蔵前で暮らしたら、「気まま」のまんまで家族になれた。

著者: ã¹ã£ãã‚„ ちひろ 

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「ママになれ」なんて、誰も言ってないのに

「そろそろ家を買おうか」と言い出したのは夫で、「それなら蔵前がいい」と言ったのは私だった。

ユニークなカフェや雑貨店が続々とオープンしているおもしろそうな街だと、雑誌で見て知っていた。本屋好きとしては、独立系書店が点在するのも魅力的に映った。

夫が挙げた条件である「東京駅へのアクセスがいい」「下町感がある」「頑張れば手が届く価格帯(重要)」にも当てはまる。

何より、街の東を隅田川が流れているのがいいと思った。川のある街に惹かれる性なのだ。

2018年の春。4月にしては蒸し暑いよく晴れた日に、私たちは蔵前に越してきた。

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結婚して丸2年。息子は8カ月になったばかり。

子連れでの引越しなのに、「公園が多い」とか「子ども用品店が近い」といった条件をまったく考えずに、ただ自分が気に入りそうな街を選んだのが、今振り返るとなんとも好き勝手だなあと我ながら思う。

ひとり暮らせるだけのお金を稼ぎ、気ままな夜遊びを楽しみ、少ない荷物で引越しを繰り返して、気が向いたときにふらっと旅に出る。結婚するまでは、ずっとそういうふうに生きていくつもりだった。自分以外の誰かのために生きるなんてできそうにない。そんなふうだったから、人の親になってもなかなか軌道修正が上手にできなかった。

私を「◯◯くんのお母さん」と呼ぶ保育園の先生。17時までの時短勤務になった仕事。“ワーママ”というラベル。ヒールのない靴。そんなありとあらゆるものに人生の手綱を奪われないように、私は必死だった。

夫は私よりもずっと上手に「親」という役割になじんでいるように見えた。だって、「家を買おう」なんて、ちゃんとした大人の言うことだ。いきなりそんな大人みたいなことを言うな、と言いたいのを飲み込んで、「それなら蔵前がいい」と返した。

ふらふら歩けば、「当たる」街

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そんな感じで暮らし始めた蔵前は、予想通りに魅力的な街だった。

浅草線と大江戸線が通っていて、羽田空港、成田空港にも電車1本で行ける。銀座線の田原町駅、総武線・浅草線の浅草橋駅も徒歩圏内。浅草や上野には自転車で行けるし、東京駅行きのバスも出ている。交通の便は最高だ。

古いものと新しいものがほどよくミックスされていて風通しの良さを感じる。

駅前の大通りには、スタイリッシュなカフェと下町の風情を残す古本屋やおもちゃ屋が混じって並ぶ。今にも崩れそうな「御蔵前書房」はちょっとした名物だ。

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ドトールやスターバックスなどの大手チェーンはないけれど、コーヒーには困らない。レトロな喫茶店「シャレード」や「らい」、自家製スコーンもおすすめの「SOL’S COFFEE」、バーのような空間でコーヒーとチョコレートをいただく喫茶「蕪木」など、街の至るところに店構えのいいカフェがある。

花椒がびりりと効いた汁なし担々麺の専門店「タンタンタイガー」。ユーモアあふれる店主に癒やされる町中華の名店「水新菜館」(あんかけ焼きそばと小籠包をぜひ)。王道のサクサクとんかつが楽しめる「すぎ田」。下町グルメの食べ歩きも楽しい。

オリジナルノートがつくれる文房具のセレクトショップ「カキモリ」、製造工程も見られるBean to Barチョコレートのショップ&カフェ「ダンデライオン・チョコレート」など、他ではなかなか出会えないスタイルのお店もある。

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蔵前は、スキマ時間にひとりふらふら歩くだけで十分に楽しめる街だった。

そういうふうに、自由に過ごすのがいいのだと思った。

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この子も、この街を好きになってくれたらいいな

蔵前で暮らしはじめて4カ月。ここで迎える最初の夏が終わるころ。1歳になった子どもが、初めてよたよたと歩いた。

ふにゃふにゃで生まれてきた生きものが自分の足で立って歩くというのは、間近で目にすると思った以上の感動があった。夫と一緒にきゃあきゃあ騒ぎ、2、3歩進む姿を何度も動画に撮った。

自力で世界へ踏み出す準備を始めた彼を見て、私は自分が生まれ育った街のことを思った。

マンションの隣にある公園。母とよく通った豆腐屋。父が連れて行ってくれるラーメン屋。

そして思い出した。

幼いころの、街に包まれ守られているような感覚。家のすぐ近くだろうと、外に出るといつも冒険の始まりのようにわくわくしたこと。半径数百メートルの世界に、会いたい人や行きたい場所があふれていたこと。

「この子も、この街を好きになってくれたらいいな」

そう思うようになった。

それから私は、週末に少しずつ、子どもと一緒に出かけるようになった。

まずは定番の“公園デビュー”から。向かったのは、家の近所にある精華公園。グラウンドに砂場、アスレチック、ビオトープや畑もある広い公園だ。

買ったばかりの靴を履いた子どもを地面に降ろすと、しゃがんで砂いじりをしたり、パンダの遊具に近づいて、ゆらゆらと押したりしている。お互い初めてなので、公園の楽しみ方がいまいち分からない。こんな感じでいいのかな…? と不安なスタートになった。

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天気がいい日は、川沿いに散歩に出かけた。台東区を南北に走る隅田川は、川沿いが「隅田川テラス」と呼ばれる遊歩道として整備されている。ここをあてもなくずんずん歩く。

南に歩けば総武線、北に歩けば東武線が見える。誰が教えたわけでもないのに、子どもは電車が好きだ。総武線が橋を渡るのを見て「でんしゃ!」とはしゃいだ。

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隅田川を下る遊覧船にも乗りに行った。柵にしっかりとしがみつき、流れる景色をじっと眺める彼を見て、「子どもの目はきらきらしている」というのは本当なのだと知った。

駅前の大通りに建つカフェ「鷰 en」で、パンケーキとフライドポテトをシェアして食べた。私もそうだったけれど、やっぱり子どもはフライドポテトが好きらしい。

週末が近づくと、私は「次はどこに行こうかな?」と考えるようになった。土日の天気予報が雨マークだとがっかりした。

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(撮影:阿部萌子)

ここはもう、彼の街

季節はめぐった。

「でんしゃ!」は「総武線!」「山手線!」「浅草線!」になり、しっかりした足取りで走るようになり、転んでも泣かずに起き上がることが増えた。保育園には、後輩(?)が入ってきた。

精華公園は、もう庭みたいなものだ。自宅を出ると私の前をずんずん走って公園へ向かい、砂場やアスレチックをかけ回る。

私のお気に入りの本屋「Readin' Writin’」や「H.A.Bookstore」にも連れて行った。絵本コーナーで「どれがいい?」と聞くと、「これ」と恐竜図鑑や電車の本を指さす。

「Nui. HOSTEL & BAR LOUNGE」には、よくジュースを飲みに行く。散歩の途中や保育園の帰り道にぷらっと立ち寄り、小さなテーブルを挟んで休憩する。彼が「ジュースのお店」といえばNui.のことだ。

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隅田川花火大会に繰り出し、ビルの隙間から花火を眺めた。

カラオケ「まねきねこ」で、覚えたばかりの『はたらくくるま』を歌った。

マクドナルドで初めてのハッピーセットを食べた。

太鼓の音に誘われて、鳥越神社の縁日をのぞいた。

オープンしたばかりの「チガヤベーカリー」に出来たてのドーナツを買いに行った。

蔵前はどんどん、彼の街になっていった。

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全部、代わりに覚えておこう

そうして、この街で過ごす3度目の夏が来た。今この瞬間も、子どもは着々と自分の世界を広げている。

私が彼をどこかに「連れて行ってあげている」なんて言うのは、もはやおこがましい。

朝、保育園に向かう途中、近所の大人たちに「こんにちは!」と言う。

精華公園で友達を見つけ、追いかけっこやサッカーをして遊ぶ。

ゴジラのフィギュアが飾ってあるビルのショーウィンドウがお気に入りで、近くを通るたびに立ち寄りたがる。

「ジュースのお店行こうよ」と私を誘う。

彼は、私ひとりでは見えないこの街の顔を教えてくれる。

子どもと暮らすということは、人生の手綱を奪われることではなくて、隣を一緒に走りながら「あっちに行くのもおもしろいかもよ」と教えてくれる相棒が増えることなのかもしれない。今までは頑なに自分のコースだけを走っていたけれど、コースアウトも案外いいものだと今なら思える。

こんな大人になるつもりじゃなかった。たまにはハイブランドのピンヒールで出かけ、金曜日はひとりだらだらと夜更かしをして、休みの日はのんびり起きてコーヒーを淹れる。そんなふうに生きていくはずだった。

朝から眉も描かずに子どもと公園をかけ回るような大人には、ならないと思っていた。

蔵前は私を、思い描いたものから遠く離れた未来に連れてきた。この街で過ごす毎日が、私たちをちょっとずつ「家族」の形にしていった。ママチャリで街中を疾走する姿を10年前の私が見たら笑うかもしれないけれど、こんな未来も思ったより悪くないものだ。

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と、ここまで書いてきてなんだけれど……。

実はこの秋、よんどころない事情で、蔵前から別の街へ越すことが決まっている。おしゃれなカフェや個性的な本屋はないけれど、自然が多くて外遊びには困らなさそうなところだ。(こんなに早く出ていくのは、ちょっと想定外だった)

3歳の子どもは、蔵前で過ごした日々をきれいさっぱり忘れてしまうだろう。

だから全部、私が代わりに覚えておこうと思う。

そしていつか、この街で一緒にコーヒーでも飲みながらゆっくり話してあげたい。


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著者:べっくや ちひろ 

編集者。川のある街と本屋がすきです。Twitter

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写真:eichi tano

編集:ツドイ