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「アジャイルとは何か?」という問い以上に向き合いたいことがあるはずだ

 「アジャイル」とは何か? この数年、たくさんの人達にこの問いについて語ってきたように思う。アジャイルとは何か? 何だって良いじゃない、あなたが必要だと思えば向き合えば良いし、そうじゃないんだったらそっと蓋を閉じるなりすれば良い。
 そういう声も心のどこかにはある。その一方で、より良い状態を作っていきたいと思う人達への手がかりを作れるものなら、やはりそうありたいと思う。

 「そんなのアジャイルではない」という否定でも、拒絶でもなくて。「なんか良いって聞きました〜(良いこと起こしてくれるんでしょ?)」という他人任せの期待に応えよう、ということでもなくて。
 最初は期待違いがあったって良い、確信なんてなくたって良い。真摯に良き状態を作っていこうとする「芯」さえあれば、理解はどこかできっと合ってくるし、そこに変化もついてくる。
 アジャイルとは、「人が人を信じる」という営みへのトライであり、その連なりであり、いつまでも希望なのだと思う。

 そうやって「アジャイル」に向き合い続けることで、私達は自分たち自身の歩みを促していくことになる。

 一歩踏み出せば、二歩目をどこに置けばよいかも見えてくる。二歩、三歩を続けていくと、どこかで大きな壁、溝にぶつかっていく。そこで、あらためて自分が問われる。正解はない。ただ、どうあるか、どうするか、という判断のみだ。
 アジャイルとは、「自分に問う」という機会をつくり出す仕組みと言える。アジャイルを形づくる、価値、原則、プラクティス、それらによる営みがもたらすのは、オートノミー (自律性)だ。それは本来、人自身が持ち合わせている機能を補完するものになる。
 自らに問い続けるようになると、「越境」という行為が自ずと現れるようになる。

 「越境」という言葉を見出し、それを続けてきたという思いがある。だが、最初に「越境」という意図があって、それから現実の越境を成してきたわけではない。
 「越境」という言葉は後付けのほうが合っている。そうありたい、そうあるほうが良いと思う、そうした自分の中にある声を頼りに踏み出していく。それが、組織の境界を越えることだったり、それまでの前提、役割を越えていくということに他ならなかったりするだけだ。

 もちろん自分の判断が常に期待通り上手くいくはずがない。だからこそ、繰り返し問い続ける。その仕組みを構築しておく。そもそもどうありたいか自体にも答えがあるわけではない。どうありたいかさえも、営みの中で理解し、あるいは発見する対象となる。
 だから、仕組みによって補完される状態が作れている、その状態を保つということが目指すことの対象とみなせる。

 アジャイルって何だと思う? それほど、この問い自体にいつまでも向き合い続ける必要もない。それが何かの手がかりが得られたならば、問いの向き先を自分自身に向け、そして自分の外側へと目を向けていこう。

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