もの書きのてびき聞く

上出遼平インタビュー「目に見えない体験を文章にする」前編

あの人に聞いてみたい、「書く」ことの話。今回お迎えするのは、ディレクター・プロデューサー・作家の上出遼平さんです。テレビ、書籍、Podcast、YouTubeなど、これまであらゆる媒体を超えてものづくりをしてきた上出さんが感じる、文章の可能性についてお伺いしました。

Interview, Text:刈川 直紀 / Photo:阿部 裕介(YARD)

上出遼平

1989年東京都生まれ。ディレクター・プロデューサー・作家。ドキュメンタリー番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート』などを手がけ、同シリーズの著書のほか、小説『歩山録』、『ありえない仕事術』などの著書がある。俳優・仲野太賀さんと共にアラスカの山を進むドキュメンタリーYouTube『TRAIL』や、ポッドキャスト『上出遼平 NY御馳走帖』など配信。

初めての創作は文章だった

僕は大学を卒業後、テレビ東京に就職して映像をはじめたのですが、それまでは映像が好きだった訳でも、得意だった訳でもなくて「たまたま就職したから映像をやっている」程度のことでした。僕らの学生時代って映像を撮る機会なんてほぼなくて、文章を書く機会の方が多かったんですよね。思い返すと、中学校の卒業文集で物語を書いて褒められたことがあったり、高校の時はバンドやっている人たちの間で流行していた「ライブドアブログ」というウェブサービスを使って、現実と空想をごちゃまぜにした記事を投稿していました。そのブログが友人だけではなく、友人以外の読者にもどんどん広がっていき、最終的にはライブドアブログの印刷・製本サービスを使って単行本なんかにもしていました。“文章を書いて、人に読んでもらう嬉しさ”というのを、そのときから感じ始めていたのかもしれません。なので僕としては、“就職を経て、最近また文章に戻ってきた”という感覚なんです。今でも「映像ディレクター」と名乗ることは多いですけど、正直あんまり映像のプロフェッショナルだとは思っていなくて。どちらかと言うと“ストーリーテリング”を生業として、そのための手段が映像になったり、文字になったり、音声になったりしている感覚ですね。映像って、何かをつくるとなるとカメラが必要で、マイクが必要で、編集機材が必要で・・・できることがたくさんあるようで、実は結構限りがあるんですよ。例えば「50年後のディストピア化した東京の話」をつくろうとなったときに、映像だったらまず「これ、CGで2億円かかるな」となりますよね。でも文章だったら「舞台は50年後の荒廃した東京」という一文で、読者の脳内にその情景を描くことができる。つまり読者の脳をGPUとして作品の世界観をアウトソーシングできるので、最近はそういった文章の無限の可能性にワクワクしています。

目に見えないものを伝えるための文章

テレ東時代に制作したドキュメンタリー番組『ハイパーハードボイルドグルメリポート』では、映像のほかに書籍やPodcast、漫画を制作しました。あの旅で経験したことは、僕の人生において本当に重要な意味を持っているのですが、映像ではほんの一部しか表現できなかった感覚があったんです。なので本を書くことは当然の流れではありました。旅の記憶って、味とか、空気とか、目に見えない体験も残っているじゃないですか。書籍では、その目に見えない体験をしっかりと文章で伝えることを意識していました。例えば「ケニア ゴミ山スカベンジャー飯」という回では、ケニアのゴミ山で暮らす人々に密着したのですが、そのエリアに車で向かっていくときの臭気や湿気って目に見えるんじゃないかと思えるレベルで強烈なんですよ。だけれども、当然映像には映らない。「ロシア シベリアン・イエスのカルト飯」の回も同様です。カルトと言われている宗教を信じている人たちの村のドキュメンタリーなんですが、現地はものすごく静かなんです。すべてが雪に覆われていて、人々は白装束を着ていて、静かにおいしいご飯が出てきて、みんなが静かに微笑んでいる……みたいな。でも、そこに住む人々が作り出している"不気味さ”って、映像で伝えることがすごく難しいんです。ケニアのゴミ山飯も、ロシアのカルト宗教飯も、現場に自分の肉体を持っていかないとできない体験ってたくさんあって。あのとき感じた“目に見えない体験”を文章にすることで、『ハイパーハードボイルドグルメリポート』の旅を読者の方々にも経験してほしいという希望を持って当時は書いていました。

「フィクション」と「ノンフィクション」

文芸誌の『群像』で連載していた小説『歩山録』を、昨年11月に出版しました。山田という論理的な主人公が、山を登る中で説明不可能な事象に出会していく物語なのですが、フィクションでありながらも、普段から僕が感じていることを割とそのまま書いています。“この世のすべてを論理的に説明できて、コントロールできるに違いない”と考える、現代の人間たちへのアンチテーゼですね。近年「論破することがすごい」みたいな風潮あるじゃないですか。でも、山とか海とか大自然を目の前にすると誰も論破なんてできないですよね。山田という人間も、元を辿れば自然のひとつな訳ですから、論理的な彼だって突然心情のブレは起こりますし、山の中で彼も彼自身のことを説明できなくなっていく。でも、それが普通だと思うんです。仮にテレビでこの話のドキュメンタリーをつくるとなったら、山田という極めて論理的な人間は、そのまま論理的な人間のまま最後まで伝えようとします。論理的じゃない部分があったら、それは編集でカットするんです。「この人はこういう人間だ」ということを設定したら、そこからずれているものを切って切って、単純化して、わかりやすくしていくという作業。テレビの世界にいてそういうことにもずっと嫌気が差してたので、「人間ってそんな一筋縄じゃないよな」と思っていたことを『歩山録』にぶつけていました。

個人的にはフィクションを書き続けたいんですけど、作り物の世界にリアリティを持たせるのは、既存の世界を描写するより100倍難しい。今そこにいる人間を映すだけでしたら、その一人をしっかり観察すればいいですが、何もないところから人間をつくり出そうとしたら、この世界にいる人間100人ぐらいをしっかりと見て、「人間とはどういうものなのか」を自分の中で理解しないといけないですよね。それでもなぜフィクションをやりたいかと言えば、やっぱりノンフィクションに伴うリスクがあまりにも大きいからなんです。ノンフィクションというのは本当に存在する人間を追うので、切り取り方によってその人の人物像は全く異なって見えるし、その作品が世に出れば取り返しのつかないインパクトを良くも悪くも与えます。例えば「この人はすばらしい人間だ」ということが描かれたときに、その人は“すばらしい人間”として社会で認知されますよね。その瞬間は良いかもしれないですけど、その後、その人はドキュメンタリーで描かれた“すばらしい人間”とのギャップに苦しむかもしれない。はたまた「この人は悪い人間だ」として描かれたら、その“悪しき人間”として社会に広く認知されるリスクはありますよね。今までドキュメンタリーをやってきて、そんな息が詰まるような思いをずーっとしてきました。なので、フィクションで架空の世界や人物をつくって、受け手にノンフィクションと同等かそれ以上の何かを与えられたら、それはものづくりとしては純度が高いんじゃないかと信じて文章を書いています。

違う景色に連れていってくれる読書体験

今年出版した『ありえない仕事術』は、まさに半分フィクション、半分ノンフィクションのような作品です。今まで「仕事術を書きませんか」とたくさんの出版社から声をかけられたのですが、ずっと断っていたんです。僕にとって本を読む喜びって、ネットで拾えるような仕事術を得られるということではなくて、小さい頃に擦り切れるほど読んだ『十五少年漂流記』や、父親が買ってきてくれた星野道夫さんの写真集など、どこか遠くの景色に連れて行ってくれるような体験だったんですね。だから、仕事術の本で本屋さんが浸食されていく光景にずっと歯がゆさがありました。そんな思いが出発点となり、「仕事術という本の形を使って読者をここではないどこかに連れていけないか」というスタンスで『ありえない仕事術』の執筆がはじまりました。

『ありえない仕事術』の内容はすごくトリッキーですし、ビジネス書という意味ではお客さんへの裏切り行為だと思います。ゆえに本当にいろいろなことを気にしながらつくったというか、もうあれをつくっている間は夜も眠れなくて、「本当にこれでいいのかな」と悩みながら書いていました。やっぱり“仕事術”と言っている以上、仕事人にとって有益な本にしなければならないですよね。「仕事術というパッケージを模った物語でした、イエーイ!」では済まされないと言うか、仕事術を知りたくて1,500円払ってくれる人がたくさんいる訳ですから。すべて読み終わったときにはしっかりと新しい仕事術の提示になっていて、「これは本当にありえない仕事術の本だ」ということを納得できるよう心がけました。それと、これは先ほどのフィクション・ノンフィクションの話にかかわってきますけど、登場人物はほとんど架空の人物ですが、物語で扱っている病気や事象に関しては実際に世の中にあるものですから、例えばALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気についても、ALSの患者さんを身内に持っている方とか、ご本人が読んだときにどういう気持ちになるかとか、そういうことは本当に細部まで考えて執筆しました。

僕がこれまで文章で書いてきたことは、「世の中にあるすべての定義は曖昧である」ということをずっと手を変え、品を変え言ってるだけなんです。何かを定義することは、思考をやめることです。もちろん「定義」や「ラベリング」をしなければ社会生活が絶対的に営めなくなるので仕方ないのですが、どこかでしっかりと否定しなければいけない部分もあると思います。定義やラベリングによって生まれる悲劇というのはありとあらゆる場所にありますよね。ヘイトとか、紛争とか。だから「そのラベルの奥にあるものは何か」ということに思いを馳せる癖を、みんなちょっとずつ持つようになったらいいなと思ってものづくりをしています。なんだかすごく偉そうだし、啓蒙的なんですけど、僕が何かをつくるときにはそうしたいと思っているんです。『ありえない仕事術』に関しては「正義」という曖昧な定義に対して疑ってかかった作品でした。僕も最近、とある企業さんとの打ち合わせで「社会善なことをしていきましょう」と言ったばかりなんですが、そもそもその「善」って誰にとってのなんの善なの?っていう。ある人にとっての善は、ほかの人にとっての善じゃないかもしれない。そういうことを常に考えないといけないと思ってます。そういった意味では、『ありえない仕事術』は、正義の暴走に対する自己批判的なテーマになっているというか、「僕が行くとこまで行ったらこうなっちゃうかも」という話でもあります。定義を疑うことって頭も体も疲れるのでとても非効率ですし、この資本主義システムの中では全く奨励されるものではないと思うんですけど、そこに潜む危険性は忘れずにこれからもものづくりをしたいと思っています。

上出遼平さんのお話はまだまだ続きます。執筆の裏側から、stoneを使ってみた感想まで、書くことの裏側を辿る後半は8月中旬公開予定です。ぜひお楽しみに。