今から10年前の2011年3月11日、マグニチュード9の東日本大震災が起き、東京電力福島第1原発が大津波に襲われた。停電となり原子炉の冷却ができず、3基がメルトダウン。大量の放射性物質をまき散らす大惨事となった。絶対安全を掲げて誕生したはずの原発。それは、もろく危うい、「砂の上に立つ城」だった。事故前に大津波を警告する声はあった。だが東電や監督する国が迅速に動くことはなかった。なぜか―。原発と地震の歴史をひもといて〝謎解き〟に挑みたい。(共同通信=鎮目宰司)
▽乏しい知識
太平洋に面する東日本沿岸部は過去に何度も大きな津波に襲われた。平安時代の貞観地震(869年)、江戸時代の慶長三陸地震(1611年)、延宝房総沖地震(1677年)、そして明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)などによる津波だ。
政府機関の地震調査委員会は2002年、地球を覆う巨大なプレートの境界「日本海溝」で起きた1611年、1677年、1896年の3地震に注目し「日本海溝のどこででも大きな津波を伴う地震が起こりうる」との予測をまとめた。「長期評価」と呼ばれるこの予測を重視すれば、福島第1原発でも大津波への備えを固めなければならないはずだった。
福島第1原発の建設計画は地震や津波の知識が乏しかった1960年代に決まった。1号機の建設で高さ約35mの台地を約25m削って海抜10mの敷地を造り、敷地を14m掘り下げた海抜マイナス4mの地下に原子炉を置いた。
地下の頑丈な岩盤に基礎を造り、原子炉の冷却用の海水をくみ上げることなどを考えた結果だったが、敷地が低いほど津波には弱くなる。
東北電力女川原発(宮城県)が建設時に敷地を約15mへとかさ上げしたのとは対照的だ。江戸時代以降に再三、大津波が来た宮城や岩手に比べて、来なかった福島では津波への危機感は少なかったからだ。
▽津波に弱い設計に
福島第1原発では、1960年のチリ地震津波を考慮して津波の高さを約3・1mと想定した。
港湾からのアクセスを考えて海沿いの敷地は一段低い4mの高さとし、海水を取り込むポンプを置いた。高さ10mの敷地には原子炉建屋が造られ、その海側に隣接して発電機を格納する「タービン建屋」を置いた。外部からの送電が止まった停電時に用いる非常用発電機はタービン建屋の地下に設置した。発電機は重く、その方が構造上安定するからだった。
こうして、皮肉にも津波に弱くなる方向に1号機は設計、建設された。その後、同じような設計で次々と原子炉が増設されていった。
▽黙っていた方がいい?
1号機の運転開始は1971年。40年後に襲来する大津波のことは考えていなかっただろう。だが、過去の巨大地震の研究が進むにつれて福島だけが安全なはずはないことが次第に明らかにされていった。
原子炉が6基もある発電所に大津波が来るかもしれないと指摘されたら、責任者はどう考えるだろうか。「まさか、そんなことが」「確証はあるのか」。実際、東電はそう考えたようだ。
政府が3・1mの津波を想定する1号機の建設を許可したのは1966年だった。いったん政府が出した許可は基本的には覆らないので、同じ敷地の2~6号機も同じ想定を踏襲することになる。「もっと高い津波が来るかもしれないので想定を変えます」と申請することはできるが、それは「今のままでは十分な安全を確保できない」と表明するようなものだ。
地元の自治体は、もっと高い津波が来ても耐えられるよう対策が終わるまで原発を運転するなと求めるだろう。全面停止だ。ここからは想像になるが、対策工事が終わるまで黙っている方がいい。大津波のリスクは検討するが、運転を止めてすぐに対応する必要はない―。そう考えたのではないだろうか。
東電原子力部門のトップとして業務上過失致死傷の罪に問われた武藤栄・元副社長は2018年に東京地裁で発言した。「安全は維持できていた。(事故は)いかんともしがたかった」。(つづく)
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