サッカーを伝え続けた稀代の語り部・賀川浩さんのすごさ 際立ったプレー描写を支えた3つの視点
連載第27回
サッカー観戦7000試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
なんと現場観戦7000試合を超えるサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
今回は12月5日に亡くなられた、日本のサッカージャーナリストの第一人者、賀川浩さんについて。サッカーに初めて触れたころから、後藤氏が多大な影響を受けたという賀川さんとの思い出を記します。
賀川浩さんはW杯10大会を現地取材し、その功績が認められて2015年にFIFA会長賞を受賞 photo by Getty Imagesこの記事に関連する写真を見る
【日本サッカー黎明期を支えた神戸の出身】
前回のこのコラムでは神戸のサッカーの歴史の一端をご紹介したが、その直後の12月5日には神戸が生んだサッカージャーナリストの大先輩、賀川浩さんの訃報に接することとなった。
賀川さんは1924年12月29日兵庫県神戸市生まれというから、まもなく100歳の誕生日を迎えるところだった。
去る10月には神戸市立図書館に設置されている「賀川サッカー文庫」が10周年を迎え、その記念セレモニーがあったので、僕も神戸を訪れた。その時、賀川さんは残念ながら体調を崩して入院されていたが、病院までお見舞いに行ってお顔を拝見することができた。その後、回復されたと聞いていたので、次は100歳の誕生パーティーでお目にかかれるかと思っていたのだが、再びお話を聞くことはできなくなってしまった。
前回のコラムでご紹介したように、明治維新直前の1868年1月1日に開港した神戸居留地には英国人をはじめ、多くの外国人が居住。そこでは西洋式の近代スポーツが行なわれるようになった。外国人専用の公園として造られた東遊園地には「ボウリング発祥の地」の碑が立っているし、日本で最初のゴルフクラブも神戸の六甲山上に造られた。
ただ、フットボールは1859年にすでに開港していた横浜の居留地で盛んに行なわれていたから、神戸は「発祥の地」ではない。だが、日本サッカーの黎明期に神戸は重要な役割を果たしている。
現在の全国高校サッカー選手権大会の前身となる第1回日本フートボール大会は大阪毎日新聞社の主催で1918年1月に大阪の豊中で開かれた(サッカーとラグビーの大会が同時に行なわれた)。旧制中学校の大会で、最初の8大会は関西だけの大会だったが、神戸の御影師範が第1回大会から7連覇を飾っているのだ。
そして、第8回大会でその御影師範を破って優勝したのも、同じ神戸の第一神戸中学校(神戸一中=現在の県立神戸高校)だった。
賀川さんは、その神戸一中の出身だった。
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著者プロフィール
後藤健生 (ごとう・たけお)
1952年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。1964年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、1974年西ドイツW杯以来ワールドカップはすべて現地観戦。カタール大会では29試合を観戦した。2022年12月に生涯観戦試合数は7000試合を超えた。主な著書に『日本サッカー史――日本代表の90年』(2007年、双葉社)、『国立競技場の100年――明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』(2013年、ミネルヴァ書房)、『森保ジャパン 世界で勝つための条件―日本代表監督論』(2019年、NHK出版新書)など。