売春が悪とされてきた本当の理由と非モテ童貞の真の敵

単純売春は禁止されていない

例えば僕が金持ち父さんで、とある♀とねんごろになり、しかもその♀に経済的な援助をしていたとしますにゃ。いわゆる愛人というやつにゃんね。これは少なくとも法的にはまったく問題にゃーよね、純粋に私的な関係での話ですにゃ。
警察権力というのは民事不介入が原則なので、私的な関係において性関係があるとか経済的に援助しているとかについては介入しにゃー。介入されたら困りものにゃんな。


で、この♂と♀の私的関係にゃんが、例えば僕がある♀にヒトメボレして、しかも向こうもまんざらではにゃーようで、デート誘ったらオッケーで、飯代もホテル代も僕がもって、しかも♀が経済的に困っているのを見かねてカネをだしたとしても、愛人のケースと同じようなものだよにゃ。法で禁止するような話ではにゃー。


性関係において金銭の授受があることそのものは単純売春などといわれるけれど、この単純売春を法的に禁止することはきわめてムツカシイ。親密な関係にある異性に金銭的な援助をすることを法的に禁止することなどできるわけはにゃーのだ。
というわけで、多くの自由主義諸国では単純売春を禁じる法律はにゃーわけだ。日本もその仲間。


売春防止法という法律で禁止され刑事罰の対象となっているのは、

  • 1. 売春勧誘(同法5条1号)
  • 2. 売春の周旋(同法6条1項)
  • 3. 売春をさせる契約(同法10条1項)
  • 4. 売春をさせる業(同法12条。俗にいう「管理売春」は、これに含まれる。)

などの売春を「助長」する行為である。


wikipedia:売春より


というわけで、「売春合法化」という主張を今の日本でするということは、勧誘・斡旋・売春をさせる業、などの合法化を主張するということになりますにゃ。

売春の何がいけないのか

売春は「被害者なき犯罪」の典型と言われますにゃ。


売春、賭博、麻薬、堕胎、ポルノ、自殺、不法移民、武器の所持などが典型例として挙げられる。シャーなどによれば「被害者がいないにもかかわらず、社会道徳的に悪であるから、あるいは社会的法益を侵害するからなどという理由により、これを処罰の対象としている国家が多い」との提起がなされた。そして、個人の自由を広く認める立場や、この類の活動の違法化は裏社会の温床となり、二次犯罪が多発して社会的被害が大きいとする立場から、これを非犯罪化ないし非刑罰化すべきである旨の主張がなされている。


wikipedia:被害者なき犯罪より


芸能ビザで入国させ、売春を強要するというような組織的強制売春が犯罪であることはいうまでもにゃーことだ。暴力団などの資金源になっているのはこれが大きいようですにゃ。日本がILO(国際労働機関)から人身売買について批判されたのは、この強制売春によるものでしたにゃー*1。
参考:http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-03-11/10_01.html


こうした強制売春の場合は、被害者がはっきりしているわけですにゃ。
しかしこれは売春そのものが悪いというわけではなく、他者を性奴隷として扱うことがダメだといえますにゃ。
売春を悪とする論者はいろいろと理由をあげるけど、それらのほとんどは売買春そのものが悪いということを論証することには成功していにゃーようだ。売春そのものが悪いということを論証したいのなら、

  • 教育を受け、経済的な余裕もあり、職業選択の実質的な自由がある♀が、自由意志に基づいて売春をすること

を禁止する理路をひねくりださなければならにゃー。


こうした事例を否定するためのロジックは主に2種類

  • A)道徳や公序良俗を個人の自由の上位に置く
  • B)性あるいは身体をニンゲンの尊厳の中核に置く


どちらも自由主義とは相性がよくにゃーんだな。

愚行権

加藤尚武「現代倫理学入門」講談社学術文庫P167によれば
自由主義の原則は、要約すると、

  • 1判断能力のある大人なら
  • 2自分の生命、身体、財産に関して
  • 3他人に危害を及ぼさないかぎり
  • 4たとえその決定が当人にとって不利益なことでも
  • 5自己決定の権限をもつ」となる。

ここで
3の原則を「他者危害原則」、4の原則を「愚行権」と言うのですにゃ。ここが自由主義のキモなんだにゃー。
他者の愚行(お馬鹿な行為)に対して、説得することはできても禁止することは「自由主義社会」ではできにゃーのさ。いったん「愚行」の禁止を認めてしまったら、公権力やら多数派の気に入らないあらゆる行為が「愚行」の名のもとに禁止されるのは明白なんだにゃー。自由主義の原則である私的自治を実効的なものにするためには、こういう考え方が必要になるわけですにゃ。


この自由主義の原則をあてはめると、売買春を禁止することは非常にムツカシイことになりますにゃ。
先ほどのAなんだけど、
道徳や公序良俗が法的な保護に値するということはわかるけれども、それらが個人の自由に優越するとカンタンに言えることではにゃー。また、売買春を禁止することこそいっそう不道徳な事態を招き公序良俗を乱しているという批判が、この主張にとってブーメランとなってくるわけですにゃ。
次に、Bの主張なんだけど、
これは一種の信仰告白なのではにゃーかと。1万歩くらいゆずって、仮に性・身体をニンゲンの尊厳の中核に置く考え方が万人にとって妥当なものだとして、ここで主張されているのは愚行をする権利でしてにゃ。「ええ、愚行ですがそれが何か?」というだけのことですよにゃ*2。

売春が悪とされた本当のわけ

この話を細かくするとキリがにゃーので粗っぽくいきますにゃ。


ここではあまり突っ込む余裕はにゃーけど、キリスト教の異様なセックス嫌いというのがまずありますにゃ。創唱宗教というのはセックスに厳しいものだけれど、キリスト教のように体位まで指定して、正常位以外は罰したなどという神経症的な宗教は他ににゃーですね。
で、そういう穢れた行為であるセックスを正当化する唯一のものが「愛」だったわけですにゃ。ロマンティック・ラブ・イデオロギーにゃんね。日本は明治期にキリスト教的なロマンティック・ラブ・イデオロギーを輸入したので、こういう考え方が根付いてしまったという面がありますにゃ。


キリスト教における♀の伝統的なイメージというのは、「聖女」と「悪女(誘惑者)」の二極的なものですにゃ。聖女性というのは聖処女マリアとかジャンヌ・ダルクのイメージですよにゃ。一方、誘惑者というのは智慧の実を食べるようにアダムにそそのかしたエヴァのイメージですにゃ。性的にアクティブな♂というのは、キリスト教世界では近代以降のイメージであり、長らくは性的にアクティブかつ貪欲であるのは♀のほうだということになっていたのですにゃ。
で、あと述べるけど、この「性的にアクティブな♂」ってのが資本主義の原動力のひとつにゃんね。


ただ、売春を(正確には売春婦を)悪と見なす考えはキリスト教に特有のものともいえにゃーですね、儒教や仏教でもそういう見方はあるようですしにゃ。
共通項として父系の財産相続があると僕は考える。
バッハオーフェンが構想した母権制というのはどうやら夢想だったようだけれど*3、母系制というのは実際に結構あるようですにゃ。日本においても近代まで残っていたようにゃんね。
で、母系制の場合は財産相続が母系で行われる、つまり父親が誰かは財産承継において関係なくなるんですにゃ。だから、♀のセックスを管理する必要性が原則的になくなるんですにゃ。日本が江戸時代まではセックスについてはユルユルの社会だったのは、根強く残っていた母系制的感覚のおかげだという話もありましてにゃ。


とにもかくにも、父系で財産などの権利を承継するのであれば、♀の性を管理する必要があるってのは自明となりますにゃ。ガキの父親が誰かをはっきりさせにゃーと、この社会システムは成立しにゃーもんね。
というわけで、不特定多数の♂とセックスする♀は、それだけでこの社会システムを乱す悪役となってしまうわけですにゃ。


さらーに、♂側としては一夫一婦制においてこそ売春というシステムが必要だったという事情がありましてにゃ。

  • 父系のイエ相続のために、家長は妾をもつことを奨励までされた
  • 独身男性の性的欲求を満たす相手が必要だった

つまり、ガキをつくるためのスペアとか、独身♂の欲望を満たす相手として、「聖女」つまり母・妻・娘をもってくるわけにはいかにゃーわけだ。「聖女」のセックスはちゃんと管理しておかにゃーといけにゃーからね。ここに売春婦の必要性が出てくるわけですにゃ。


そのうえ、だ
不特定多数とセックスする存在をおとしめることは、その性をコントロールすべき母・妻・娘への効果的な恫喝となるんだにゃ。
「幼きにおいては父に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従う」のでなければ、売春婦としておとしめるぞ、と。いつだって分割支配は有効なものですにゃ。

  • 聖化された母・妻・娘と、おとしめられた売春婦、この両者が♀のセックスをコントロールするためのシステムの車の両輪

ということですにゃ。うーん、にゃんとうまくできたシステム。
売春婦蔑視は、社会の必要性において作られたものですにゃ。


カネがなければセックスできません

さて、明治政府は夜ばいやらを禁止すると同時に、♀の経済的地位を奪うような政策を行いますにゃ。自分でカネを稼ぐことができなくなると、♀は♂に頼るしかなくなりますよにゃ。具体的には、貞淑な妻となるか売春婦となるかということですにゃ。
実際に江戸時代末期には離婚率は60%以上だったのに、明治になると離婚率が激減(10%台だったと記憶している、自信ないけど)したという話がありますにゃ。


♀に経済力があるということは、自分の好みの♂を適当にパクパクできるということを意味しますにゃ。♀に経済力がなければ、自分の好み以上に経済力を考慮して♂を選ぶ必要が出てくるわけですにゃー。


農村にも都市の長屋にも夜ばいシステムはあり、もちろん美少年がもてたということは間違いにゃーようだけど、それでも親切なおねえさんとかおばさんとかがいて、たいていの♂はちゃんと手ほどきを受けていたということらしいにゃ、明治以前は。
非モテ童貞なんていなかったわけ。


ところが、庶民の乱交を禁止して、♀の経済力を奪うとどういうことになるかというと、♀は自分の好みで好き勝手に♂をパクパクすることができなくなる。妻となるにしろ売春婦となるにしろ、カネのある♂以外は相手にできなくなるわけですにゃ。
というわけで、♂は♂で、働いてカネを稼がにゃーと、セックスすることができなくなっちゃたんですにゃー。にゃんてこったああああああああああ!


これがまた資本主義に都合がたいへんよろしいことは火を見るよりファイヤー。
江戸時代の町人は、月に数日しか働いてなかったというけど、最低限のメシが食えて、自立した♀とただでセックスできれば、それ以上働く必要なんてにゃーだろ? 僕なら働かにゃー(きっぱり
長屋では♀がガキ産んでも、誰の子かわかんにゃーのでみんなで世話してたって話だし、教育費だってそんなにかかんにゃーので、過剰に働く必要ナシ。


働かなければセックスもできにゃーようなクソ社会にしてしまったなんて、僕たちはご先祖様にどうおわびすればいいんだろか?

一身に属する権利

さて、話を戻しますにゃ。
経済的な自由がなければ、自由などは絵に描いた餅にすぎにゃー。だから、♀の経済的地位がまだまだ低いのに、売春の合法化とか自由化といってみても、それは抑圧にしかならにゃーといえますにゃ。経済的自由のないところに、性的な好みを選択する自由などはにゃーのだ。
そして、♀に性的な選択の自由がないとき、経済力のない♂もまた性的に疎外され抑圧されるということもまた明らかなのですにゃ。


しかし、だがしかし
だからといって、セックスと経済的な見返りを交換することそのものが否定されるわけではにゃーのだ。


専業主婦って何だ?
ガキを産んで育てることも含めた性的資源を夫に独占させ、そのかわりに経済的な見返りを求める存在だという見方は十分に成りたちますにゃ。♀に経済力がまったくにゃーとしたら、「夫の専属売春婦」あるいは「不特定多数の妻」あるいはその中間のどれかしか選ぶことができにゃーのだ。
では、経済力があったとして、性的な資源をパートナーに提供しつつ経済的な庇護をえることに問題があるかというと、べつにオッケーだよにゃ? 
ならば
性的資源を独占させるのはオッケーで、不特定多数はダメってどうよ?
長期リースはオッケーで、レンタルはダメってか?

  • 現代社会においては、自由な意志に基づく性的な選択は抑圧されている

というのは事実であっても、そこから

  • だから自発的意志の発露としての売春は存在しないので、禁止せよ

を導くことはできにゃー。
「社会がゆがんでいるので自由意志はありません」、という論法は成りたたにゃーんだ。

暫定的な結論

性差別と欲望で駆動する社会においては、結婚制度と売春制度・聖女と娼婦は相補的な関係にあり、そこでは自由な性の選択は抑圧される。しかし、売買春つまり性的資源と経済的資源との交換を否定するロジックは自由主義には存在しない。
恋愛の自由(含、恋愛しない自由)とは自らの性的資源の処分権であり、それは一身に属する権利ということができる。
一身に属する権利としての売春する権利があるからこそ、強制売春は決して認められない。

*1:売春合法化がこうしたタイプの強制売春を撲滅する特効薬になるとは思えにゃー

*2:「奴隷になるという愚行は認められるか」という話をだすとものすごくややこしくなるけど

*3:心理学的には母権制にもみるべきものはたくさんあると考えますけどにゃ