新刊無料公開『焼鳥の戦前史』冒頭部分
新刊『焼鳥の戦前史』、販売開始しました。
それでは、『焼鳥の戦前史』の冒頭部分をお楽しみください。
第一章 廃棄物と食品偽装から生まれた焼鳥
1.詩人、焼鳥屋になる
詩人、草野心平は途方に暮れていた。
中国の嶺南大学留学中に詩に目覚めた草野は、日本語教師の職のかたわら詩作活動を行っていたが、中国における排日運動が高まり帰国を余儀なくされる。
その後職や住所を転々と変えながら同人活動を中心に詩作を継続。結婚もし、子供もできたが、そこに世界大恐慌が発生。当時としては少数派のエリートである大学卒の人間さえも就職できず、小津安二郎監督が就職難をモチーフにした映画「大学は出たけれど」を撮る時代になった。
やることといえば質屋に通うことと、金策に駆け回る日々。そんなあてのない、途方に暮れる生活を送っていたある日、2歳の息子とともに散歩していると、空き地の中に放置されている屋台が目に入った。
なぜ焼鳥屋なのか、その理由は自伝やエッセイを読んでもわからない。詩人特有のインスピレーションというやつであろうか。ともかくも、こうして詩人は焼鳥屋を始めることとなったのである。
もっとも、詩で生計が成り立つようになるのはまだだいぶ先のことであるから、詩人が焼鳥屋をはじめたというよりも、焼鳥屋が後に詩人になったという方が正確なのかもしれない。
いったん心を決めてからの行動は早かった。屋台の持ち主を見つけ、知り合いのマルクス経済学者櫛田民蔵に借金をして屋台を購入した。おそらくこの借金の返済はしていない。
とはいえ焼鳥の「や」の字も知らない素人であるからまずは修行と、詩人仲間佐藤春夫に当面の生活費を無心して(その後返済せず)、当時評判だった赤坂溜池の焼鳥屋台に弟子入りしたのである。
修行の中心は、刻んだ肉を串に刺す串打ちの作業であった。
”やきとりといっても無論豚の内臓”といわれても、東京の焼鳥屋に馴染みのない人には何が「無論」なのかさっぱりわからないだろうが、焼鳥発祥の地東京の古い焼鳥屋では、豚の内臓焼を焼鳥と称して出すのが、昔の習わしだったのである。
東京は浜松町にある昭和4年創業の焼鳥屋「秋田屋」。昭和6年に焼鳥屋をはじめた草野心平の先輩にあたる店だが、そのメニューには草野の修行先と同じ”タンとかガツとか子袋とかハツ”=豚の内臓が並んでいる。
ちなみに豚の睾丸のもつやきを「ほるもん」と呼び習わすのも、古くから東京に存在する慣習。これについては後ほど言及する。
(秋田屋のほるもん=豚の睾丸のもつやき)
草野が最初に焼鳥屋台を出した場所は麻布十番だが、同じ麻布十番にその2年後昭和8年に創業した、詩人の後輩にあたる焼鳥屋の「あべちゃん」がある。そのメニューにも、鶏の焼鳥と並んで豚の内臓焼がある。
「秋田屋」と「あべちゃん」、それぞれ豚の内臓の串焼きの名称は「もつやき」「やきとん」となっているが、これらはおそらく食品表示についてうるさくなった平成になってからの名称変更。個人的な観測範囲では、2、30年前までは東京の焼鳥屋において当たり前のように豚や牛の内臓を「焼鳥」として売っていたし、客もそれをわかっていて注文し、食べていた。
新宿の焼鳥屋宝来家は、昭和22年に闇市のバラックとして創業した。創業者は焼鳥業に関しては初心者で、豚の内臓の串焼きを「やきとん」という名称で売っていたが、客自身が「やきとん」より「やきとり」のほうがよいというので、「やきとり」に改名した。
これは昭和46年のエッセイ。この時点でもまだ、「豚のやきとり」が売られている。
これは作家吉行淳之介のエッセイだが、このエッセイ集が発行された昭和49年時点においても、豚の子宮を”ヤキトリ”として売っていたのである。
ところが昭和62年に書かれた『食卓を変えた肉食』においては、
とあり、昭和も終わる頃には豚の内臓焼を焼鳥とよぶことが問題視されるようになったようだ。
また後に述べるが、昭和30年代以降になると豚内臓肉の焼鳥だけでなく、鶏を使った「本物の焼鳥」も普及するようになる。そのために、旧来の焼鳥は「やきとん」「もつやき」と名前を変更せざるをえなかったのかもしれない。
これは大正11年の東京見聞録『横目で見た東京』からの引用だが、この頃においてすでに、メートルを上げて(酒に酔って)豚の内臓の焼鳥に文句をつける者は野暮とみなされていた。そんなことは先刻承知で焼鳥を味わうのが、大人の東京人というものだったのだ。
焼鳥と称して豚の内臓を売ることは食品偽装に他ならないのだが、当局もけっしてこれを座視していたわけではない。明治38年の読売新聞は、豚の内臓を焼鳥と称して売っていた男がブタ箱入りしたことを報じている。
関東大震災後には、豚の内臓を使う場合「やきとり」ではなく「やきとん」と表示するべしと当局から周知されたが、これを守らない焼鳥屋も往々にして存在したという。豚や牛の内臓を出す焼鳥屋が増えすぎて、取締が追いつかなくなったのだろう。以下は作家高見順の証言。
「やきとん」派である高見順は焼鳥詐称店に厳しい姿勢を見せているが、その一方で、彼が贔屓にし通っていた大森の「ヒゲのやきとり」は、焼鳥という店名ながら豚の内臓を焼いて売っていた。
翻訳家の河原万吉は昭和5年の『古今いかもの通』で次のように述べている。
このように規制はないがしろになり、戦後は広辞苑の「焼鳥」の項にも「牛・豚などの臓物などを串焼にしたもの」という定義が載るようになる。
草野心平の焼鳥屋に話を戻す。麻布十番で商売を始めた草野だが、その方が儲かりそうであるということで、新宿に屋台を移すことになる。新しい場所は市電角筈終点あたり、紀伊國屋書店の裏であった。
焼鳥の仕込み、つまり豚の内臓の下処理は西新宿の自宅の庭で行った。
オートバイとは、後ろに荷台を付けた三輪車、いわゆる三輪オートのことである。
かつての焼鳥屋は、荷車を自分の力で引っ張りながら、三ノ輪や大崎にある屠畜場の内臓肉問屋まで徒歩で仕入れに出かけなければならなかった。仕入れの作業自体が、そうとうな重労働であったのだ。
ところが大正時代の自転車の国産化とリアカーの発明、さらには関東大震災後の三輪オートやトラックの普及により、仕入れ作業は劇的に効率化することとなる。この仕入れ革命は外食産業に大きなインパクトを与え、東京で生まれた屋台食である串かつを衰退に追いやるのだが、これについては『串かつの戦前史』において詳しく説明する。
ともかくも、草野が焼鳥屋をはじめた頃の豚の内臓の仕入れは楽なものであった。自宅まで三輪オートで届けてくれるのである。
当時の三輪オートは高価なものであった。昭和3年生まれの漫画家このみひかるは魚屋の息子として生まれたが、仕入れは複数の魚屋で共同でトラックを借りて行っていた。三輪オートを自前で持っているのは、魚屋の中でも金持ちの魚屋であったという(『なぞなぞ下町少年記』 このみひかる)。
恐慌下にもかかわらず、その高価な三輪オートで配達していた豚の内臓問屋は、相当儲かっていたと見える。このことからも、内臓肉が「放るもん」=捨てられていたので内臓料理にホルモンというという名がついたという俗説がデマであることがわかるだろう。内臓肉は捨てられるどころか、利益を生む大切な商品だったのである。
本書では戦前の代表的ホルモン料理であった焼鳥の歴史を解説する課程で、ホルモン料理のホルモンは生理活性物質のホルモンに由来することを証明していく。
とはいえ実は、捨てられていた内臓肉もあるにはあった。鶏の腸などである。草野心平は捨てられていた鶏の腸などを、料金を貰って引き受け、焼鳥の材料にしていた。
鳥屋(鶏の鍋などを出す鳥肉料理店)においては鶏の腸と鶏冠は産業廃棄物であり、金を支払って処理していたのであった。草野によると、犬の餌としてタダで引取る者もいたが、なぜか洋犬しか食べないので大きな量は引き取りきれず、草野に処理が依頼されたらしい(血の料理 草野心平 『草野心平全集第十巻』所収)。
焼鳥の歴史を紐解くと、明治時代に生まれた焼鳥の原初の姿とは、この鶏の腸などの鳥屋の廃棄物を串刺しにして焼いたものだったのである。だから名前が「焼鳥」なのだ。豚や牛の内臓は、鶏の腸が入手しづらかったがゆえに流用された、食品偽装のための代替原料だったのだ。
ところがある時点から、その代替品である豚や牛の内臓が焼鳥の大勢を占めるようになり、そうと知りながら民衆はこれを支持し、焼鳥は大人気となった。その一方で、本家本元の鶏の腸は、産業廃棄物扱いになってしまったのである。
鶏の腸は、客からも焼鳥屋からも見捨てられてしまい、「焼鳥」という名前を奪われてしまったのだ。
この逆転現象は、いつ、なぜ起こったのか。
その謎を解明するために、明治時代から焼鳥の歴史を追っていくことにするが、その前に一つの問いに答えを出しておかなくてはならない。
焼鳥はなぜ、串に刺すのだろうか。
なぜならこの問いは、焼鳥とはそもそも何なのかという焼鳥の本質にかかわる疑問だからだ。
2.焼鳥はなぜ、串に刺すのか
以降は『焼鳥の戦前史』をお読みください。
付録としてクリスマスチキンとクリスマスケーキの歴史についても、書いています。
なぜクリスマスといえばローストチキンと「胸焼けするバタークリームケーキ」という習慣が生まれたのか、その波乱万丈の歴史について書かせていただきました。