核武装したらどうなるんだろうか?の経済学

『電気と工事』1月号から転載

 最近は本当に物騒になってきても、なんでもテレビで核武装のアンケートの話もあったとか? 正直、やれやれ、というのが感想だ。ネットをみても核武装しないといけない、日本はアメリカ依存から脱却して、東アジアで安全に生き抜くためには核武装を考えるべきだ、などなどという発言が目につく。一部では政治家たちも公言しているくらいだ。ここでは、ちょっと日本が核武装した場合について経済学の視点から考えてみよう。まあ、断定的な結論を出すというよりも、いままでどんなことがいわれてきたのか、考え方の整理をしてみたい。

 冷戦体制の間は、日本は米国の「核の傘」をさほど問題視することもなくフリーライド(ただ乗り)をしていたというのが通説だ。ただ米国の同盟国の中では、東アジア地域の日本や韓国は、NATO諸国に比べると、ただ乗りの度合はかなり低い。つまり日本も韓国も米国にただ乗りはしていたんだけど、それなりに防衛(ないし軍事)支出を増やしていた。日本では70年代後半に防衛費のGNP1%枠(いまはGDP)の議論が出てくるまでは、高度経済成長期などは特に経済成長率が高いのにあわせて、防衛費が増えていた。

 ちなみに一般的に、防衛費は経済成長に長期的にはほとんど貢献しない。ただ短期的には、防衛支出の増加は景気対策として有効であることは知られている。ただそれが中長期的には、資源の浪費に結びつきやすいということだ。

 ご存じのように冷戦が90年代初めに事実上終わり、それをうけていままでの米ソ対立の構図から、どのように新しい安全保障を構築していくか、世界中の経済学者やまた当時の日本の経済学者たちは議論を重ねた。いまから考えると、この90年代はポスト冷戦を経済と安全保障の再構築として真剣に議論していた時期にあたる。それが90年代終わりからの日本経済の低迷やまた9.11による国際的なテロ、「テロとの戦争」などをめぐる問題にひきずられてしまい、日本が極東でどのように安全保障を構築していくかを、少なくとも経済学者たちはほとんどまともに考察しなくなってしまった。

 90年代、安全保障の経済学を真剣に多くの学者たちが考えていたときに、福岡大学教授の服部彰先生は、論説「核兵器開発の経済的帰結」(1996年)の中で、まさに核武装についての経済学的考察を公表していた。服部氏は、なぜいくつかの国々は、核兵器を保有したがるのか、その経済的なインセンティブを、需要の面と供給の面から解説している。まず核兵器を求める側(需要)だが、それは冷戦が終わったことで、米ソにただ乗りすることで、地域の安全保障のコストもついでに払うことができた同盟国が、自分たちで地域の安全保障を償う必要がでてきた。そのため核を保有する政治的だったり、経済的な価値などが上昇した。また米ソなどで働いていた多くの核兵器開発の技術者や専門家たちが、いまや働き場所に困ってしまっている。核兵器の製造も抜け道だとかなんだかんだでわりとお安く利用できるようになったという供給面でもコストダウンがあったりする。

 この需要と供給を背景にして、では、仮に日本が核保有を決断したとしよう。まず最初の政治的難関は、例の不出来な国際条約(だって抜け道いっぱい)である核不拡散条約にどう対処するかである。正々堂々(?)と脱退していったのは、いまのところ北朝鮮のみである。ほかの国々は条約以前からすでに持っていたり、または持っているのに持っていないといったり、あるいは持っていることをいろんな理由で弁解しているなど、さまざまだ。これはある保守系の論客の話だけど、韓国はすでに核兵器の保有宣言を数年以内にするのではないか、という。もしそうなればそれは研究・開発を隠密にすすめて、いきなり公式に宣言する立場ということなのだろう。
 服部先生の論説ではこの堂々路線以外にふたつの方策を提示している。どれもかなり戦略的な選択肢だ。

「核兵器の開発に関しては、2つのやり方を区別しなければならない。1つは米国型であり、秘密に開発し、実験して、保有を宣言する方法である。もう1つはイスラエル型であり、秘密に開発し、実験は行わないで、あとは不透明な状況を維持する方法である。つまり、世間の目が厳しいときには後者の方法で戦略的補完関係に対処できる。」

 ここでいう「戦略的補完」については、いまの安倍政権の内閣参与である浜田宏一先生の論説「日本の平和憲法の経済的帰結」から引用しておこう。

「ところが最近の問題というのは、悪の帝国がなくなってしまったわけです。そうしますと、日本と韓国と台湾と中国とマレーシア間の問題というのは、共同の敵に備えていかに相手国に軍事費を使わせるかというただ乗りの議論ではなくて、もしかして隣の国が侵略してきたときどう守るかという問題となります。そういう意味では戦略関係が冷戦中の公共財の議論とは違ってきます。冷戦中は相手が使うときは自分はさぼっていいという公共財の議論だったのですけれども、そうではなくて、相手が支出したらそれを守るために一層支出しなくてはいけないということになります。そういう形での軍拡競争というのができる余地があります。それはゲーム理論で、初めの冷戦中のケースを戦略的代替関係、後のケースを戦略的補完関係といいます。」

戦略的補完関係のある場合で、国際世論の眼が厳しいときは、さきほどの服部先生の提示した2のイスラエル型を日本も選ぶのかもしれない。

 あと忘れてならないのは、このような政治的なコストだけではもちろんない。通常兵器よりも核兵器は確かにコスト効率は確かにいい。物騒だが、一発あたりの兵器としての効果の対費用効果はわりやすなのだ。だが製造するための初期投資、関連する維持経費(防空システムなどのメンテ、開発など)、処分などを勘案すると非常に高価な事業となり、一国の防衛予算の大部分を奪いとってしまう。抑止力をもたせようとするとさらに大規模な投資が必要だ。これを払うだけの意味が、政治的・経済的にあるだろうか? 
先にも書いたように、この種の核武装のコストは日本の経済成長には中長期的にはなんの恩恵も与えないだろう。僕のいまの暫定的な結論は、こうだ。どう考えても紛争可能な周辺国への抑止力としてはあんまり出来がよくないんじゃないか、ということ。むしろこの種のコストを下げる努力をしたいものである。