写真家の奥田實さんは、年長の友人のひとりだ。三十数年前、ぼくがまだうんと若かったころに旅先で出会った。奥田さんがちょうど北海道の東川に拠点を移された時期である。当時からすでに、大雪山を中心に、山の風景や植物の写真で知られていた。物静かで、じぶんのペースでこつこつと、しかし着実に歩んでゆく。そんなひとであるように、ぼくの目には映った。
ある時期から、奥田さんは、「ふつうの写真」ではなく、まるで博物画のような、写真でありながら絵でもあるような独特のスタイルをもった作品を発表しはじめた。撮影した木々や草花をデジタルで画像処理をしてコラージュした作品である。
コラージュといっても、ただの切り貼りではない。その植物の、花、芽、葉、地下茎などといった、その植物を構成するさまざまな部位を丹念に切りとり、さらに季節ごとに異なる姿をそれぞれ収め、それをひとつの画面に構成したものだ。したがって、個々の作品には、それぞれの植物が経験してきた多元的な時間がたたみ込まれている。
このような奥田さん的なスタイルは、かれこれ200年にもおよぼうとする写真の長い歴史において、あらたな表現形式として位置づけられてよい。それは、写真テクノロジーによって初めて獲得された世界の見え方(観察の仕方)なのだから。
これまでの作品は、観察の対象ごとに『生命樹』『野菜美』の2冊の写真集にまとめられている。このたび、第三弾として『野草譜』(平凡社)が刊行されるとのこと。今回、奥田さんのカメラと目がむけられるのは、かれの庭に繁茂する大雪山麓の野草たちだ。
よろしければ、ぜひごらんください。
小森はるか・瀬尾夏美監督のドキュメンタリー映画『二重のまち/交代地のうたを編む』は、東日本大震災をあつかっているという点でいわゆる「震災もの」のひとつに分類できるかもしれない。
だがこの作品は、ふだんわたしたちがあたりまえに考えているような「コミュニケーション」がじつはまったく「コミュニケーション」ではないことを浮かびあがらせているという点で、「震災もの」といった出来あいの枠組みを越えている。
しかし同時に、10年目の「3.11を忘れない」的な、むやみにわかりやすいメッセージの跋扈する状況を目の当たりにするにつけ、あえてこの作品を「震災もの」としてとらえる方途もあるだろうともおもう。
『二重のまち/交代地のうたを編む』の内容をぼくなりにまとめてみよう。震災による津波で壊滅的な被害をうけた陸前高田。そこでは盛り土によるかさ上げ工事がすすむ。かさ上げされた土地に新しいまちができ、住民たちが戻ってきて、そこに住む。
そこは二つのまちが重ねあわさったまちである。いま目に見えるあらたなまちの地下数メートルには、いまでは目にすることのできないかつての古いまちがある。あらたなまちでの住民たちの暮らしは、津波で失われた、いまは亡きひとびとの暮らしを下敷きにしている。
いまのまち、いまの暮らしは、目に見える。カメラで撮影することができる。いっぽう、かつてのまち、かつての暮らしは、もはや目で見ることはできない。さまざまな痕跡を手がかりに、想起するほかない。
この二重のまちに、四人の若者がやってくる。かれらは、小森と瀬尾が主催したらしいワークショップに参加するためにやってきたのだ。滞在期間は二週間。かれらはひとりひとり、まちに暮らすひとに会いにゆく。話を聞き、かれらの語りの内容にかかわる痕跡を見、触れる。そのようにして「受けとったもの」を、なにかしらの演劇的な表現として「伝える」ことが、そのワークショップの目的、らしい。
この作品がすばらしいのは、以上のような背景や粗筋について、説明らしい説明をきれいさっぱり排除していることである。作品は、四人ぞれぞれが、この二重のまち陸前高田でだれにどのように会い、なにを話し、どこへいってなにをしたかを追い、それらの断片を、淡々と積み重ねてゆく。観る者はみずから映像へ分け入り、断片を相互に結びつけ、読み解き、読み込んでゆかなければならない。
この姿勢は、作品の戦略やスタイルだけではなく、内容においても貫かれている。四人の若者たちが、陸前高田の二週間をへて到達するのは、なにかを「わかった」「うけとった」、あるいはだれかになにかを「伝える」といえるような地点ではなく、その逆である。すなわち、じぶんがなにかをたしかにうけとったかどうか自信がもてず、だれになにをどんな根拠にもとづいてどう伝えればいいのかも、わからない——。
他者の経験を理解すること、それを受け継ぎ伝えることがいかに容易ならざる困難に満ちているか、そもそもそんなことは可能なのかというとまどいと葛藤、そしてその最中で宙づりにされる四人の若者たち。そこまで達したところで、プツンとフィルムが途切れたようにして作品は唐突に終わる。同時に、観る者もまた、宙づりにされたまま放り出される。
考えてみれば、盛り土によって現出したあたらしいまちとは、宙に浮いたまちである。そこでは、目に見えカメラに写るものが、じつは宙に浮いており、想起によらなければ感得できないもののほうこそが地に足がついている。その事実に、観る者は宙づりにされて初めて気がつくのだが、しかしその時点ではすでに宙づりであるのだから、文字どおり手も足もだせず、もがくしかない。
いかにもわかりやすく提示される「答え」など、じつは「答え」でもなんでもない。いまわたしたちに必要なのは、わからなさのなかで宙づりにされることであるだろう。——これをすばらしいといわずして、なにをすばらしいというのか。
さる2月27日(土)にSocial Networks for the Next Media Literacy: Comparative Case Studies on Belgium, Korea, and Japan(新たなメディア・リテラシーを育む社会連携のかたち:ベルギー、韓国、日本の事例研究)という国際セミナーがオンラインにて開催されました。
これは、メディア・インフラストラクチャー・リテラシー・プロジェクトが主催したものです(「メディア・インフラに対する批判的理解の育成を促すリテラシー研究の体系的構築」科学研究費基盤研究B 課題番号:18H03343)。
たいしたはたらきをしたわけではありませんけれども、ぼくもプロジェクト・メンバーの一員として参加し、セミナーの最後に、すこしだけお話をさせていただきました。「メディアリテラシー教育に社会のレイヤーの再導入を」というような内容です。記録として、ここにあげておきます(当日は英語)。
ありがとうございます。登壇者のみなさん、参加者のみなさん、おつかれさま。プロジェクトのメンバーに代わって、セミナーの締めくくりに、簡単にお話をさせていただきます。
本日のすばらしい発表と議論から、私はあることを考えていました。それは、メディアリテラシー教育に、社会のレイヤーを再導入するための方法をあらためて考えなければならないということです。
そんなことは当たり前だ、いまの世の中すでにSNSがあふれているじゃないか。そうおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかし皮肉なことに、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)やトランピズム(トランプ主義)の時代において、メディアにかかわる言説の多くは、しばしば、ソーシャルではなくパーソナルなレイヤーにあります。フェイクニュース、ミスインフォメーションやディスインフォメーション、陰謀論、……さまざまな情報がさまざまな仕方であなたにアプローチしようとしている。それらにだまされないために、メディアリテラシーを身につけなければならない、というわけです。
この種の言説は、個人のレイヤーにおいて作動しています。この文脈にあっては、メディアリテラシーは、各個人がもつ能力として見なされ、一種の自己啓発に還元されてしまう傾向にあります。
しかしながら、メディアとはつねに社会のレイヤーで機能するものです。言語や貨幣がそうであるように。
問題のうちのひとつは、「社会」は直接目で見たり手で触れたりできないため、メディアを学ぶ者にとって、理解しにくいことがあげられます。本日のセミナーでは、この問題を乗り越えてゆくための多くの示唆を知ることができました。
ベルギー・チームの発表は刺激に満ちていました。それは、現在のわたしたちの日常生活を枠付けているアルゴリズム——目に見えず、触れることもできない論理のパターン——に焦点をあてているからです。かれらの試みは、挑戦的でありながら、本質的なものといえます。
韓国チームの発表が教えてくださったのは、ひととテクノロジーの関係を多様化させるための、メディアアート活動のあらたなあり方でした。ジョン・ヒョンソン教授がご指摘された、サードプレイス、参加、コネクテッド・ラーニングという三つのポイントは、さまざまな矛盾や葛藤を抱えこみながらも、すぐれた活動を展開してゆくうえで、わたしたち全員にとって鍵となるものです。
メディアリテラシー教育に社会のレイヤーを再導入するためには、さまざまな課題や取り組みをたばねて共鳴させうる理論的な枠組みを構築しなければなりません。メディア・ビオトープ概念の再検討を主題にした水越伸先生の発表は、そのための見通しを探ろうとしていたものだとおもいます。その意味で、本日のセミナーは、ポストCOVID-19、あるいはポスト・トランピズムの時代におけるメディアリテラシー教育へ向けた、ちいさいけれども確かな一歩となりました。
登壇者のみなさん、スタッフのみなさん、そして参加してくださったみなさんに、あらためて心より感謝申しあげます。ほんとうにありがとうございました。
どうぞすばらしい週末をおすごしください。
]]>映像ディレクターの増田浩さんより、かれの監督したドキュメンタリー映画『あこがれの空の下——教科書のない小学校の一年間』が、12月19日からユーロスペースで公開される運びになったとのご連絡がありました。
ぼくもまだ未見の作品ですが、この機会に観にいこうとおもっています。
この作品のことは、以前にこのブログで紹介したことがあります。いつのことだっけと調べてみたら、今年の1月14日でした。
あれから11か月がすぎ、この間じつにいろんなことがおきたものです。もちろん、いまもまだ。
]]>現政権の特徴のひとつとして、「強権的」と表現してよいだろうその政治手法ないし態度があげられる。具体的には、法の正当な手続きを無視し、そのときどきの自己の都合で恣意的な判断をしたうえで、その理由を説明せず、あわせて異論を封殺してはばからない態度である。
この強権的態度を根底で支えているのは、反知性主義である。強権的な態度は、知的なものに信をおく態度とはけっして相容れない。なぜなら、前者はつねに「ある特定の見方」にたいする称賛と服従をまわりに要求するのにたいし、後者はつねに「異なるものの見方」を探ろうとするからだ。
いま世間で話題になっているらしい学術会議任命拒否事件でも、根底にあるのはこの反知性主義だろう。そのあらわれとして、強権的態度がある。
この事件においても、首相をはじめとする現政権の大臣たちは、けっして理由説明をしない。もちろん、公に説明できるような理由が存在しないから、しないのだ。そのことは、ちょっと気の利くひとならだれでもわかっているだろう。首相自身もよく承知しているはずだ。そうでありながら、批判されてもはぐらかし、無理筋と知りながら強硬に言い張りとおす。この強気の張り手でここまでのしあがってきたという成功体験にも支えられているだろうし、大衆なんて所詮そんなものだという見切りもあるだろう。さらに、それだけではなく、論点を学術会議の「改革」などというまたべつの方向へとズラしもする。むろん意図的に、だろう。あたかも学術会議が既得権益集団かなにかであるかのように印象操作を仕掛けているのだ。
なお断っておくが、べつに学術会議をすばらしい組織だと主張するつもりはない。ぼくもいちおう学者の端くれであるとはいえ、メディア論などという辺境中の辺境にいる身である。学術会議のような王道中の王道的な組織とは、ほぼかかわりはない。そしてその辺境からはるかに遠望するかぎり、学術会議の近年の活動の実相は霞みがちで、ステートメントにはあまり感心しないものも見うけられる。しかし、それはそれ、これはこれである。
見たいものだけを見たいように見、聞きたいことだけを聞きたいように聞く。それが反知性主義に共有される姿勢である。むろん現実には、そんなことは成り立たない。みずからの欲望や願望は、実在の世界と齟齬を来すに決まっているからだ。そのとき、自己の側を修正するのではなく、実在の世界のほうを、みずからの認識にあわせて「再制作」しようとする。この転倒した図式こそが、反知性主義から強権的態度を生みだすのだ(拙著『ディズニーランド化する社会で希望はいかに語りうるか』参照)。
強権的な態度と反知性主義は、現政権のみならず、もとより前政権から共有される顕著な傾向性である。そして、それは前・現の両首相の気質においても共有される傾向性であるだろう。
しかし、ふたりの首相にはちがいもある。前首相に濃厚だった「からっぽ感」が、現首相にはない。代わりに現首相には、テレビやネットの映像をとおして接するかぎり、全身から強烈に発散される念のようなものが見られる。その念は、ただ強烈なだけではない。きわめて高い粘度をともなっている。念の源にあるものは容易に想像がつく。ルサンチマンである。
「からっぽ感」全開の反知性主義的人物を首相にいただくのは、むろん危なかしい。しかし、ルサンチマン全開の反知性主義的人物が首相に座している状態は、べつの意味でまた危険であり、怖い。慎重かつ峻厳たる観察を要するものとおもわれる。
]]>ある朝、目が覚めたら左膝が赤くふくれていた。水が溜まっているらしい。触ると熱い。痛みで膝を自力で曲げることができない。坐るもたつも歩くもままならず、横になっていても痛い。ズボンやパンツを履くのもむずかしい。靴下にいたっては、とうてい自力では不可能だ。
氷嚢で冷やしてみた。すると腫れは多少ひいたようにおもわれた。痛みもやわらいだ。やれやれとおもったのもつかのま、しばらくするとまたぶりかえす。
椅子に腰かけることもできない状態なのに、リモートの会議や授業をやらなければならなかった。ままならない左足をずりずりひきずっている姿を見て、〈くんくん〉は「サックス先生みたいだ」などと言う。オリバー・サックスの『左足をとりもどすまで』にひっかけているのだ。
そうして数日はごまかしつつ、ようすを見ていたが、どうにもならない。やむなく整形外科へいった。
医者は最初、痛風だろうと言った。もうそんな歳なのかとショックをうけた。医者はなにやら機械をとりだした。膝に溜まった水を抜くためだ。チューブの先のプラグをぼくの左膝の脇にブチュッとさしこんだ。跳びあがるほどの痛みが走った。ただでさえ痛いのに。
しばらくしてからプラグが膝から抜かれた。プラグのささっていた孔から水がこぼれてベッドの上を濡らした。膝の水はずいぶん溜まっていたようだった。
医者が首をかしげている。水は黄色みがかった透明だった。痛風なら濁っているのだという。レントゲンを撮り、血液検査をした。結果は、医者の見立ての誤りを示していた。原因は痛風ではなかった。分離膝蓋骨といって、先天的に膝の皿の骨の一部が分離しており、それが原因で炎症をおこしたのだ。
その日は鎮痛剤をもらって帰った。10年くらい前にも、右膝がおなじような症状を示したことがある。そのときも溜まった水を抜いてもらったら楽になった。今回もそうだった。ただ恢復の速度はずっと遅かった。
数日後にまた整形にいった。こんどはMRIも撮った。まちがいなく分離膝蓋骨が原因だとわかった。炎症はだいぶ収まっていたが、まだいくらか残っていた。杖なしで歩けるようになるには、それからさらに2−3日を要した。
昨日は用事があった。試しに杖なしで出かけた。階段は両足を交互にだせない。左膝に体重がかかると支えられずにグラついてしまうからだ。とくに下りの階段は、いまにも転げ落ちそうだった。
おかげさまで、今日はだいぶぐあいがいい。あとはもう、なんとかよくなるだろう。ありがたいことだ。それでこうしてブログの記事なんかも書くことができている。
]]>ミシガン産のクラフトビールがうまいぞという話のつづき。なおミシガンとは、アメリカ合衆国の中西部にあるミシガン州のこと。前回はこちら。
ブリュワリーのつくるクラフトビールには、年じゅう売っている銘柄のほかに、季節ものもある。夏だと、たとえばサマーエール。
上の写真の右上に映っているのは、Bell’sのOberon Ale。5月から8月まで売られている。夏のビールらしく柑橘の香りがした。サマーエールは全般にフルーティーで甘く薄いので、あまり好みではなかったが、例外的にこれは気に入っていた。
秋に出まわるビールも多い。Bell’sのBest Brown Aleは9月から10月がシーズンだ。味はもうよくおぼえていないが、ウェブサイトの記載を見るとスタウトよりやや軽めみたいなことらしい。
こちらも秋にでまわるビールのひとつ、Bell’sのオクトーバー・フェスト。紅葉色のラベルが、季節もの感を主張している。オクトーバー・フェストは、いうまでもなくドイツの秋のビール祭りから来ているのだろう。参加したことはないが、ドイツのオクトーバー・フェスでは専用のビールが供されるという話だ。Bell’sのオクトーバー・フェスにかんしては、味の面で独特のものがあるかというと、そういうことはないようだった。
冬には冬の季節ビールが出まわる。
これはBell’sのWinter White Ale。ホワイトエールとは小麦のビールだ。季節もののビールはたいてい通常のものよりフルーティーで、ホワイトエールもそう。
冬のビールの典型といえばクリスマスエールである。
このクリスマスエールは、Frankenmuth Breweryというブリュワリーがつくっている。ここもWikipediaには載っていない。だがウェブサイトはいまも生きているようなので、たんにリストから漏れているだけのようだ。
ちなみに、フランケンムースとはミシガン中部にある街の名前である。その名から推察されるように、ドイツ系の移民たちがつくったらしい。その関係なのかどうかはわからないが(たぶんその関係なのだろう)、ここには世界最大のクリスマス・グッズ専門巨大マーケットがある。真夏も含めて、1年365日ほぼ毎日営業しつづけてクリスマス商品を売っているという、ちょっとどうかしているのではないかというお店である。ぼくも友人に教えられて見にいったことがある。
こうしてみると、もっともよくのんでいたのはBell’sであったようだ。ぼくは基本的に毎日自炊し、毎晩2本ペースでのんでいた。
これはBell’sのAmber Ale。もっとも標準的な銘柄で、通年出まわっている。ちなみに写真でビール瓶の下にあるのはポキで、ハワイふうのヅケ。お惣菜としてスーパーで売られている。
PorterはBell’sの黒ビール。黒ビールはぼくには甘みがちに感じられることが多いが、これは苦みが強くておいしかった。
ちなみにプレートの上の茶色い円盤状のものは豆のチップスである。アメリカのスーパーには星の数ほど多種類のチップスがボタ山のごとく売られていたが、大半がポテト。だがその山をよく探すと豆のチップスがあり、これはおいしかった。プレート左下のワカモレ(アボカドのディップ)をつけてたべると、このうえなくビールとあう。写真のワカモレはスーパーで買ってきた出来あいのものだが、メキシコ人のおばさんに教えてもらったレシピでじぶんでつくると、これがまたうまかった。
話を戻す。Bell’sがビール生産をはじめたのは1985年だという。いまはカラマズー市のまんなかに工場がある。一度立ち寄ってみたことがあるが、あいにくその日の工場見学ツアーの終わったあとだった。
Bell’sのビールは州外にも出荷されている。昨夏LAへ立ち寄ったときには、Whole Foodsでも見かけた。しかし残念ながら、日本までは入ってきていないらしい。
昨今はアメリカのクラフトビールを積極的に紹介しているネット通販の店もある。だがBell’sは見あたらない。そういうサイトの取扱銘柄は、Blue MoonだとかFlat Tireのように、クラフトビールといえどもややメジャーに寄った品揃えである。そのうえ現地価格からするととんでもなく高い。輸入の手間や酒税の関係でやむをえないことだとはおもうが、それにしても。
日本でもBell’sをのめるようになればうれしい。しかし、むやみに高価になるのも困る。それに、ビール、とりわけクラフトビールは、基本的には地産地消、産地とおなじ気候風土のなかでのむのが、いちばんおいしいとおもう。
とすれば、ミシガンのビールがのみたければ、またミシガンへゆくほかない、ということだろう。いつになることか。
この項おしまい。
]]>内田百閒『御馳走帖』に、戦争末期の食糧難のころ、戦争前にたべたうまいものの記憶を書きつらねた話が収められている(「餓鬼道肴蔬目録」)。ぼくも百閒先生をちょっと真似て、いまは容易にのむことのできない海外のビールをとりあげてみたい。
現今ぼくをとりまく状況は、戦時下になぞらえるにはあまりに暢気なものだ。それでもこのとおりの状況のため、今夏に予定していた学会やアメリカ調査が吹っ飛んでしまった。吹っ飛んだのは仕方なしといえども、当地のビールがのめないのは残念である。日本のビールもいいが、海外でのむビールもそれぞれ個性があっておいしい。
ミシガンのビールはうまかった。ミシガンにいてよかったことのひとつだ。アメリカは近年クラフトビールがおおいに流行っており、各地にマイクロ・ブリュワリーがある。もちろんミシガンにもある。Wikipedia(英語版)で、ミシガンにおけるブリュワリーのリストという項目をみれば、どれほど多く存在するか、わかっていただけるだろう。
各ブリュワリーはそれぞれ複数の銘柄をだしている。季節限定のものもある。総数はかなりにのぼる。当然ながら、ぼくがのんだことがあるのは、これらのうちのごく一部でしかない。
ふだん自炊していたので、ビールはたいていスーパーで買った。クラフトビールは、缶よりも瓶で売られていることのほうが多かった。標準的な銘柄の6本入りパックで、安いときには10ドルを切るくらいである(税別)。一本あたり200円ほど。クアーズやバドワイザーのような、ナショナル・ブランドの大量生産品よりは若干高いが、差額はそれほど大きくはない。
さて、ぼくがのんだことのあるミシガンのビールを、いくつか紹介しよう。たんにミシガンでのんだ、ということではなく、ミシガンで生産されたクラフトビールである。
この三本の生産者(ブリュワリー)と銘柄は、左からBell’sのThe Oracle (ダブルIPA)、 FoundersのBreakfast Stout, Wolverine StateのMassacre(ダークラガー)。市内の酒屋で、たまたまそこにいた大学院生らしきおにいさんに訊いて、勧められるままに買った。このうち一本だけとんでもなく高価だったような記憶がある(きっと、かれの悪戯だったのだろう)。あいにくどれだったか覚えていない。OracleかMassacreのどちらかであろう(おそらく後者)。
FoundersのCentennial IPA。アメリカではIPA(インディアン・ペールエール)が大流行だった。銘柄を問わずおいしかった。IPAにはずれなし(いまのところは)。
Arbor Brewing CompanyのBollywood Blonde。オレンジとレモングラスの香りのするブロンド・エールとのことで、かなりフルーティーだった。ボリウッドとは、インドで映画産業が集積するムンバイ(旧ボンベイ)のことだが、それにしても、なぜにボリウッド?
おなじくArborのBrune Wild Roots。ひじょうに酸っぱい。日本ではまず見かけないタイプのビールである。Barrel-aged(樽で熟成)なのだそうで、たしかに高価だった。
これもおなじくArborの酸っぱいビール。アナーバーのダウンタウンにあるArborの直営バーで、フロア係のおにいさんに勧められてのんだ。Special Reserveとラベルにあった。栓もスパークリングワインのようだ。お店専用なのかもしれない(未確認)。これも日本でのんだことのない、酸味にあふれるふしぎな味がした。酸味はバルサミコ酢でつけてあるような話だった。
また別の酸っぱいビール、Bell’sのLarry’s Latest Sour Ale。サワー・エールなるものが存在するとは、このときまで知らなかった。酸味のあるビールは総じてフルーティーである。個人的な好みからは、正直はずれている。
Arcadia Alesのスコッチ・エール。ふつうにおいしかった。このブリュワリーは上述のWikipediaのリストには載っていない。昨年(2019年)廃業してしまったようだ。
長くなったので、残りは続編に。
]]>映画『日本のいちばん長い日』には、岡本喜八監督・橋本忍脚本の1967年版と、原田眞人監督・脚本の2015年版がある。ぼくが前者を最初に観たのはおそらく小学生のとき、テレビ放映でだった。その後スクリーンでの上映も含め、数回観ている。後者については公開時にこのブログでも触れたことがある。
今年の8月15日をはさんで、2本をあらためて再見してみた。すると、けっこう大きな違いがあることに気づいた。とりわけ目を惹いたのは、つぎの3点だ。いずれも1967年版にあって、2015年版にはない場面である。
1. 8月14日夜から15日未明にかけての、児玉基地における特攻隊とおもわれる部隊の出撃にまつわる一連のエピソード。1967年版では、すでに中央では戦争終結が決まっているにもかかわらず、現場に出撃命令がだされ、若い特攻隊員たちがなにも知らずに出撃してゆく場面が描かれる。飛行団長役の伊藤雄之助は、台詞はほとんどないが、名演技である(なお史実としては、この日の児玉基地からの特攻隊の出撃は、濃霧のため中止されたらしい)。 2015年版では割愛。
2. 中央以外での出先部隊や個人による徹底抗戦・戦争継続派の動き。1967年版では、厚木基地の302空の小園安名大佐や、東京放送会館内において玉音放送を妨害しようとした警備の憲兵など、宮城事件以外でも各所にみられた抗戦派の動きのいくつかが描かれている。これらの大半は2015年版では割愛され、横浜警備隊の佐々木武雄大尉率いる「国民神風隊」による首相官邸襲撃事件にほぼ集約されている。
3. ビラまきの場面。1967年版では、宮城事件の失敗が明らかとなり、放送でかれらの「正義」である徹底抗戦を訴えることもかなわないとわかったあと、畑中少佐たちが騎乗して都内を駆けまわり、みずからの主張を絶叫しながらビラをまく場面がある。ところが、一般のひとびとの反応は、畑中少佐たちの期待とは裏腹に醒めている。男は首をかしげる。浮浪児は、舞い散るビラをおもしろそうに拾うだけで、中身にはさっぱり興味を示さない。黒沢年男演じる畑中少佐に代表される「正義」への熱狂ないし逆上が、純真かもしれないがナイーヴに過ぎ、国民の幸福を考えたものではなく、それゆえひとびとの広範な支持を得られそうになかったことが示唆される。ビラまきについては史実らしいが、浮浪児の部分などはむろん創作だろう。2015年版では割愛。
ここにあげた3つの場面は、いずれも補助的なエピソードではあるものの、1967年版の特徴的手法であるカットバックの多用とあいまって、大きな効果をあげている。同日同刻にさまざまな場所で、それぞれ立場や考えを異にする者たちが、それぞれの都合や目論みでもってそれぞれに動き、複数のドラマが併走してうねり、すれ違ったり、時に交錯したりする。
こうした手法によって浮かびあがるのは、戦争のような国家もしくは国家間レベルの巨大プロジェクトは、いってみれば暴走機関車のようなものだということだ。いったん事が動きはじめてしまったなら、プロジェクト自体がある種の自律性を帯びてしまう。そうなると、いざやめようという段になっても、容易なことではやめられない。ましてや敗北という形では。
巨大プロジェクトは一個の機械となって、自律的に動く。それゆえ巨大プロジェクトは、それ自体が暴力性を帯びることになる。個々人はその渦中に否応なく投げ込まれる。流れに身をまかせたり、あがいてみせたりするものの、いずれにせよ巨大プロジェクトの圧倒的な機械性と暴力性の前に押しつぶされてゆく。押しつぶされながらも、なにかひとつのことさえ達成できたのであれば、おそらく上出来なのである。
戦争という巨大プロジェクトがもつ圧倒的な機械性という性質と、そのなかにあって個々人が否応なく被らなければならない不条理。その鮮明なコントラストが、1967年版の、とくに中盤以降を冴えわたったものにしている。
いっぽう2015年版に描かれる戦争は、巨大なマシンという圧倒的な存在ではない。むしろたんなる背景ないし状況である。1967年版に見られたような否応のなく前進しつづける機械性や、それがゆえに発揮される暴力性といった部分は、ほぼ消去されている。戦争がもつ怪異で複雑な全体性は、よくできた焼け跡のセットといった記号に撤退している。だから、たとえば宮城事件をおこす少壮参謀たちや横浜からやってくる佐々木大尉たちが、なぜそこまで逆上して戦争終結を受け入れようとしないのかが、作品からだけではよくわからない。
代わりに2015年版で重点がおかれているのは、阿南惟幾陸将の人となりや家族とのかかわりと、昭和天皇の描写である。たとえば阿南大将についていえば、家庭的で人間味溢れる人物として描くことに腐心している。それは、役所広司が演じているからというだけでなく、今様の感覚に合致するからだろう(おなじ役所広司が主役を演じた映画『山本五十六』も似た傾向にあった)。1967年版ではポツダム宣言を受諾するか否かをめぐる動きでも、いまひとつ真意がはっきり見えないところがあり、それがまた戦争を終えるというプロセスのむずかしさをよくあらわしていた阿南だが、2015年版ではきわめて説明的で、とてもわかりやすい人物として描かれている。1967年版が群像劇であるのにたいして、2015年版は、あえて誇張していうなら、ホームドラマである。
1967年版と2015年版。2本の『日本のいちばん長い日』のあいだは、48年という時間によって隔てられている。半世紀に届かんとする時間である。2作品の比較することをとおして、この48年のあいだに生じた「戦争」にたいする社会的意識の変化の、その一端くらいなら、浮かびあがらせることができるかもしれない。
]]>北海道の寿都町が高レベル放射性廃棄物——いわゆる「核のゴミ」——の最終処分場の調査に応募することを検討している、というニュースをネットで初めて目にしたのは8月13日夜だった。
翌14日の朝刊には各紙とも記事を載せた。北海道内ではその後もいろいろと動きがあり、報道もなされているようだが、管見のかぎり東京での関心はいまひとつであるように感じられる。「寿都」の読み方からしてわからないひとも少なくないだろう(「すっつ」)。
道がこの種の施設の受け入れ拒否を条例化していることもあり、道をはじめ近隣自治体などからもおどろきと反発をもって受けとめられているという。
個人的にもおどろいた。寿都町のことはよく知っている。隣にある島牧村にもう35年もかよっているからだ。寿都では何度となく買い物をし、ニセコバスを乗り継ぎ、ゆべつのゆ(日帰り温泉)に入った。若くてバカ者だったころ、バイクでこけて救急車で運ばれたのも寿都の病院だった。
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いくつかの記事を読んだ。そのかぎりでいえば、寿都町町長の主張はたいへん率直である。ようするに目的はカネ、ということなのだから。たとえば、以下のインタビュー(有料記事)。
さて、事業主体であるNUMO (原子力発電環境整備機構)によれば、最終処分地の選定は、次の4段階を経てなされる。すなわち、文献調査→概要調査→精密調査→施設建設である。そして、各段階ごとに「都道府県知事、市町村長の意見を聴き、反対の場合は次の段階には進まない」としている。
第一段階である文献調査に応募すれば、それだけで20億円が当該自治体に支払われるのだという。文献調査では実地調査はおこなわれない。実質的には、ただ手をあげただけでカネが入ってくる。さらに第二段階である概要調査まですすめば、総額で最大90億円が支払われるそうだ。概要調査ではボーリング調査などがおこなわれるので、それに関連しても町におカネが落ちるだろう。
町長は、ほかにも手をあげる自治体があるだろうからそこと比較してもらえばいいとか、国は3回中止のチャンスを与えてくれている、第二段階までは近隣自治体や道の意見は聞かない、などと述べているという。こうした発言から推察するに、現時点での町長の目的は、その90億円+αを得ることにあるのだと考えられる。もらうものだけもらってしまえばこっちのもの、あとは嫌ならいつでも撤退すればいい、という目論みだ。そうだとすれば、まさに濡れ手に粟の「フリーランチ」、あまり上等とはいえない表現をすれば「タダめし」ないし「食い逃げ」狙い、というわけだ。
町長としては「うまく立ちまわることができる」と踏んでいるのだろう。しかしながら、町長のこの考えは、率直であると同時に、ナイーヴすぎる。こういう問題にかんしては、国は一枚二枚どころか、何百枚も上手である。餌に釣られて向こうから近寄ってきたカモをおめおめ取り逃がすようでは、猟師失格だろう。
世の中には、あいにく「フリーランチ」など存在しない。一見うまい儲け話には必ず裏がある。このばあいなら、カネを返せとは言われまい。ただし、いったん応募したら最後、けっして途中で抜けることはできない。形のうえでは「いつでも中止できます」ということになっているかもしれない。だが、あくまで形のうえだけだ。実際には、できない。そういう地獄仕様なのだ。
なぜか。それはこれまで国が推し進めてきた原発政策の歴史を見れば一目瞭然だ。原発政策とは、つねに「結論ありき」。途中の調査や検討や住民との「対話」も、みなその前提である。シンポジウムやら対話集会やらという名目でどれだけ会合を重ねても、それは参加者(自治体や住民)を「説得」しようとするものでしかない。国やNUMOといった推進者側には、じぶんの考えややり方を変更する用意などまったくないのだから。
だから、調査といっても、その結果「ここは適地ではないので建設しない」という判断がくだされる可能性はほぼ皆無である。そもそもこの応募の前提になっているNUMOが発表した「科学的特性マップ」なるもの自体が、「結論ありき」の典型例だ。国やNUMOの立場に与しているはずの産経新聞でさえ苦言を呈したほどである。
原発政策の歴史が一目瞭然に示すことは、もうひとつある。この手の原発関連施設の誘致にひとたび手をあげたなら、たちまち地域のコミュニティが分断されてしまうということだ。なぜなら、そのように推進者側が動くからである。
たとえ最終的に施設の受入が拒否されたのだとしても、ひとたび生じてしまったその分断は、どれだけ時間がたっても癒やされることはない。その責任は、国も自治体もNUMOのような機関も、誰もとらない。それでもそこに住む者たちは、今後何世代にもわたって、そのような分断されたコミュニティのなかで生きてゆかなければならない。その意味でも、ひとたび手をあげたら最後、途中で抜けることができない地獄仕様なのだ。
国など原発推進をはかる者たちは、もうたいがい気づいたほうがよい。「フリーランチ」を撒き餌にして財政の苦しい自治体の「頬を札束ではたくやり方」(鈴木直道北海道知事の発言)自体が、もうすっかり時代遅れになったという現実を。
さらにいえば、原子力発電という発電方式自体が、もう時代遅れになりつつあるという現実も、そろそろ直視したほうがよい。これは、ぼくが日本国内だけでなく世界の原発PR施設を見てきて強く感じることである。
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ところで、寿都町は近年ふるさと納税で大きな成功を収めてきた。平成30年度(2019年度)には11億円以上のふるさと納税を集めている。これは道内8位、全国でも77位の数字だという。
この事実は、寿都町が、その自然とその恵み、歴史、文化のもたらす大きな魅力を潜在していることを示唆している。そしてその潜在的な魅力は、やりようによってはますますその価値を高めることができるし、半永久的に活用してゆくこともできるはずである。
おもうに、寿都町は、財政の苦しさを乗り越えるためのリソースの発見もそれを活かす方法論も、すでに半ば掌中に収めているのではなかろうか。メーテルリンクの童話「青い鳥」と同じだ。そのことをもっと自覚してよいのではないだろうか。そして、それが「核のゴミ」処分場の受け入れとは両立できないということも。
世に「フリーランチ」など存在しない。目先の小金に目がくらんで手をだすことは、じぶん自身の手のなかにすでにある「青い鳥」、すなわち自然・文化・歴史のリソースがもたらす無限の可能性をドブに捨ててしまうことを意味している。
寿都町が、賢明にも、みずからのもつかけがえのない魅力をいつまでも大切にされんことを。
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