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火鉢は飛び越えられたのか・異説(入稿Ver.)

2023年の泉鏡花文学賞受賞作である北村薫『水 本の小説』(新潮社)の表題作は、鏡花の同門の作家・徳田秋聲の生誕150年記念トークのために作者が金沢を訪れた旅を描いている。この文学と旅と水のイメージが混ざり合う名篇中で驚いたのは、拙編『街の子の風貌 徳田一穂 小説と随想』(龜鳴屋)を作者が入手する場面が描かれていたことだ。「円紫さんと私」シリーズ以来の北村薫愛読者でもある私が、これから天に唾するようなことを書くのは心苦しいのだが、この作者が以前にも秋聲を取り上げた作品が「火鉢は飛び越えられたのか」(「オール讀物」2017年5月、のち『中野のお父さんは謎を解くか』収録)である。本作は鏡花が秋聲を殴打したとされる逸話の真偽を問うたもので、この出来事は鏡花のWikipediaにもあたかも事実の如く記されている(本稿執筆時現在)。フィ クション中の推理に対して職業研究者が乗り出すこと、何より後出しジャンケンなのは我ながらどうかと思われるが、きっと北村先生は面白がってくださるのではないかと考え、私見を披露してみたい。

以下は「火鉢は飛び越えられたのか」のネタバレなのでご注意いただきたい。まず里見弴「二人の作家」(『恋ごころ』1955年)では「某綜合雑誌社の社長から、こんな話を聞いた」として、「新たな出版計画だったかに事寄せて、秋聲と二人で鏡花を訪ね」懐旧談をしていたが会話が「紅葉に及ぶと、いきなり鏡花が、間に挟んでいた径一尺あまりの桐の胴丸火鉢を跳び越し、秋聲を押し倒して、所嫌はずぶん撲った」とある。里見が後年に書いた「泉鏡花」(「海」1977年3月)になると情報源が改造社の山本実彦であることが示され、前者では菓子の食べ過ぎで紅葉が病死したというのは車中で秋聲が話したことだったのが、後者では鏡花の前で話して殴られた原因に変わる。しかし当時中央公論にいた編集者・木佐木勝の『木佐木日記』大正15年10月27日の記述では、山本を経由した正宗白鳥からの伝聞として、場所は改造社の山本の部屋で「紅葉の作品のことで山本を交えて話し合っているうちに、秋聲が言ったことが鏡花を怒らせ、鏡花がいきなり秋聲の頰に平手打ちをくわせた」とあり、火鉢は登場しない。おそらくこれが実際に近く、話を脚色して広めた主犯は里見弴というのが中野のお父さんの推理である。

ここに登場しない文献に佐藤春夫『続 白雲去来』(1956年)収録の「ちやぼの蹴合ひ」がある。「山本実彦が、かねがね反目している旧友二人を和解させる好機会と見て二人を招き置酒した席上、鏡花は秋聲が師紅葉について語った談を無礼として、いきなり火鉢を乗り越えて打つ蹴るの騒ぎになったというこの小説の一説の実話は、わたくしも直接に山本から聞いた」とあるのだ。だとすれば「火鉢を乗り越えて打つ蹴る」したと言ったのはやはり山本実彦ということになる。

さらに村松梢風『近代作家伝 上』(1951年)は次のように記す。「改造社が円本の皮切り『日本文学全集』(本文ママ)を刊行した時、尾崎紅葉集に収むべき作品内容について秋聲にはかつた。秋聲も一存にはいかぬので改造社山本実彦と同道で麹町の鏡花の家を訪ねた。二人は二階へ通された。やがて秋聲の口から用件が語り出されると、鏡花は怒気満面、『貴様なんかに先生の作品を選ぶ資格はない』と言ひざま、平手で秋聲の横面を力強くピシヤリと撲つた」と。梢風の筆はかなり潤色されていて間違いも散見される。ただし梢風は木佐木とも山本とも親しく、この事件を身近で聞けた立場にあった。

実はこの『現代日本文学全集』(大正15年)の校正に鏡花の弟の斜汀が関わっていたことを、同全集に携わった上林暁(「青春自画像」「小説新潮」1951年1月)らが書き残している。そして斜汀を改造社に世話したのは、前掲佐藤春夫によれば他ならぬ秋聲だったようだ。斜汀は不仲の兄に代わって秋聲が面倒をみており、その結果が秋聲「和解」(昭和8年)で描かれる秋聲のアパートでの死の顛末につながるのだが、このあたりが鏡花には面白くなく、秋聲が弟を抱き込んで紅葉のことまで口を出すように見えたのではなかろうか。梢風は「和解」の末尾「当味を喰つた」の記述を、殴られた鏡花に対する秋聲の意趣返しと読んでいる。

というわけで、二人が山本と面会した場所が鏡花宅であったのか改造社であったのかはやはり判然としない。しかし、おそらく火鉢は飛び越えられていないが、少なくとも鏡花の側は秋聲に手を出したのではないか。その点は北村説とさほど変わりないし、秋聲がした菓子の話をその出来事に接続したのはやはり里見であろう。ただし元の事件に尾鰭をつけて「話を盛った」のは里見ではなく、むしろ事件に立ち会った山本自身であったというのが私の推理である。そしてその背後には師・紅葉のことだけでなく、弟・斜汀をめぐる鏡花の不信が伏在していたのではないか。

※上記は泉鏡花記念館館報「鏡花雪うさぎ」 19号(2024年3月)に寄稿したものの未校正バージョンです。あまりおられないと思いますが、もし学術論文等に引用する場合は掲載誌にて本文をご確認ください。表現を修正している箇所が僅かにあります。