはずだ。

 ではどうするのがより適切かと考えてみると、「不快感を他人のせいにする人間になってほしくない」という欲求を素直に伝えることだろう。頭ごなしに良し悪しを伝えるより、自らの欲求を明確に言語化して他者に伝え、その欲求を満たしていくのを実践してみせるほうが、より高いレベルに導けるのではないだろうか。

 

 自らの欲求を言語化して他者に要求する力は、自由競争で生きていく上でかなり有利な力だ。良し悪しを説くのは、結局価値観が合う相手の同意を得るか、そうでなければ価値観の押しつけでしかない。「そうは思わない」と一蹴されたら敗北するしかない。

 そんなことを考えていると、思う浮かぶ言葉がある。

 

——求めよ、さらば与えられん

 

 この言葉の真意はわからないし、どういうニュアンスで広まっていたのかも知らない。しかしキリスト教の繁栄を見ると、この言葉が人々に欲求を明確に言語化して他者に求めていく方向へ導いていたように思えてくる。あるいは聖書の中の膨大な言葉の中でも、特にその言葉を強く覚えて意識していた人々が繁栄したから広まったのかもしれない。

 

 一方で不快感の原因を他人に求めてしまう人間の性質について考えると、かつて社会としてはさほど悪いことではなかったのかもしれない。なぜなら自分の問題を解決しても自分しか改善しないが、それを自分以外の不特定多数の改善点として転化すれば、多くの人が改善点を認識できる。改善がスケールしていくので、小さな集団での人間関係ではどうか知らないが、社会全体としては良い方へ向かっていくように思える。そう考えると、欲求にフォーカスして自分だけ得していくことは、人間社会に対する一種のハックなのかもしれない。 

 とはいえ、社会のために個人が生き辛さを感じてしまう世の中は嫌だ。こんなに情報が共有される時代なんだから、いちいち人のせいにしなくても改善点を共有できるはずだ。これからの時代は個人が生きやすく、そしてたくましく生きようとすることが否定されない社会であるべきだし、僕はそれを求める。

 だから自分に対しては躊躇せず何度でも問うていきたい。

 

——欲求にフォーカスしているか?

 

 

CGMプランナーと名乗ることにしてみた

 かねてから自分をどう表現すべきか悩んでいた。やっていることは「Webディレクター」や「Webプランナー」と言えなくもないが、それらは受託開発における役職のニュアンスも含んでいる。しかし受託開発なんてやったこともないので、そういった既存の肩書きはどうもしっくり来ない。探しても探しても、自分が掲げるべき看板は見つからない。こうなったらもう自分で考えるしかない。そんな結論に達した。

 では自分の何が価値を生み出しているのかなぁと考えると、「CGMを考えること」であるような気がした。それ以外のタスクもたくさんやっているものの、自分じゃないと出来ないことではない。「もし自分以外がやっていたら全く違う結果になっていただろうなぁ」と確信を持てる作業は、「CGMを考えること」だけだ。

 そもそもCGMとは何かというと、「コンシューマー・ジェネレイテッド・メディア」のことである。要はユーザーがコンテンツを投稿して成り立つサイトだ。世間に広く知られているものではないが、Webに慣れ親しんでいる人には説明するまでもない用語かもしれない。

 僕は多くのWebサービスを考えてきた。プロダクトになっていないものを含めると100以上ある。しかし多種多様なものを考えたわけではなく、その多くがCGMである。CGMを考える作業の大半はユーザー、つまり人間について考えることだ。人間がどういう欲求を抱くか、そしてどう欲求に応えるか。人間がどう動くか、そしてどう動かすか。そんなことをずっと考えてきた。その作業自体は僕でなくても出来るが、僕が考えたものと似たようなものが出来上がることはないだろう。そういう意味で代替不可能な役割を担っていると言えるはずだ。

 だからより希少性の高い性質を看板として表に出すならば、「CGMプランナー」が妥当なんじゃないかと思ったのだ。そういう肩書きを目にすることはあまりないが、Web界隈なら何をする人間なのかなんとなくわかってもらえるはずだ。そして少なくとも「Webディレクター」や「Webプランナー」なんていう、看板として貧弱すぎるものよりは強く機能するように思う。

 

 というわけで今日からCGMプランナーはじめました。

unityroomというサイトが素敵な件

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 以前クソゲーを作った。

 

web-ken.hatenablog.com

 

 Google DriveにHTMLファイルを置くとそれをWebサイトとして公開できる機能があり、それを使って上記のクソゲーを公開していた。しかしいつの間にかその機能が廃止されており、クソゲーはひっそりと姿を消した。

 レンタルサーバーにでも置けばすぐさま復活できるが、それはそれで面倒だった。クソゲーのためにそこまでしたくない。

 

 ゲーム制作ソフトのUnityが、WebGLという、何もインストールせずにブラウザ上でゲームやなんやかんやを動かせる形式で出力できるようになってしばらく経った。なのでそろそろWebGLでUnityゲームを投稿するサイトが生まれているだろうなと思い、探してみた。

 すると案の定、そういうサイトが見つかった。それがunityroomだ。ブラウザだけで遊べるゲームが集まっている。

 

 ゲーム投稿サイト unityroom - Unityのゲームをアップロードして公開しよう

 

 WebGLで出力したデータを投稿すればいいだけなので、クソゲーはすぐに復活した。

 

 スーパーカラバッジョワールド | ゲーム投稿サイト unityroom - Unityのゲームをアップロードして公開しよう

 

 もともと好きでGoogle Driveに上げていたわけでもなく、当時はちょうどいいサイトがなかっただけだった。いっそのことWebGLでUnityゲームを投稿できるサイトを作ろうかとも思ったが、ゲーム制作界隈の知見がなく、うまく運営していく感覚が掴めなかったので諦めたのだ。

 そんな中現れたのがunityroomだ。そういうサイトを自分で運営したい気持ちも少しあるが、勝手の分からない分野であるので、誰かが行動してくれるのは非常に助かる。今後利用者が増えるほどにUI等も改善されていき、どんどん素晴らしいサイトに育っていくことを願う。

 

 しかしunityroomの特筆すべき点はそこではない。

 最近unityroomでは1週間ゲームジャムというのが始まった。

 

 Unity 1週間ゲームジャム | ゲーム投稿サイト unityroom - Unityのゲームをアップロードして公開しよう

 

 一種の企画でしかないのだが、これはめちゃくちゃ強い。なぜなら文化を生み出し始めたからだ。

 コンテンツのプラットフォームというのは、コンテンツを直接育むことはできない。コンテンツはあくまで個々人が育んでいくものだ。プラットフォームが育むものは、文化だ。文化があってこそ、そこで個々人がコンテンツを育み始める。

 なんとセンスのいい一手だろうと思った。unityroomがWebGLのUnityゲームを投稿できるというだけのサイトであり続けたら、他のサイトでも可能なことなのでユーザーはunityroomに投稿し続ける理由がない。もっと洗練されたUIの似たようなサイトが現れでもしたら、一気にそっちがデファクトスタンダードとなってしまう。そうなったらunityroomは廃れていく。

 だが文化はそう簡単に真似出来ないし、移植もできない。そこに独自の文化が根付いているというだけで、代替不可能な存在となるのだ。

 1週間ゲームジャムは徐々に盛り上がりを見せている。まだ確固たる文化は築かれていないとはいえ、その気配はある。絶対そうなるとは言い切れないが、うまく運営すれば、いずれunityroomは代替不可能な存在となる。そして「似たようなサイト」なんてどこにもないと誰の目にもわかる日が来るはずだ。

 もし僕が投資家なら、どかっと出資しているだろう。もしくは丸ごと買い取っている。それくらい可能性のあるサイトなのだ。

 だからおい投資家! 見てるか! unityroomに金を出せ! 今すぐにだ!

素麺出しそうな顔して家系ラーメン出してくるのがジブリだったけどメアリは本当に素麺出してきたので星1つです!

 素麺出しそうな顔して素麺出すなんてひどい!
 家系ラーメンはどこなの?


『メアリと魔女の花』を観てそんな気持ちになってしまったけど、決して悪い作品ではない。
 まず冒頭のタイトルが出るまでの映像、いわゆるアバンタイトル。素晴らしい。アニメについて詳しいことはわからないが、「これって神がかってるんじゃないか?」と思わされた。テンポよく進み、無駄な説明もなく、映像自体が力強く語っている。米林監督の作品は初めて観るのだが、映像に関して類まれな才能を持っているに違いない。アバンタイトルをYouTubeで公開してるのかな? いや、してないだろうね。こりゃしてたら映画公開前から神映画として話題になっちゃうわ。なんて考えてたらタイトル『メアリと魔女の花』が出る。もうね、傑作の予感しかしないわけですよ。
 そうして穏やかな日常の描写が始まる。そうそう、さっき限界まで速くしたテンポで進めたわけだから、緩急を付けるためにここで一度テンポを落とすのは当然だ。やがて観客が緩やかなテンポに慣れたら一気に展開が変わり急転直下の……急転直下……急転直下の……ってテンポ変わらんのかーい! 映画終わっちゃったよ!
 なんということだろう。冒頭の予感は恥ずかしいくらいに的外れとなった。しかもだ、あの冒頭に関しても後から登場人物がご丁寧に解説しちゃうのだ。いやいや、あんなに素晴らしく映像で語れているのに、なんで台詞で説明しちゃうんだよ! もっと自分の映像に自信持てよ! 話の理解に必要な要素を示唆する程度にしときなさいよ!
 基本的にこの映画は等速直線運動で進むのだ。ストーリー構成はそこそこしっかりしているだけにもったいない。それはクライマックスの、ラピュタで言うバルス的なシーンにおいても同じだ。あの静寂からの「バルス!」で大崩壊、というメリハリの効いたシーンとは大きく違い、特にタメもない。メアリ風のラピュタだとこういう感じだろうか。


 ムスカ「時間だ。答えを聞こう」
 シータ「そうね、時間が来たわ」
 パズー「今からさっき話し合った答えを言うよ」
 シータ&パズー「バルス」
 ムスカ「それは滅びの呪文! 飛行石から強い光が! 私の目が激しく痛むぞ!」


 これではいかんのですよ。緩急がないし無駄が多い。例えば日本の食卓をメアリ風に描いたらこうなるかもしれない。


「醤油ある?」
「あるよ。使う?」
「うん。とってくれる?」
「蓋が壊れてるから気をつけてね」
「ありがとう」


 宮﨑駿だったら絶対にこんなかったるい会話しないだろうなぁと思う。


「醤油」
「ん」
「うわぁ」
「あ、蓋」


 くらいの会話で、あとは動きで見せてくれる気がする。
 とにかくまぁこんな愚痴を言いたくなるくらいに、馬鹿丁寧に話が進む。監督はすごく真面目なんだと思う。人格的にも素晴らしいんじゃないかと思う。エンドロール後に監督本人が出てきてプロデューサーや配給への謝辞を述べ始めないかヒヤヒヤした。


 また、ストーリーとは関係のない要素が少ないため、画面の情報量が少ないことも気になった。描き込みは相当なはずなのに、そう感じてしまった。
 たとえば大型船というのは、積み荷がなくても重りとなる何かを乗せ、船体を安定させる。その何かは「バラスト」と言う。
 これは創作においても同じだ。それ自体はあってもなくても変わらない要素がいくつもあることで、作品世界になくてはならない空気が醸成されるのだ。
 しかしメアリはバラストが少なすぎた。監督の意味不明なこだわりによって異常な情報量が与えられた要素が目に入ってこないのだ。宮﨑駿作品ならば、変態的情報量の要素がわんさか出て来る。もはやバラストの塊だ。
 このバラストの少なさは、作品世界への没入感にも直結する。たとえばメアリではアバンタイトル後、一体どこの世界を描いているのかがわからない。現代的な引っ越し用ダンボールが出てくるから、日本の田舎に引っ越してきた外国人一家かな? なんて思った。ところがバリバリの西洋で、携帯はないけどテレビゲームはあるというくらいの年代である。西洋の歴史ある風習かなんかをバラストとしてさらっと配置して、「日本じゃないどこか」である空気を醸し出してほしかった。植生も地形もぱっと見で異国だとわかるほど詳細に描かれていないので、日本の田舎と区別がつかない。そのせいで作品世界に没入するまで時間がかかってしまう。登場人物の一人である「ドクター・デイ」を主人公にしたらバラストの塊にならざるを得ないので、もしや傑作になったのでは? とも思ったり。


 とまぁこんな風にボロクソに言いたくなるものの、作品自体に絶対評価を下すとすれば、そこそこいい作品だ。星3つじゃたりない。星4つくらいはあげたい。もし世界名作劇場2時間スペシャルと銘打って公開していたら、もう「神回」と評判になること間違いなしの出来だ。
 しかし、メアリはジブリ感がありすぎた。作中にジブリのオマージュっぽいシーンもわんさかあった。まっさらな気持ちでそれを見せられたら、宮﨑駿との相対評価をせずにいるなんて無理である。「これはこれはあり」という道を自ら積極的に断ってしまっているのだ。そうなるともう「薄味ジブリ」である。星1つである。ぱっと見爽やかだけどよく見ると攻めすぎ変態作品を作る宮﨑駿と比較すると、「無難」だとか「攻めてない」だとかそういう感想が先行してしまう。悪い作品じゃないし才能ある監督だと思うんだけどね……
 少なくともあの冒頭は素晴らしかったのだ。もっと経験を積めば、どっかの時点で全編神がかった作品を作るようになるかもしれない。そんな期待を抱かざるをえない。
 監督はまだ44歳とのことだが、これから大きく成長する時間が残されていることを考えると、まだまだ宮﨑駿に負けてなんかいない。頑張って欲しい。

 

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雑にアウトプットしたほうが成長する

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 発信力を高めたいと思ったので、もっとアウトプットを増やすことにした。そうすることで気になったのが、どれくらいの質でアウトプットをするかということだ。
 普段からいろいろなことをインプットしているし、いろいろなことを考えている。が、その割にはアウトプットが少ない。その理由としては、特に言いたいことがないからかなと漠然と思っていた。
 しかし、それは違うのではないか、と感じ始めた。何かブログにでも書きたいなぁと思ったことがあっても、書かないことが多いのだ。モチベーションだとかそういうのは、書いてない事実を自分で認識した時に後から湧いてきた理由で、実際の因果とは関係ないような気がしてきたのだ。
 ではアウトプットを阻害する理由は何かと考えた時に思い浮かんだのが、質の問題である。
 僕は普通に文章を書く時、ある程度ちゃんとした文章を書こうとしている。だから殴り書きのようにして一気に書き上げることもないし、誤字脱字がないか、リズムが悪いところがないか、字面が悪くなりすぎているところがないか、一応チェックしている。それはまぁ文章を書く上で当たり前のことである。
 しかしだ、その「当たり前」を行う時間が生む価値はどれくらいだろうか? これから文章力を鍛えようとしている段階ならば、大きな成長をもたらすので大きな価値を生むし、文章があまりにもひどい場合にも大きな価値となるだろう。だがある程度書き慣れている場合には、あとは緩やかな成長でしかない。読む方も実際、小説じゃない限りはちょっとくらい文章に粗があったり誤字脱字があったりしても、ある程度ちゃんと書けていれば内容より重要視することは滅多にない。
 そして僕自身の場合においても、「発信力」という総合的な力の足を引っ張っているのが文章力だとはさすがに思えない。だから最低限のクオリティが確保が出来たら、そこからさらに良い文章にするために費やす時間を、弱点を強化する時間にあてたほうが総合的な成長の幅は大きくなりそうなのだ。文章にこだわるのは、文章力が足を引っ張り始めてからでも遅くないはずだ。
 今の状態で「発信力」の足を引っ張っているのは、おそらくアウトプットの少なさだ。だから他の時間を節約し、まずはアウトプット量を増やすことを重視したほうが成長できるのではないだろうか。

 とまぁこう考えたのだが、簡単な話ではない。慣れない物事には自意識の壁が立ちはだかるのだ。「ミスを人に見られる」だとか「能力を低く評価される」だとかそういうくだらない自意識が行動を制限する。それ自体をなくすことは出来ないが、他者から自分へ向けられたベクトルだけでなく、自分が他者に向けるベクトルも意識して、その上で合理的に判断すべきなのだ。自意識の囁きの奴隷になることと、どんどんアウトプットすることを天秤にかけて得する方を選ばないといけない。
 そのためにはシンプルで力強い概念を自分にインストールする必要がある。念仏のように唱えることで、自意識の壁を越えていく力を奮い立たせてくれる言葉だ。

 それが「雑にアウトプットしたほうが成長する」という言葉だ。

親指シフトよ、これ以上近寄らないでくれ!

 なんとなく、自分のタイピング速度は遅いと思っていた。しかし測ってみたら、「速い」と自慢できるほどではないが、「遅い」というほどでもなさそうなことがわかった。

 

 

 自分のPCを持ち始めた時はキー配列を覚えるためにタイピング練習ソフトなんかで練習したこともあった。しかし覚えてしまってからは特に速くしようと努力はしていなかった。自分のタイピング速度に対する認識はその時のままだったが、どうやらPC使用歴とともに速くなっていたようだった。
 ならば少し練習してみるもの面白いかもな、と思った。
 最近、新しいスキルを獲得するスキルという意味で使われる「メタスキル」というものに興味を持っている。そのメタスキルを観察するためには、成長のフィードバックがわかりやすい物事のほうがいい。そういう観点からも、タイピングのような短時間で結果が数値でわかり、運要素も少ないものはちょうどいいように思える。

 

 と、そこまで考えたところで、自分はタイピング速度で不自由していないことに気づいた。文章を考えるスピードにタイピングが追いつかなくて不便に思うことなど滅多にないのだ。
 ならば新しい入力方式を学ぶのも面白いかもしれないと思った。しかしかな入力は向いてなさそうだった。なぜなら僕は手が小さいので、キーボードの上のほうが打ちづらく、ローマ字入力のさらに上の段も多用するかな入力などフィジカル的にハンデを負いすぎるからだ。では他には……と考えて親指シフトという入力方式を思い出す。

 

 親指シフトというのは、キーの同時押しを駆使して効率的に日本語を打てるようにした入力方式だ。基本的に1文字1タイプなので、頭の中で発する音と手が動くタイミングがほぼ一致している。そのことにより、ローマ字入力よりも直感的にタイピングができるようになり、「指がしゃべる」だとか「キーボードが消滅する」だとか言われている。入力効率が上がるのでタイピング速度も向上するとも言われているが、それはあくまで副産物らしく、多くの親指シフトユーザーは快適性を一番に挙げる。大量の文章を書くのに向いているため、親指シフトに惚れ込んでいる文筆家も少なくない。あとMacでも簡単に導入できるらしい。
 詳しく知りたい人は以下の記事あたりを読むといい。

 

www.fahrenheitize.com

z0n0.com

yossense.com

ideasity.biz

 

 以前から存在は知っていたが、改めて調べると興味深い情報が次々と出て来る。親指シフトの世界は思ったよりも深く、僕にはまだ底が見えない。


 文章に関して調べていると、たまに僕をいざなう怪しい影を見かけることがあった。親指シフトだ。今までずっとそいつを無視していたが、今回は少し揺らいでいる。


 親指シフトよ、これ以上近寄らないでくれ!
 でないと君に魅入られてしまうかもしれない……

小説マストドン始めました

 これです。

 

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 マストドン(Mastodon)はすごい。
 何がすごいのかというとSNSなのに最初から楽しいのがすごい。
 普通SNSは何らかの方法で誰かと繋がらなきゃつまらない。
 それなのにマストドンは一人ぼっちで参加してもすぐ楽しめる。
 マストドンすごい。
 ぼっちに優しい。

 

 なんでいきなり楽しめるのかというとマストドンが1つじゃないからだ。
 大学のサークルのように趣味や目的ごとにたくさんある。
 だから自分に合った場所に参加すればいい。
 そこでは参加するとすぐに自分好みの投稿が読める。
 そしてみんなも自分の投稿をすぐに歓迎してくれる。
 マストドンには参加者全員の投稿が流れるタイムラインがあるからだ。
 登録したら既に趣味が合う人と相互フォローなTwitter。
 登録してすぐのツイートでも誰かが反応してくれるTwitter。
 そう考えるとマストドンすごくない?
 実際すごいんだけどさ。

 

 しかし問題があった!
 小説好きのためのマストドンがないのだ!
 仕様的にはマストドンは500文字も書けちゃうTwitterみたいなもんだ。
 文章で表現して文章で語るのが好きな人達にうってつけじゃないか。
 よしこうなったら作るっきゃねぇぞ!
 と思ってから結構時間が経ってしまったけど有力なものは未だに存在しない。
 そしたらやっぱり作るっきゃないじゃないか!

 

 当初はオリジナル小説を書く人に限定していた。
 でもそれはやめた。オリジナルも二次創作もなんでもかんでも招き入れる方針にした。書く人でも読む人でも構わない。「小説」という点で繋がっていれば運営次第でそれぞれのテリトリーを保ったまま共存できると考えたからだ。
 分断や排斥はプランニングの敗北なのだ。

 

 本来はオリジナルも二次創作も「小説いいよね」なんて語る場合においては分断される理由などない。一方が排斥される理由もない。分断や排斥は運営上の都合にすぎない。
 適度な距離感でお互いのテリトリーを保ちながら共存できるのが理想だ。

 

 かつて「即興小説トレーニング」というサービスでオリジナルと二次創作の共存ができずにやむなく「即興二次小説」というのを新設した。
 それは自分が力不足だったからだ。もっと高いレベルで思考すれば分断せずに相乗効果を生み出す道を見いだせたかもしれなかった。今となっては悔しさが募る。

 

 しかし今なら共存させられるかもしれない。オリジナルも二次創作もテリトリーを保ったまま共存する場所が作れるかもしれない。
 挑戦したくなった。
 制約の大きいマストドンでそんなことが可能なのかはわからない。また敗北するかもしれない。でもそれでも挑戦してみたいと思ったのだ。

 

 ——オリジナルも二次創作もお互いのテリトリーを保ったまま共存する。

 

 この小説マストドンでそんな理想の実現に付き合ってくれませんか?

 

kakudon.com

マストドンの真の強みはクラスタの可視化である

 近頃急にマストドン(mastodon)なるものが流行り出した。以前から名前は聞いていたものの、僕は流行り始めからやや遅れた先週末にマストドンの盛り上がりを知った。
 マストドンはTwitterを模倣したものであるが、調べるほどにマストドンはすごいものであるように思えた。
 そもそものTwitterの基本仕様はとてつもなく完成度が高く、もはやインフラとしての使用に堪えうるレベルにまで達している。となると、もはや本当のインフラに近づいていくのは必然だ。メールのように、決められたルール従ってみんなで乗っかるものになっていくのだ。
 その潮流に乗った大きな船としてマストドンがやってきた。

 

 ただ、ユーザーにとっちゃそんなことはどうだっていい。技術的な新しさだとか歴史的経緯だとか信用度だとか、そんなことは大きな問題ではないのだ。
 何が魅力か。ほとんどそれで決まる。

 

 じゃあ何がマストドンの魅力なのかと言えば、クラスタの可視化だ。インスタンスごとに何らかの方向性を持つようなアーキテクチャとなっており、いわばインスタンス=クラスタの性質を持つ。だからインスタンス内のローカルタイムランを見れば、クラスタの輪郭を簡単に確認できる。また、新規参入者でも発言すればそのインスタンスのローカルタイムラインに流れ、そのクラスタから存在が認知される。これは滅茶苦茶強い。
 Twitterのクラスタは、基本的にはTwitter以外の場所での繋がりが基盤となっていることが多い。だからTwitterからクラスタ内の人間や発言を確認しようとしても難しい。そしてクラスタの人間をたくさんフォローしたとしても、新規参入者のつぶやきがクラスタから認知されることも滅多にない。

 

 クラスタが可視化されると、登録してから楽しさを感じるまでの流れもスムーズになる。
 Twitterに登録した場合、最初に有名人をあれこれフォローしろとうるさい。なぜそうするのかというと、最初に5人だか10人だかをフォローしたユーザーは継続率が高いというデータがあるからだ。それはつまり自分が興味を持つ人を何人かフォローしないと、継続に値するほどTwitterの楽しさがわからないということである。
 一方でマストドンは有名人をフォローしろだなんて言ってこない。必要ないからだ。インスタンス内のローカルタイムラインを見れば、クラスタの活動、つまり自分と興味が一致する人達の発言で満たされている。もうそれだけでTwitterが必死になって伝えたかったTwitterの面白さの半分は伝わる。ローカルタイムラインから好みに合った人をフォローするのも難しくないので、もう半分もすぐに伝わってしまう。うん、強い。

 

 インスタンス=クラスタというマストドンの性質を考えると、既にTwitter上に存在するクラスタを呼び込むと、たぶん強いインスタンスになる。活発なクラスタを呼び込むことで、活発なインスタンスを生み出せるのだ。Twitter上でも活発なクラスタであっても、クラスタ内交流の相性はマストドンの方が高く、ローカルタイムラインによって新規参入もしやすい。クラスタのインフルエンサーをうまく呼び込むことができるかが鍵だ。
 逆に特定のクラスタを呼び込まないインスタンスは、強みを活かせないので長期的な運営が難しいだろう。黎明期なら「マストドン黎明期クラスタ」とでも言うべきものであるが、熱が冷めて日常のつぶやきが大半を占めるようになった時、クラスタが瓦解する。そうなってしまうと開墾し放題だったのが一転、Twitterと同じ土地を奪い合うことになる。倒し甲斐のある相手だが、とてつもなく厳しい戦いになる。

 

 そんなことを考えながら日本のインスタンスはどうなってるのかなと思って調べてみたが、この盛り上がりに対して既存のクラスタを呼び込んだ場所があまりにも少ない!

 

日本のマストドンインスタンスの一覧


 なんでだよ!
 もっと既存クラスタのインスタンス化進めろよ!
 マストドンはTwitterの墾田永年私財法だろうが!

 

 と叫びたくなるくらいマストドンの強みを活かしている人が少ないのである。マストドンの強みを僕がまるっきり勘違いしているのだろうか。それともインスタンスを立てている人の多くがマストドンの強みについて考えていないのだろうか。
 もし後者だったら面白いことになりそうなので、採算度外視でインスタンスを立ててみることにした。

 

 まずは正攻法として、既存のクラスタを呼び込む。オリジナル小説を書くクラスタにはすぐリーチできそうなので、彼らのためのインスタンスを作った。
 シンプルなkakudon.comというドメインが空いていたので、カクヨムあたりが取る前に取ってしまった。

 

 https://kakudon.com
 ※近日公開予定

 

 クラスタを呼び込むと言っても、ただ連れてくるだけじゃ駄目だ。参加者の振り分けが適切であるからこそ、クラスタとしての純度が高くなって面白くなる。
 だからそのクラスタの人に「自分のためのインスタンスだ」と感じさせ、同時にそのクラスタと親和性が低い人に「自分のためのインスタンスではない」と感じさせないといけない。つまりは明確なターゲティングと強い排他性である。
 排他性が強すぎると当然ながら人が集まらなくて全然面白くならないが、小説を書く人はそれなりに多い。とりあえずオリジナル小説を投稿したことのある人限定という、強めの排他性に設定してみた。
 インスタンスの人数が増えた時に、一瞥して自分の好みに合うかどうかを判断できないとスケールしないと思ったので、プロフィールに好きな作家か作品を書いてもらうようにした。こうして小クラスタを内包し得る仕組みにすれば、大きなクラスタに育っても瓦解しないのではないだろうか。

 

 そしてここからが本題。
 マストドンのインスタンス=クラスタという性質から、もう1つのやり方も考えられる。
 それはインスタンスの方向性を明確にすれば、今まで存在しなかったクラスタでも作れちゃうのではないかということだ。
 コミュニティというのはある程度恣意的に形成されるものではあるが、上下関係がない場合には、その文化においてはやはり自然の成り行きで形成される部分が多い。だから「自分の理想の場」なんていうのを思い描いても、そういう場を見つけたり作ったりすることは滅多にできない。
 ところがだ、インスタンスの方向性はかなり作り込むことができる。となると、クラスタが持つ文化もそこそこ意図的に作れるのでないかと考えた。

 

 僕は以前から、オリジナルのWebサービスを作る人達のコミュニティが欲しいと思っていた。技術的なことじゃなく、面白いものを作ろうとする意志で繋がる場である。
 そういう人達の小さな集いはそこらじゅうにあるものの、それは見知らぬ人が気軽に参加できるような場ではない。それでは駄目なのだ。たとえばたった一人で誰とも交わらず開発を進めてきた人が、ふと同じ道をゆく人と話したかった時に話せる場所じゃないと駄目なのだ。リアルでの繋がりに依存せず、意志のみに依存する場が欲しいのだ。
 インスタンスの方向性をうまく設定して、なおかつ人を集めることが出来たら、もしかしたらマストドンでそういう場を作れるんじゃないか。
 そう思うと、今すぐ作らなきゃいけない気がした。

 

 oriwebdon.com

 

「オリジナルのWebサービスを作る人のためのMastodonインスタンス」を強引に略し、oriwebdon.comというオリハルコンみたいな語感のドメインにした。オリジナルのWebサービスを作る人のクラスタという概念を刷り込む役割もあるので、すっきりしたドメインは放棄した。
 また、知らない人に質問や助言をいきなり投げる行為のハードルを低くするためのルールを設定した。マニュアルに従って何かを制作するのではなく、自分の作りたいものを作る場合には、常に何かに悩まされる。そんなとき気軽に情報をくれる場があれば素敵じゃあないですか。そして自分が持っている情報を気軽に提供して貢献できたら素敵じゃないですか。そんな場所が欲しいんですよ。

 

 というわけでオリジナルのWebサービスを作る人は、是非オリWebクラスタのインスタンスへ参加してください!

 

oriwebdon.com

 

追記

 技術的な問題でああだこうだ言っていた人でさえ、だんだんマストドンの凄さを実感してきたようだ。

cpplover.blogspot.jp

 

 マストドンの強みは新しいインターネットの境地を切り拓いていくのではないだろうか。

 

主人公問題

やっていき.fmの第7回を聴いている。

yatteiki.fm

まだ半分くらいしか聴いていないが、今週もとても興味深い話をしていた。

やっていき.fmのサイトには、「やっていき宣言」というのものがあり、そこの一文にこう書いてある。

モブよりも主人公 を、価値とする

今回出演していたgong023氏はそこに対して価値観の違いを感じており、自分なりの主人公観を語っていた。僕はその内容にとても共感できた。

詳細に述べるのは面倒なので、内容をざっくりとまとめたい。先程引用した一文では、自らのスペックで物事を打開していくタイプの主人公を理想としており、ともすればモブにあたる人物を軽視しているとも取られかねない。一方gong023氏は、誰よりも悩んであがき苦しみながら、多くの人の手を借りて問題を解決していくタイプがより理想的な主人公であると語った。

僕もどちらかと言えば後者に近い考え方をしている。前回書いたリーダーシップに関する記事においても、端的に言えば「リーダーシップとは心理的コストを肩代わりすること」と結論付けた。

ただ、これは「主人公」によりヒーロー的資質を求めるか、リーダー的資質を求めるかの差であるような気もする。この2つは相反するものではない。どちらの成分が多いほうがより価値観に沿うかどうかという問題である。gong023氏も、個々が高スペックでありながらモブを大切にしたりモブに徹することもできるのがさらに理想的であると語っていたので、ヒーローとリーダーの両方の資質を持っているほうが良いと考えているように見受けられる。

僕自身は、gong023氏に共感できるしリーダーとしての資質を持った主人公のほうがより好みだ。もしかすると、gong023氏よりもさらに好みが極端かもしれない。リーダー的資質を際立たせるため、思いっきり低スペックでヒーロー的資質が皆無なパターンなんていうのはかなりぐっと来る。

僕は誰もが自らの人生の主人公であると考えている。誰もが自分の人生を生きているのだから、主人公以外にはなり得ないのだ。

それなのに、多くの人は自分が主人公だと信じきれず、まるでモブであるかのように生きてしまう。人間は社会性を持つ動物なので、そういう習性があるのも仕方ないのかもしれない。しかしだ、何かを成し遂げたいと思ったらそれじゃ駄目なんだ。モブになりたがる習性を振り切り、自分が思う主人公らしい振る舞いをしないといけない。常に「主人公ならそうするか?」と問いただし、自らを主人公らしく変えていかないといけない。

そうやって自己改変を繰り返していくのが、僕の考える主人公なのだ。