対談・鼎談
『西郷隆盛』海音寺潮五郎、『翔ぶが如く』司馬遼太郎|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談
丸谷 今日は、これまでのようにまず片方を論じてから次の本に移るのじゃなくて、両方一緒に論ずることにします。
海音寺さんの『西郷隆盛』は伝記である、と自分で性格規定をしています。同時に幕末維新史も兼ねていて、『幕末・維新史と西郷隆盛』になるだろうといっている。昭和三十六年に書き始めて昭和五十二年に亡くなられるまで書き続けた。
海音寺さんは小説的虚構を排して実証的な筆致で書いており、描写よりは叙述で話を運ぶし、推定や想像はすべてその旨を明記しています。そのこだわり方は神経質なくらいで、それが非常におもしろい。
たとえば安政四年の四月、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)が江戸から帰国する途中、京の御所に立ち寄り、玉砂利にひざまずいて皇居を伏し拝んだ。そのあと、海音寺さんの書き方ではこうなる。
〈皇居は安政元年の四月に炎上して、この頃はもう再建されてはいたが、江戸城の宏壮におよぶべくもない。尊王はこの時代の思潮である。斉彬の心中に去来したものが何であったか、容易に想像がつく。この時の従者の中に西郷がいた記録はないが、きっといたに違いないと思う。果してそうなら、西郷の感懐もまた推察できるであろう〉
こういう実証的な調子で手堅く書いてゆくわけです。しかし肝腎かなめのところになると、小説家としての心の動き、筆のくせが堰(せき)を切ったように出てくる。
たとえば、月照という坊さんと西郷とが抱き合って薩摩灘に入水した有名な話があります。そこはこういうふうに書かれている。
〈やがて、月照は身をかがめて、右手を海にさしのばした。順風に乗って矢を射る速さになっている船首に切られる波がしらは白くくだけて激し上り、音を立ててその手を洗ったろう。月照は左の手も洗った。身をおこし、袖で両手を拭き、右手を上げてうやうやしく西方を拝んだかと思うと、左手を西郷の方にさしのばした。西郷はつと寄って右手をのばした。二人は肩を組み合った。次ぎの瞬間、二人はおどって船ばたを離れた。すさまじい水音が立ち、しぶきがきらきらと光りながら高く上った〉
こんなふうに、いわば史伝家としての方法と、小説家としての方法とが、せめぎあっている。それは西郷が海音寺さんの大好きな人物で、いわばこれは惚れぬいて書いた伝記だからです。逆にいえば、惚れぬいて、自分の目が愛情の涙に曇っていることをよく知っていればこそ、厳密な実証性という枠をはめようとしたともいえる。
海音寺さんはまず西郷隆盛の外見に惚れるんです。男っぷりがいいというんですね。本当にそう思いこんでいる。で、次には性格に惚れ、見識に惚れ、何から何まで無茶苦茶に気に入っている。たしかに惚れなければ魅力がわからないということはあります。
しかし、たとえばこういうところがあるんですね。薩摩には昔から「議を言うな」という言葉があって、年長者がこの一言で年少者の言論を封じた。これは、男は行動的であるべきだ、口舌を弄するのは男らしくないという考え方が根底にあるのだ、と海音寺さんはいっている。そして当時の薩摩の若い下級武士グループの中で、議をいう代表は大久保利通であり、議をいわない代表が西郷隆盛だと述べている。これはどうも大久保に対して不公平な気がするんですね。なにか大久保を貶めようとする話の運び方のような気がする。
沖永良部(おきのえらぶ)島から西郷が赦免されたとき、別の島に流されている村田新八に対しては、赦免状が出なかった。そのことに西郷がいち早く気がついて、「自分が責任とるから連れて帰ろう」といったというんですね。大久保ならそんなことをいわないはずだとして、西郷の人情の厚さに感嘆している。こういう西郷と大久保の比較ならぼくは非常によくわかるし、納得がゆくんです。けれども――
〈(西郷の目的は)日本を道義国家たらしめて、為政者は清廉高潔、民の疾苦に常に心をおき、民は圧制なき政治の下において豊かで幸福であり、外国との交際は最も道義的である国としようというにあった〉
とあり、大久保は日本を警察国家として、統制しやすい組織の国にした。
〈統制主義は大久保の最も好きな方式で、統制主義者島津久光の下で鍛練を重ねて来ている〉
こうなるとぼくは疑問をもつんです。こういう儒教的倫理による永久革命者、ユートピア的社会主義者ならぬユートピア的社稷(しゃしょく)主義者である西郷ははたして具体的な尊敬に値する人物だろうか。それに西郷ひとりだけがこんなに偉くて、彼以外はみな、これほど欠点が多い人物だったならば、あれだけの大革命がどうしてうまくゆくものだろうか。どうもこの『西郷隆盛』は合点がゆかない節がある。で、ぼくがこの本で注目したのは、むしろこの異様な人物を、辺土のごく低い身分の、さほど学識のない若者から、一国を代表する精神的存在にしてしまった幕末、維新という奇妙な時代のたいへんなエネルギーです。
そういう特異な時代相を緩急よろしきを得た筆致で綴った史書としては、なかなかの読物になっていると思います。
次に『翔ぶが如く』。
司馬さんの『翔ぶが如く』は明治五年の冬、川路利良(よしとし)が西郷にすすめられてフランスへ行き、パリに着いたところから始まります。川路は薩摩の出身ですが、パリで学んだものはナポレオンの警察大臣フーシェへの尊敬でありました。日本に帰った川路はまず大久保に会い、警察制度をつくる案を出した。西郷は、維新後、近衛兵と首都警察を薩摩出身者で固めたんですが、近衛の頭は陸軍少将の桐野利秋、そして首都警察の頭は川路だった。二人とも、西郷の腹心なんですが、川路のほうはのちに西郷から離れてゆかなければなりません。征韓論が起こって西郷が東京を去り、近衛将校が集団辞職します。しかし川路は「西郷先生とのことは私事」と割り切って辞職しなかった。
明治九年に川路は、警視庁に勤めている薩摩出身者二十三人を鹿児島に帰郷させ、東京政府の立場を宣伝しようとした。表向きはそうですけど、この二十三人は実は全部スパイであったと考えて差し支えない。
激昂した私学校生徒たちは、薩摩にある政府の火薬庫を襲った。もうこうなっては半月後に西南戦争が始まるしかなかった。
というふうに、川路利良という数奇な運命の薩摩人を中心にして見てきたわけですけれども、やはり主役は西郷と大久保です。つまり大久保があまりにも偉大で、あまりにも謎めいていて、この物語の中に捉えるのにいささか難渋する。そこを巧みに処理するためにいわば小大久保ともいうべき川路を大きく前面に出した。それが司馬さんの工夫であったとぼくは思います。これはなかなかの趣向でありまして、われわれはこの川路という人物と親しくつき合ったせいで、大久保利通のことが在来よりはずっと具体的に思い描けるようになったのではないでしょうか。でも、西郷隆盛の肖像となると、どうでしょうかね。
〈(維新後)大久保は国権を愛し、国権を確立しようとしたが、西郷はむしろ歴史のかなたにみずから消えてしまおうとしていた。(中略)西郷は参議・陸軍大将・近衛都督という日本一の顕職をもちながら、自分が歴史から落魄(らくはく)した男だというふしぎな自己規定をしていた。事実そうであった。西郷は倒幕の英雄ではあったが、国家を建設するというこの俗でよごれた手を必要とする仕事にはまるで適(む)かなかった。西郷は維新後しきりに百姓をやるといっていたが、それが本音であることを大久保はたれよりも知っていた〉
こういう解釈が間違いだとはいいません。しかし維新前と維新後との西郷のあまりにも大きな変化は、この物語全体では納得がゆくように語られていないんですね。川路利良は西郷のことを、「まるで桜島のようなひとだ」といった。桜島は夕方になって太陽が空と海を染めると、どんな絵の具でも描けないくらいに変化する。しかし曇り日や雨の日はじつにつまらなくて、ただのでくの坊が無用に空間を占めているにすぎない。西郷はその桜島とまったく同じだというわけです。
(次ページに続く)