「表現の自由」否定するメディア 皇族会見報道の倒錯 不可視の天皇制(1)

 1990年11月22日深夜。皇居・宮内庁の記者クラブ休憩室で、私は毛布をかぶりソファにうずくまっていた。少しでも眠って早朝からの仕事に備えたい。しかし先輩記者の声が私を引き戻した。

 「見ておいた方がいいよ」。起き直って答える。「いや、僕はいいです」 「君がどんなふうに思っているか知っているけど、見ておいた方がいい」。先輩は繰り返した。

 確かにそうかもしれない。記者なら見るべきものはすべて見て、感じ、考え、伝えるのが本当だ。私は自分の感情にとらわれすぎている。

 のろのろと立ち上がった。日付は替わり、23日になっていた。もう今夜の記事に付け加えることは何もない。ただ見るためだけに、真っ暗な皇居の杜を、大嘗祭(だいじょうさい)の舞台・皇居東御苑の「大嘗宮」に向かった。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

 28年を経て、あの祭祀(さいし)が再び歴史の表舞台に引き出され、その意味が問われようとしている。まず問題の所在を明らかにしなくてはならない。共同通信配信記事の冒頭部分(リード)を引用する。

 53歳の誕生日を前に記者会見される秋篠宮さま=11月、東京・元赤坂の宮邸、代表撮影

 ―秋篠宮さまは30日、53歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち東京・元赤坂の宮邸で記者会見し、天皇の代替わりに伴う重要祭祀「大嘗祭」について「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と指摘し、さらに「できる範囲で身の丈に合った儀式」にすることが「本来の姿」と持論を明かした。宮内庁の山本信一郎長官らに意見を伝えたが「話を聞く耳を持たなかった。残念」と批判した。(中略)代替わり後に皇位継承順1位の「皇嗣(こうし)」という重い立場になる秋篠宮さまが、政府の決定に異議を唱えたことが波紋を広げるのは必至だ―

 リードに続き、大嘗祭の内容を説明し法的な問題を指摘した後、こう続ける。

 ―秋篠宮さまは発言の前提として、新天皇の「即位の礼」など国事行為については発言できないが、大嘗祭のような皇室行事は「私の考えがあってもよい」と語った―

 前段は国事行為(即位の礼)については発言できないとし、後段で皇室行事(大嘗祭)は「私の考えがあってもよい」と切り分けている。会見詳報を読むと、真意はどちらにも自分の考えはあるが、国事行為については立場上「言うべきでない」、しかし天皇家の私的領域にある皇室行事については「発言してもよく、その考えは政府によって十分に参酌されるべきだ」ということになるだろう。

 「参酌されるべき」とまで言えるのは、リードで「宮内庁の山本信一郎長官らに意見を伝えたが『話を聞く耳を持たなかった。残念』」と述べたとされているからだ。

 それにしても彼にはなぜ「発言できない」領域があるのだろうか。

 人は自由にものを感じ、考え、自由に表現することができる。これは基本的人権の中でも優越的な権利とされる。なぜ優越的なのかといえば、表現することは人が「生きる」ことそのものだからだ。私はそう解釈している。どのような立場にある人にも、人としての核心的な権利として、それはある。

 この自由の行使が法的に制限されたり、違法と評価されたりするのは、その表現が誰かを不当に傷つけたり、極端に社会常識に反して不快だったりする場合だろう。

 国事行為について語ることも、皇室行事を云々することも、私たちは制限されない。だが、それを制限される(もしくは問題視される)人がいる。皇族がそのような立場にあるということを、このたびの事態は改めて明らかにした。

 例えば、朝日新聞の社説は次のように述べる。

 ―お仕着せでない肉声が発信されるのは歓迎だが、来春には皇位継承順位第1位となる立場を踏まえ、テーマや表現については慎重な対応を望みたい―

 毎日新聞社説も同様だ。

 ―秋篠宮さまは来年5月から皇位継承順位1位の皇嗣(こうし)になることが決まっている。発言が社会に与える影響は大きく、慎重さが求められる―

 「慎重さが求められる」とか「慎重な対応を」というのは、慎重なら発言してもいいという意味ではないだろう。詳報を読む限り、その発言は十分に吟味され、慎重になされているように思われるから。そうではなくて「しゃべるな」ということの婉曲表現ではないのか。表現の自由を根拠として活動する報道機関が、他者の発言の内容にではなく、発言すること自体にクレームを付けるとはどういうことだろう。倒錯した事態でないか。

 そもそも誰かが何かを発言するとき、慎重かそうではないかという内面的態度を、メディアが発言の条件として設定すること自体、おこがましい。発言者は発言に責任を負う。メディアはねじ曲げずに伝える。それがお互いのルールだと思う。

 だが、法はそうなっていない。人権の大切さを高らかに宣言したはずの憲法自身が、天皇・皇族については、表現の自由と矛盾する条項を持っているのだ。 それは戦後のこの国の出発点への懐疑をもたらさずにはおかない。「大嘗祭への国費投入の可否」も「長女の結婚」をめぐるあれこれも、この根本問題の派生系にすぎないのではないか。

 そして、私たちはこの根本から目を背け、これからも目を背け続けようとしているのではないか。=この項続く

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