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ニセモノの良心

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2011年 04月 20日

鳴らなかった木鐸

報道じゃないので好き勝手に書く。



報道が圧力で報道をやめることはないということはすでに書いた。
そこはまぁそう。

ただ、何故この原発事故はとまらなかったのか。
報道がきちんと機能しており、災害前に津波で危ないんじゃない?という適切な指摘がなされていれば、事前に防げたのではなろうか。そんなことはやはり思う。


圧力でものを書く書かないは決まらないけど、結果論だけでものを見れば(結果論はすごく安易だけど)、結局一緒じゃないかとは思ってしまう。



今回の件、起こってしまった問題についてはTVは比較的よく取材しているし、事実ベースでのオチなしに報道している。安全側に寄った見解が多い気もするが、下手に危険を煽ってパニック引き起こすより100倍まし。あとは要検証だろう。もちろんやらかしている点もたくさんあるだろうし。


ではどこが足りなかったか
「原発が津波で危なくなる可能性を指摘し、事前に問題提起できなかった」点だ。
なぜか。誰か?


これは非常に酷なことを言うようだが、地元のマスコミの責任だ。
県と言う必要とされる場所が明確にありながら、そこに必要とされるだけの情報を結果的には届けられず、東電発の人災を引き起こしたマスコミには、道義的な責任があると思う。別に法とか倫理とかそんなものではなく責任の感じ方の問題として。完全に結果論でものを言っているのは100も承知。


では、何故報道できなかったか。

切込隊長は、
>報道を行って、仮に東京電力から異議をぶつけられて、あるいは巨額の訴訟を起こされたとき、耐えられるだけの証拠集めができるのかというハードルだ

と書いた。これも確かにある。
せっかく事前につかんだ事件でも、映像だけとりだめておいて逮捕の瞬間まで報道しないとかはある。なぜかと言うと訴訟リスクがあるから。逮捕となった場合、事実ベースでの報道となるのでリスクがない。
裁判所の真実報道についてのハードルが高いというのも原因として考えられるが、コンプライアンス追求の結果はないかとは思う。



僕が考えるのは、前に地元の利点として書いた「顔が見える距離」だからかと思う。
利害関係者に遠慮と言う意味ではない。地元で、顔が見える中での報道は、受け手と送り手が近い距離同士で見えるだけに、「あそこのおばあちゃんが、このニュース見て不安に思わないか」と書けなくなってしまうことがあるのではないかと思うのだ。
別にスポンサーには遠慮しないが、地元民や地元民意には遠慮が働いてしまう。

まして原発に関しては福島県民は共犯者だった。なぜならば福島県議会によって誘致されたから。
 共犯者と言うか、なんとなしにの「なんか不安だけど、まぁ俺たちが誘致したんだよなぁ」という居心地の悪さに名前をつけるとするならば、そんな言葉になるのかといった程度の意味だけど。
「県民とともにあるメディア」としては、県民のそのなんとなくの共犯者心理と、なんとなくの安全神話に切れ込みを入れるのをためらったのではないかと思う。
 だから、今となっては予言に近い、共産党の原発総点検申し入れも無視してしまった。メディアも議会も東電も。

そういう居心地の悪さから、結局徹底検証とまでならなかったのではと思う。


テレビ報道はどこもニュースネットワーク制で、県域放送の集合体として全国ニュースが作られる。
ということは、福島地元局が声を上げなければ、誰もあげる人はいなくなる。

何もなければ問題ない。あるけどない。ただ、1000年に1回の地震が来てしまった。



そして3.11、木鐸はならなかった。

by soulwarden | 2011-04-20 04:04


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